日常が戻ってきた。
ケイは六日から仕事に出かけるようになり、俺は相変わらずの引きこもり生活。以前と同じ空気に安堵したが、それは同時に奴のやかましさが戻ってくるということでもあった。
べらべら喋っている時はどうでもいい。対処に困るのは奴が沈んでいる時で、しかも新年はそんな姿を見ることが多かった。
愚痴を言うわけじゃない。悩んでいる風でもない。ただじっと押し黙って俺の足に頭を押し付け、暗い顔でうつむいている。頭を撫でてやれば幾分かは持ち直してみせるが、そうしながらも、時折ひどく辛そうに顔を歪めた。
俺にはなにもしてやれない。
「KK」
そんなことが続いたある日。そろそろ日付も変わるかという頃、奴が部屋のドアを叩いた。
「なんだ」
「入ってもいい?」
いいよと答えて俺はベッドの上で体を起こした。ケイはドアを薄く開けて顔をのぞかせ、相変わらず浮かない表情で俺を見た。寒いのか毛布を体に巻き付けている。
ドアを閉めるとベッドの前までやって来てしゃがみ込んだ。
「……あのさあ、」
それきり言葉が途切れてしまう。きつく唇を噛み、なにかを決意しかねるみたいにあちこち視線をさまよわせている。
「……俺、もっかい裏の仕事に戻ろうかと思ってんだけど」
「やめとけ」
即答していた。ケイはムッとした顔で俺を睨み付けた。
「なんで?」
俺は答えられない。逃げるように目をそらせるだけだ。
「どうせ『お前には無理』ですか」
「……」
「……ジィさんにも言われたよ」
自嘲気味に笑うとまたうつむいてしまう。俺はなんて言葉をかけたらいいのかわからなかった。床に足を付ける恰好で座り直すと、案の定奴が頭を押し付けてきた。
「KK」
かすかな呟きは、今にも消えてしまいそうだ。
「頭撫でて」
俺は無言で腕を伸ばした。茶色い奴の髪の毛。もうすっかり俺の手に馴染んでいる。
「裏の仕事って大変?」
「……まぁ、大変な時もある」
「なんで俺は駄目なの?」
危うく殴りそうになった。いつまでこだわってんだと怒鳴りつけてやりたかった。だけど、ケイの疑問も理解出来る。説明もなく、ただ駄目だと言われて納得出来る方がおかしい。
とはいえ俺もどう答えたらいいのかわからなかった。こいつを引き止めているのは単に俺のわがままだ。もしかしたらジジィは、機会があったら使ってみようと思っているかも知れない。ある日現場へ行ったらケイが俺の代わりに銃を握っていることがあるかも知れない――が。
怖いのは、もしこいつが初仕事を終えたあとの俺みたいになったら、ちゃんと呼んでやれるだろうかということだった。正直その自信はなかった。俺は確実にケイに依存していたが、こいつにとっての俺が同じような存在であるとはとても思えなかった。
「お前は来なくていい」
そっぽを向いたまま呟くと、ケイは静かに顔を上げた。俺の腕をつかみ、そっと頭からどけた。そうして腕をつかんだまま俺を見た。
「KK」
「……」
俺らは一体なにをやってるんだろうと、頭の片隅で思ったことを覚えている。
振り向くとケイは真剣な表情で俺を見ていた。仕事の話だったらもううんざりだ。そう思いながら暗い気持ちで奴の言葉を待った。
ケイは一度強く俺の腕を引いた。つられて身をかがめると、やけに思い詰めたような表情の奴と視線が合った。
「KK」
「なんだよ」
「――あのさ、俺、」
だけど、言葉は続かなかった。奴は唇を噛みしめてうつむき、小さく首を振った。なんでもないと言って立ち上がった時の横顔がまるで泣き出しそうに見えて、
「……なあ」
「もー寝る! おやすみ!」
自棄のように声を上げると、俺の返事も聞かずに部屋を出ていってしまった。閉じた扉に向かっておやすみと呟いたまま、俺はしばらく動けずにいた。
翌朝、目を醒ますとケイの姿は消えていた。
だけど晩飯の頃になってひょっこり戻ってきた。黄緑色のつなぎを着ていたので、どうやら現場仕事だったらしい。
俺はちょうど飯の最中で、お前も食うかと訊いたが奴はいらないと首を振った。よっぽど寒かったのか、帰ってきたというのに奴は上着も脱がずマフラーをぐるぐる巻いたまま、テーブルの向こう側に腰を下ろした。
「KK」
声に顔を上げると、ケイは近頃見馴れてしまった例の強張った笑顔で俺を見ていた。
「――今日、すっげー寒かったね」
「そうなのか?」
一日家を出なかったから外気温がどれくらいなのか知らずに居た。ケイはマフラーをいじりながら「寒かったよ!」と大声で重ねた。
