そんなわけでKKは今ベッドで臥せっている。
 水曜日はふらふらになりながらもなんとか仕事を終えた。そのまま飯も食えずに一日中眠っていた。木曜日、念願の休暇である。とはいえまだ熱は高いようで、起き上がろうとするだけで全身の痛みと悪寒に襲われた。
 買い物の必要性を思い出したのは残り少ない牛乳を飲み干した時だ。まぁ一日ぐれぇ食わなくったって死なねぇしなあとは思うが、明日も熱が下がらなかったらどうしようというほのかな不安にも襲われた。
 ――ま、いいや。
 潰した牛乳パックをゴミ箱へ放り込むとKKはベッドに戻った。うなり声を上げつつ横になり、締め付けるような頭の痛みに眉をしかめる。息を詰めて痛みをやり過ごし、大きく息を吐くと、とにかく眠ろう、と自分に言い聞かせた。
 明日になればちょっとはマシになっている筈だ。もし駄目でも――まぁいい、その時に考えよう……。
 実際回復への兆しはわずかだが見えていた。昨日よりは熱が低いし、少しだけなにかを食いたいような気分でもある。だが起き上がって食事の仕度をするほどの気力はない。こういう時の為に缶詰買っときゃいいんだよな、と思いながらKKは眠った。独り暮らしは長いくせに、だからなのか習慣はなかなか変えられない。
 翌日の金曜日は会社の定休日である。梅雨入りを済ませている筈なのに青々と晴れ渡った空がカーテンの隙間から見えた。KKはしばらく青空を眺めたあと、枕元に置いた携帯電話へと視線を移した。
 ――どうすっかなあ。
 時刻は午前十一時を指していた。昨日一日ずっと眠っていたお陰か、だいぶ気分は良くなった。だが出かけるほどの気力は戻っていない。それでも腹が減ったので食料の調達をどうすべきかと悩んでいるのだった。
 ここで榊を当てにするのは癪に障る。とはいえほかに用事を頼める知り合いなど、片手で余るほどしか存在しない。それらのうちの誰に助けを求めようかと天井を睨みつつ考えた。だがすぐに考えるのが面倒になり、借りは作りたくなかったが仕方がない、と携帯電話を拾い上げた。
 着信履歴を呼び出して目当ての人物に電話を入れる。もしかしてまだ寝てるかも、と思い至った時は、既にMZDの寝ぼけたような声が聞こえていた。
『もしもーし』
「悪い、寝てた?」
『んー、寝てたけどね。大丈夫よ。なに?』
 だるそうな声に気後れを覚えつつも、KKは買い物を頼めないかとMZDに訊いた。
『いいけど、どしたん。またケガ?』
「いや、風邪引いて寝込んでんだ。家に食う物がなにもなくってよ」
『風邪? この時期に!? KKさんったらお約束なんだからー』
 続くけらけらという笑い声を耳にしたとたん、KKは通話を切って携帯電話を放り出した。やっぱり人に頼ろうとしたのが間違いだった、と胸の内で呟いて布団を頭からかぶる。
 呼び出し音が鳴り始めたのはすぐあとのことだった。
『なんだよ、怒ることないじゃん』
「……悪かったよ。俺のことは忘れてゆっくり寝てくれ。じゃあな」
『だから怒んなって。買い物だろ? いいよ、行くよ。なにが欲しいん?』
 しばらく迷ったのちに、冷凍うどんとレトルトのシチューを注文した。共に温めるだけだから面倒はないし、奴に作らせたとしても失敗することは有り得ない。
「あとポカリとなんか甘いもん。――アイス食いたい」
『アイス? 何味がいい?』
 バニラ、と即答しながら、風邪っつったらアイスだよな、なんで忘れてたんだろうとKKは考えた。そうして電話を切り布団にもぐり込んだ時、風邪の定番としてアイスが登場していたのが子供の頃だったからだと思い出した。
 扁桃腺が腫れ、喉が痛くてなにも食べられない時、榊が用意してくれたのがアイスだった。口のなかで溶ける冷たさが、体の熱を少しだけ和らげてくれるような気がした。すぐに良くなる、というおまじないのような呟きを思い出して、KKは少しのあいだ眠りに落ちた。
 目を醒ましたのは窓ガラスを叩くコツコツという音によってだった。開いてるよ、とベッドのなかで声を上げると、「お加減いかが?」と言いながらMZDがひょっこりと顔をのぞかせた。
