そもそも六月を水無月と呼ぶのは旧暦の頃の習慣だ。
旧暦の六月は今の七月から八月、ちょうど夏の暑い盛りに当たる。そんな時期、田んぼに水を入れるから川に水がなくなる、で「水無月」という意味らしい。
何故そんなことをKKが考えているかというと、だったら新暦にあわせて水有り月でいいじゃねぇか、と雨に打たれつつマンションの植え込みのゴミを拾い集めているからである。
「だいたいでいいからな」
声に顔を上げると、榊のジジィが二階の窓から顔を出して心配そうにこっちを見下ろしていた。おーと返事をしながらも、適当で済ませられないのはKKの性分だ。植え込みのなかのゴミを拾い、排水溝の泥を掻き出し――と、雨に濡れながらあっちこっち駆け回っている。
「合羽でも持ってくりゃ良かったね」
マンションのエントランスを洗っている同僚が水びたしのKKを見てからかうようにそう言った。KKは今更遅ぇよ、と作業用のボロタオルで手を拭くと、置きっぱなしのバキュームを拾い上げた。そうして床を洗ったあとの汚水を吸い込み始める。帽子の縁から垂れる水が首筋に落ちてひどく冷たい。
「すっげーさみい」
言葉につられたわけではないだろうが、いきなり大きなくしゃみが飛び出た。
「風邪引くなよ」
「……もう遅いかも」
同僚は苦笑するばかりだ。KKはつなぎの首元を引っぱってわずかでも温もりを得ようとした。
「やっぱジィサン当てにして現場組むの間違ってるよなぁ」
モップで床を拭き始めたKKのぼやきに、同僚は、さあねぇと首をかしげる。
榊が長い入院を終えたのはゴールデンウィークが始まった頃のことだった。それから五月のあいだはずっと自宅療養で閉じこもっていたのだが、「いい加減体がなまってきた」と言って六月一日から復帰を決めてしまった。つい一週間前のことである。そうして今日がその復帰第一日目なのだが、生憎の雨模様となった。
このマンションは定期といっても、実際入るのは二ヶ月に一度だけだ。その分窓や蛍光灯、植え込み部分も含めた大掛かりな作業となる。雨降りなので窓ガラスの外側は後日に譲るとはいえ、ほかのところは全て終わらせなければならない。日曜日で人手が足りないのは事実だが、さりとて病み上がりの老体に雨のなかゴミを拾ってこいとはKKにも言えない。――そんなわけで自ら名乗りを上げて濡れ鼠になることを志願したのだった。
「まぁでも、やっぱり社長が居ると安心するよ」
同僚はエントランスの残り部分を洗い終わり、KKがバキュームで汚水を吸い込んだあとをモップで拭いている。もう一人は向かいの棟で窓ガラスを担当中だ。ここが終わったらあとはもう帰るだけ。そう考えれば、さほど焦ることもないんだなと、ようやくKKの心中に余裕が生まれた。意識してはいなかったが、どうやら榊の復帰ということでいささか緊張していたらしい。
ほっと気をゆるめた瞬間、また大きなくしゃみが出た。
「社長、お願いがあるんですけど」
雨降りのマンション清掃から二日後、火曜日の夕方五時のことである。
一日の作業を終えて翌日の準備も済ませた社員・アルバイト一同は殆どの者が帰宅していた。事務所に残っているのは取引先からの連絡を待っている事務員と急に入ってきた単発作業をどこに組み込もうかと予定表を睨む榊、そしてその向かい側の机でだるそうに「お願い」を申し出たKKの三人だけだった。
「明日休ませて」
「……」
榊はKKの顔をちらりと見てから予定表に視線を落とした。そうしてボールペンでなにかを書き込もうとしながらも、不意に思いとどまって「うーん」とうなり声を上げた。
「明日は夜勤があるんだよなぁ」
「風邪引いた。熱三十八度四分」
「バイトが出れないって言うから、仕方なく佐々木に出てもらってるしなぁ」
「やっぱ誰かさんの代わりに雨んなか走り回ったせいだよね。あー、すっげー喉いてぇ」
「明後日ならなんとかなるんだけどなぁ」
噛み合っているようないないような会話がおかしいらしく、隣に座る事務員がくすくす笑っている。KKは熱で朦朧としながら事務員へと振り向き、
「うちの社長って鬼だよね」
「さあ」
一番の古株であるその女性事務員はパソコンに向かうフリをしてすっとぼけてみせた。KKは同意が得られなくて拗ねたように唇を尖らせる。その時「なあ」と声をかけられて振り向くと、榊がいささか困ったような顔つきでこちらを見ていた。
「明日一日、なんとかならんか」
「無理」
自分の限界値を計った上での即答だったが、榊も、なら仕方ないなとは言わずに黙り込んでいる。どういう道筋で説得するのが一番なのか考えているようだった。KKも同じような表情になり、どう説明したらこの発熱の辛さを理解してもらえるんだろうと珍しく考え込んだ。自分は今とても困っているんですという空気がお互いのあいだを三回ほど行き来した。こういう柔軟な姿勢をKKが見せるのは珍しい。
「香月に連絡入れておくから点滴打ってもらえ。――明日だけ。頼む」
「……」
KKはしばらくのあいだむっつりと黙り込んでいたが、やがて帽子をかぶり直すとのろのろと立ち上がった。
「木曜日は休むよ」
「ああ。――悪いな」
「別に」
そう言いながらも、事務所のドアを閉める手に力がこもる。廊下を歩く合い間に舌打ちが洩れた。この二人は互いを知らぬ間に気遣っているのと同じほど、自覚せぬ間に、互いに甘えあっている。