「なのに日の出前から仕事させられてさあ」
「大変だったな」
おかしな間を空けてから、奴はうんとうなずいた。
「……」
着替えもせずにずっと座ったままだ。視線を感じたので顔を上げると、
「……あのさ、」
「うん」
「……KK、俺」
昨日と同じだった。思い詰めたような表情。重苦しい空気。正直うんざりだと思った。なんだか知らないが、言いたいことがあるならとっとと言いやがれ。
俺のそんな態度に気付いたのか、ケイはあわてて明るい表情を作った。近頃見馴れた、例の強張った笑顔を浮かべて、「あのねー」と言った瞬間だった。
笑顔が崩れて、奴はいきなり泣き出した。
「……ごめん、やっぱ無理だ」
しばらく泣いたあと、誤魔化すように前髪を掻き上げながら呟いた。
「無理。……ごめん、俺出てく」
「おい、」
「ごめん」
一度も笑わなかった。
一度も俺を見なかった。
見ないまま、置いたばかりの荷物を拾い上げて玄関に向かった。
「荷物、あとで取りに来るから」
「待てよ」
「ごめんね」
最後の最後でやっと振り向いた。でもその瞬間に涙が落ちるのが見えた。俺はそれ以上なにも言えず、ただ玄関に立ち尽くして扉が閉まるのを見守っていた。
何度も携帯電話にかけた。でも呼び出し音が続くばかりで奴が出てくれることはなかった。留守録に切り替わるたびになにか伝言を残そうかと迷ったが、なにをどう言えばいいのかわからなかったのでそのまま切った。
念のためにとジィさんや鍵屋のオッサンにも連絡してみたが、ケイの居場所はわからなかった。
――なんだよ。
なんだってんだ。
奴の泣き顔が頭から離れなかった。新年からのことを何度も思い返して、なにがまずかったんだろうと考えた。でも思い当たることはなにもなかった。確かに年末辺りはぎくしゃくしていた。だけどあれは、――あれは、違うんだケイ。
目が醒めるたびに奴の部屋のドアを叩いた。いつかなんでもなかったように居てくれるんじゃないかと期待しながら。でもケイは居なかった。あいつが居ないという事実だけがそこにあった。
――なんだよ。
なあ、なにがあったんだ。ずっと辛そうな顔してた。それは知ってたよ、でも俺になにが出来た? お前はなにも言わなかった、ただなにかをこらえるみたいに唇噛んで、いつもうるさいお前が、一体なにを我慢してたんだ。
なにが「ごめん」なんだ?
なにが「無理」なんだ?
一週間経っても奴の居所はつかめなかった。窓の外では冷たい風が吹き、一度だけ雨が降った。仕事に出ていないわけはないのだろうが、ジジィは「知らねぇなあ」ととぼけるばかりだった。
眠れずに朝を待つことが増えた。元々夜型の生活だったが、着替えでも取りに戻ってくるんじゃないかと思うと、おとなしく眠りにつくことが出来なかった。弱々しい朝の光が静かに部屋を明るくするのを眺め、今日も戻ってこなかったと落胆のうちに目を閉じた。
静かで落ち着かなかった。
なんでこんなに静かなんだろうと理由を考えると、また眠れない。そんなことの繰り返しだった。
ある晩、ふと思い立って奴の部屋のドアを開けた。あまり見馴れないケイの部屋を、居間からの明かりだけで眺めてみた。
ベッドの上の掛け布団は乱れたままで、まるでついさっき奴が起き出してきたように見えた。でもここは一週間以上主を失っている。
俺はのろのろとベッドの前まで歩いていって腰を下ろした。冷たいシーツに横顔を付けて目を閉じた。
『KK?』
不思議だった。なんであいつの声が聞こえないんだろう。なんであいつの手が俺の髪を撫でていないんだろう。なんでこんなに、
――静かだ。
なにがあったんだ。頼むよ、教えてくれよ。このまま顔も見ずに終わるのは、それはちょっとないだろう。
聞こえるのは目覚まし時計の秒針の音だけだった。俺は一人きりだった。ケイと出会ってここで暮らし始めて、そのままやっていけると思っていた。自分で望んで手に入れた自分の居場所。――ケイが足りない。住むだけだったらどこでもいい。だけどここは静か過ぎる。あいつが居ない。
どこにも居ない。
ふと気を緩めた瞬間、不覚にも涙がこぼれ落ちた。ケイが居なくなってずっと混乱していたのだとようやくわかった。
結局俺は見捨てられるのか。俺を俺として受け入れてくれる奴はどこにも居ないのか。それともここが地獄なのか。こんな地獄が待ってたんなら、なんでお前は俺の前に現れた。
『KK』
頭を抱え、うめくようにして泣いた。
ああそうだ、どうせ俺は一人きりだ、生まれた時から一人きりだ――。