目が醒めた時、窓の外には朝の光があった。時計を見ると五時半を過ぎたところだった。ちょうどいい。KKは目をこすって大きく伸びをする。もう起きよう。
ベッドで起き上がるとテーブルに載る缶詰の山が目に飛び込んできた。三角柱の形に組み上げてある。てっぺんにメモがあって落ちないよう煙草の箱で重石がしてあった。
『お見舞い。愛してる。』
KKはメモを二回読むと、小さく鼻を鳴らして指で弾き飛ばした。床に落ちたまま目もくれずにトイレへ向かう。途中、台所でもメモをみつけた。炊飯器を載せている背の低い棚の上に使いかけのマヨネーズが置いてあり、『ごめん、入らなかった。』と書いてあった。
――なんで?
なにが入らないんだ? という疑問はさておきトイレである。用を足してついでに顔を洗い歯も磨く。朝飯どうしようかな、とぼーっと考えながら目を上げた時、鏡のなかにあるくたびれた自分の姿に気が付いた。
――だらしねぇ。
どこのフーテンだよ、おっさん、と思わず声を上げて笑ってしまった。
腹具合と相談して、結局缶詰で済ませることにした。現場に行く途中でなにか買えばいい。どうせコンビニに寄るしな、と思いつつ冷蔵庫の扉を開けた時だ。
「…………あのバカ…っ」
ようやくメモの意味が理解出来た。
冷蔵庫のなかの隙間を埋めるように大量の缶詰が詰め込まれていた。これって取り出せるんだろうかと疑問に思うぐらいギチギチに詰まっている。どう考えたって常温で長期保存の可能な缶詰が外だろう、なんでわざわざマヨネーズ出すかなおい、と心のなかで百回ほど突っ込んだ。
そうして大量の缶詰を前にうなだれて、KKはやれやれと首を振った。
晃はバケツを持ち上げると中身を静かに流しへと放り出した。漂白剤の鼻につく匂いに眉をしかめながら、現れたタオルを一枚一枚、空になったバケツに戻していく。
店で働き始めて半年が過ぎただろうか。開店の為の作業はほぼ毎日自分が担当しているが、その時大抵MZDも店に居る。最初は見張られているのかと緊張したものだが、今ではもう馴れてしまった。この時間、MZDは事務作業をこなし、自分は黙々と掃除をする。嵐の前の静けさといったこの時間帯が、晃は結構気に入っている。
「プールの匂いがする」
漂白剤の匂いが流れたのだろう、MZDはストローを口にくわえて笑った。
「塩素ですね。消毒液」
「酸とまぜると毒ガス出るって知ってた?」
「はい」
晃の素っ気無い返事に一瞬面食らったような顔をすると、MZDはつまらなそうに、ちぇ、と小さく舌打ちをした。それでもスツールに腰をおろして書類をめくる姿は実にご満悦の様子だ。わかりやすい人だな、と晃は内心で苦笑を洩らし、「なにかあったんですか」とタオルを絞りながら訊いた。
「なんで?」
「幸せオーラがにじみ出てます」
こんな風に、と晃はタオルを握ったまま大まかにMZDの周りの空間をなぞってみせた。それを見たMZDは言葉を詰まらせてにやにや笑った。そうしてなにかを言いかけて口を開きながらもあわてて書類に目を落とし、
「べっつにー」
否定する口元が嬉しそうに笑っている。追及したいところだが、のろけ話に付き合わされるのも困るので晃はそれ以上なにも訊かなかった。MZDも誤魔化せたとは思わなかったが、
――だってさぁ。
自分でも、上機嫌でいることを認めるのは少し怖い。
MZDはカウンターに置いた携帯電話を見た。少し考えてからそれを手に取ると、画面を開いて着信履歴を呼び出した。
上から二番目にKKの名前がある。
互いの番号はずっと以前に交換してあったが、実際にかかってきたのは昨日が初めてだった。誘いをかけるのは常にこちらからだったし、店へ来たとしても、用があるのは寝床代わりのソファーであって自分じゃない。
――風邪治ったかなぁ…?