「お前、一度でいいから玄関から来いよ」
「そんなの、どうでもいいじゃん」
 お邪魔しまーすと言って手にしたビニール袋をテーブルに置くと、脱いだ靴を持って玄関へと飛んでいく。KKはその後ろ姿を見送りつつ、のろのろと布団から抜け出した。
「どうよ具合は?」
 ビニール袋から品物を取り出していると、ペットボトルの容器に濡れて貼り付いたレシートをみつけた。KKは、まぁまぁと答えておいて財布を取り出し、テーブルの上に金を置いた。
「いいよ別に。お見舞い」
「じゃあ寝てるとこ起こした迷惑料」
 MZDは苦笑して金を拾い上げた。無造作にズボンのポケットへと突っ込む。
「あのね、ほかにも色々買ってきたのよ。缶詰とかゼリーとか」
「あー、ビタミンCな。取らないといかんよな」
「あと俺の飯とか」
 ――どおりでうどんが二つあるわけだ。
 KKは袋の底に重ねられたアルミ容器をじっと見下ろして、今更のように納得した。
「どれ食う?」
 奴は既に作ることを決めているらしく、うどんの容器をひとつ取り出すと上にかぶせてあるビニールを破り始めた。ミカンの缶詰とゼリーとお湯を注ぐだけのコーンスープと冷凍うどんとレトルトシチューとレトルトのお粥とアイス、と順番に並べて、しばらく迷った末にKKはうどんの容器を押し出した。
「一緒に作って。あとのはしまっといて」
「オッケー」
 ポカリスエットのペットボトルを抱えると、KKはベッドにもたれかかるようにして床に座り直した。体を落ち着かせると側頭部に鈍い痛みが走る。まだ熱があるのだろうか。
「寝てなくて平気なん?」
 ガス台の前に立ったMZDが不安そうにこちらを見ていた。KKは小さく首をかしげ、
「食ったら寝る」
 明日仕事なんだよ、と呟いて煙草へと手を伸ばした。
「風邪引いてる時ぐらい煙草やめなよ」
「風邪の時ほど吸いたくなるもんなの」
 そう言って火をつけると、これみよがしに大きく吸い込んでみせる。
「今度ワンカートン分、鍋で煮込んでエキス作ってやるよ。コーヒーにでもまぜて飲め」
「やめてください、一発であの世行きです」
 奴はおかしそうにくすくすと笑っている。まさか本気でやらないだろうが、なんとなく脅しが怖くなって残りの煙草はライターごと棚の上へとしまい込んだ。病人にも優しくない奴だな、と思わず内心で呆れ返る。そういえば以前腹を刺されて寝込んでいた時も、平気で傷口を殴りつけたような男だ。選んだ相手が間違っていたかも知れない。
「お前ね、自分が不死身だからって、人間のことバカにしちゃいけないよ」
「バカになんかしてないよ。限りある命なんだから大切にしろって言ってんの」
 何気ない言葉がちくちくと刺さるように感じるのは、どこか後ろめたさがあるせいなのか。
 KKは膝を抱えてうずくまるようになりながら黙って煙草をくゆらせていた。MZDは割り箸でアルミ製の鍋の中身をつつき、小さく鼻唄を歌っている。
「じたばた、みっともなくって悪かったな」
「なにー?」
「別に」
 KKは苛立たしげに煙草をもみ消すと床の上で横になり、ベッドから掛け布団を引きずりおろしてくるまった。物音に気付いてMZDが振り返り、
「寝るならベッドで寝なって」
 呆れたように声を上げた。
「起きるの面倒臭い」
 ぼそりと呟いてKKは目を閉じる。近付いてくる足音につられてうっすらと目を開けると、すぐそばに奴がかがみ込んでくるところだった。
「熱は?」
 そう訊きながら、前髪を払って額に手を当てる。
「知らない。測ってない。――おとといだかは八度四分あった」
「それで仕事したん?」
「しょうがねぇだろ」
 手を払いのけるついでに布団を引っぱり上げた。呼びつけておいてなんだがいちいち心配されるのが煩わしくもあり、甘やかされているかのようで落ち着かない。
 そんなKKの心中を知ってか知らずか、MZDはいつもののほほんとした声を上げる。
「そろそろうどん出来るよ。食うんだろ?」
「食う」
 KKはもぞもぞと布団から起き上がって、鍋敷きに出来るいらない雑誌を探し始めた。ともあれ今は風邪を治すことが先決だ。