かけてみたいけれど、なんとなくためらってしまう。たった一度助けを求められただけであの男のなかに入り込めたと思うのは早計だろう。
KKのなかには、なんにもない、がある。
他人から向けられた感情の全て、関係の全てを放り込んでおくところ。そうしてあの男はなにも見なかったフリをして今までを過ごしてきたし、今もそうある。自分との関係も同じことだ。
ちょっとしたことがきっかけで知り合って、それなりに話をするようになり、やがて殺しをしていることを知った。
勿論何度も止めようとした。理由を聞いてもKKははっきりと答えなかった。まるで自分でも考えたことがないといわんばかりの表情で、とぼけたように首をかしげるだけだった。それはそうだろう。KKのなかには榊しか居ない。良くも悪くも、KKの人生を方向付けている人物だ。
自分が正義になって悪を糾弾することは簡単だが、MZDはそんなことをする為にこの世に居るわけじゃない。KKが選んだことであればそれでいい。ただ思うのは、榊と同じ位置に置いてくれとまでは望まないが、せめて心の片隅にでも自分の居場所を残しておいて欲しい――などと、いささか嫉妬めいたこと。
「……なんかムカつく」
呟きに晃が振り返ったようだが、MZDは気付かないフリをして携帯電話の画面を睨み続けた。
――なんで俺が遠慮しなきゃいけないわけ? 本当なら向こうから礼を言ってくるべきだろうに今の今までなんの連絡もないとはどういうことだ――と、MZDは半ばキレて、画面に見えていた着信履歴の番号に電話をかけ始めた。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、KKの声が聞こえてきた。
『もしもし』
「よー、具合はどうよ、間抜け野郎」
しばらく沈黙が続いた。通話が切れなかったのは幸いだ。
『……まぁいいや。ちょうど電話しようと思ってたとこ』
「ふーん。寝てるとこ起こさないように気ぃ遣ってくれたのねぇ」
『お前、今暇か?』
言葉を遮るようにKKが訊いた。
「暇だったらどうすんのよ。また買い物?」
『今から五分以内に事務所来いよ』
「なんで」
『……』
「もしもーし?」
『来れたら飯奢ってやる』
「そりゃありがとさん。でもなんで?」
『……嫌なら無理にとは言わねぇよ』
「別に嫌じゃないけどさ」
KKの口からありがとうのひと言を引き出したくてMZDはしらばっくれる。電話の向こうで言いよどんでいる様子がありありと伝わってきていた。MZDはにやにや笑いながらボールペンをもてあそび、
「ね、なんで?」
と、わざとらしく訊いてみた。しばらく互いに無言の時間が流れた。そうして、ちょっと意地悪し過ぎかなぁと思った時だ。
『缶詰の礼だよ、嫌なら来んな!!』
耳をつんざくような怒鳴り声が聞こえたあと、唐突に通話が切れた。MZDは思わず画面を茫然とみつめ、それから不意に大声で笑い出した。なんですかと晃が不審がって訊くのに答えもせず、もう一度KKへと電話をかける。
『――なん』
「一分で行く! KK大好き!」
そうして今度はこっちが唐突に電話を切り、スツールから飛び降りた。
「デートしてきまーっす!!」
晃はテーブルの下にモップをかけながらいってらっしゃいと呟き、でも今KKとかって言わなかったっけ? と首をかしげた。
――まぁいっか。
既にMZDの姿はフロアから消えている。カウンターに置き去りにされた書類を片付けるという仕事が追加されただけのこと。気にしない気にしない、と呟いて、晃はいつもの如く開店準備を続けるのであった。
KKが勤める清掃会社の事務所は五階建ての古めかしいビルのなかにある。さほど広くない三階を丸々借り切ってフロアを半分に仕切り、片方は事務所兼会議室、もう片方は倉庫を兼ねたロッカールームとしている。
ビルを管理する会社は当然の如く別にあり、建物内部に設置された公共トイレや外階段なども、管理会社が依頼したメンテナンス業者が清掃を請け負っている。別に自分らでやってもいいのだが、めんどくせぇし金にもなんねぇし、ということでKK達も放ってある。
ただ時折、KKだけが気まぐれに屋上へ上がり、排水溝に溜まったゴミ拾いをすることがある。
用意するのは箒とちり取りと空のコンビニ袋、そして勿論煙草とコーヒー。仕事を終えて事務所に戻り、なんとなくすぐ帰る気になれない時、空を焦がす夕日を見ながら、未だ忙しない地上を見下ろしながらゴミを掃く。苛立たしげに鳴らされるクラクションの音や、どこかの店から聞こえてくる客引きの声。そういった物音を聞きながら、風に吹かれて煙草を吸う。
のんびりとした一日の締めくくり。
MZDからの電話を受けた時も、KKは屋上に居た。だけど実は今日は順番が違っていた。奴へ電話をかけようと思って屋上にのぼってきていたのだ。別に聞かれてまずい内容ではなかったけれど、なんとなく榊に知られるのが嫌だった。
そうして電話を受け、怒りに任せて電話を切り、一分で来るってそれは無理なんじゃねぇのと煙草に火をつけた時のことだった。
不意に背後に殺気を感じた。
殺気とは違うかも知れないがなんとなく嫌な気配。KKはあわてて箒を拾い上げると振り返ろうとした。そのとたん、
「やってまいりましたー!!」
横殴りの状態でMZDが抱きついてきた。KKは咄嗟のことでバランスを崩し、エアコンの大きな室外機に頭をぶつけてしまった。はずみで煙草が口からこぼれ、哀れ火をつけたばかりの一本が無駄になったわけである。この貸しはでかい。
「……てめぇ、俺の背後から来るとはいい度胸だな」
「だって方向こっちだったしー」
奴は全然頓着しない風で、満面の笑みを浮かべながら首元にぐりぐりと頭を押し付けてくる。いい加減にしろ、と脇腹を殴ってようやく解放された。
――マジに一分で来やがった。
KKは腕時計に目をやって内心で呆れ返っていた。MZDの方はといえば、殴られた脇腹をさすりつつ少しもめげた様子など見せず、
「飯いこ、飯!」
「わかったよ。今着替えてくるから待ってろ」
そう言ってKKは落とした煙草を踏み潰すと箒で掃き取った。そうして道具を手に、階下へと続く階段に足を踏み出した。
梅雨時の空は薄曇りだ。まもなく夜がやって来ようとしている。
なんにもないにはなにがある/2007.04.29