「あい、お待ちどう」
 雑誌の上に鍋を置くと奴は一旦台所へ戻って七味と割り箸を持ってきた。KKは湯気の上がるうどんを見下ろし、ひと息ついたあとに決意を固めて割り箸を拾い上げた。
「お前が風邪引くのって、珍しい気がするよね」
 テーブルの向かい側に鍋を置いて座り込みながら奴が言う。
「ケガで寝込むっていうのはイメージあるけど」
「……まぁな。刺されたり殴られたり骨折ったり撃たれたりってのは、確かにしょっちゅうだけどよ」
「いや、撃たれるのがしょっちゅうの一般人は居ないと思う」
 MZDのくすくす笑いにつられてKKも苦笑を返す。
「ジジィが仕事復帰してさ」
「へえ? 良くなったんだ」
「良くなったかどうかは知らないけど」
 本人が動けると言うのであれば止める謂われもない。
「ただ、仕事始めでいきなり雨のなか動けってのは酷じゃん。寝込まれたりしたら、それこそ目も当てられねぇし」
「そんで代わりに、お前が雨のなかで仕事したわけだ」
「俺だけじゃなかったけどな」
 それでも率先して雨のなかへ出ていったのは事実だ。どうせ誰かが濡れなければならないなら、自分が行くのが一番面倒なくていい。まぁそれで風邪を引いていればザマないわけなのだが。
「お前って、たまに気ぃ遣いすぎる時あるよな」
 思いがけない言葉にKKはつと顔を上げた。意味がわからず、眉をひそめて怪訝そうに見返してしまう。
「ジィサンも入院長かったし、心配なのはわかるけど」
 別に心配などしていない。咄嗟にそう思ったが言葉にすると言い訳になるような気がしてKKは黙り込んだ。
「面倒なのが嫌なんだよ。――そんだけ」
 MZDはなにを思ったのか、おかしそうに小さく笑うだけだった。
 アイスは半分食べて残してしまった。調子付いて食い過ぎてしまった感がある。KKは込み上げる吐き気を飲み下すと息を整えて薬を口に放り込んだ。
「俺もちょっと寝てっていい?」
 食い残したアイスをスプーンですくいながら奴が訊く。KKはうなずいてグラスの水を飲み干した。
「毛布あるから使っていいぞ」
「サンキュー」
 ベッドに戻る体が重い。ようやくのことで横になると毛布と布団を引っぱり上げ、大きなため息をついた。頭が締め付けられるように痛かった。
「あんま無理すんなよ」
 明日も休んじゃえば? と奴はあっけらかんと言い放った。
「そういうわけにもいきませんで」
「金に困ってるわけでもなし」
「……そういう問題じゃねぇんだよ」
「そうなんだろうけど」
 MZDは素直に非を認め、ごめん、と呟いてベッドに寄りかかる。そうしてアイスをすくい、スプーンを目の前にかざすと「食う?」と訊いてきた。KKはしばらく考え込んだあとに小さく首を振った。
「これ以上食ったら吐く」
「きったねえな」
 MZDはいつもの調子でけらけらと笑っている。寝ているところを叩き起こして買い物まで頼んだというのに、全然気にしていない風なのが有り難かった。さすがに「寝ゲロ吐くなら洗面器持ってきてやるぞ」というひと言には閉口したが。
「お前もとっとと寝ろ」
 くだらねぇ、と呟いてKKは目を閉じた。布団を口元まで引っぱり上げて、かすかな頭痛にまた眉をしかめる。
 しばらくのあいだ沈黙が続いた。
「電話、ありがとな」
 うつらうつらとし始めた頃、奴の呟きがかすかに聞こえた。KKは最初夢のなかで呼ばれたのだと勘違いして、なに、と訊きながら目を開けた。
 奴はベッドに頬杖を付いてこっちを静かに見下ろしていた。そうして確認するようにもう一度、な、と呟いた。
「すぐに良くなるよ」
 そう言って額にかざした手が、ひどく冷たかった。じんわりとほどけるように頭の痛みが薄れていくのがわかった。KKは静かに安堵の息を吐いて全身の力を抜き、体を包み込む熱と寒さに、小さく身震いをした。
「まだちょっと熱あるね」
「ん……」
 それでもきっと、明日には治っている。妙な確信のなかでKKは不意に眠りに落ちた。


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