呼び鈴が鳴った。
俺はソファーで横になったまま居間のドアをみつめた。一度や二度で帰るようだったら放っておこうと思った。ここしばらくは誰とも話をしていない。起き上がるのも面倒だった。
もう一度呼び鈴が鳴った。宅配便にしてはおとなしい。セールスにしては勢いがない。
無視だ、無視。そう思った時、ドアの向こうでかすかな呟きが聞こえた。
「KK、居る?」
ケイの声だった。俺はソファーの上で跳ね起きて、そのまま固まった。当然鍵は持っている筈だ。なのにあいつは入ってこようとしなかった。
ドアを叩く音が聞こえる。このまま居留守を使ったらあいつはどうするんだろう。試してみたい誘惑にも駆られたが、我慢出来ずに俺は立ち上がっていた。
わざと音を立てて居間のドアを開け、玄関の鍵を開けた。ノックの音は止んでいた。俺は開いてるよとだけ言ってまた居間に戻った。
奴が出ていってから二週間以上が経っていた。
静かにドアを開けてケイが入ってきた。
「……久し振り」
「おお」
俺はソファーに座って雑誌の紙面を睨み付けていた。ケイはなんとかして話しかけようとしていたが、俺が全身で拒否するのであきらめたようだ。ソファーの後ろを通って無言で自室へと消えていった。
俺は雑誌を放り投げて横になった。文字などひとつも頭に入ってこなかった。少しのあいだ、耳を澄ませて奴が立てる物音に聞き入っていた。
ドアの向こうの他人の気配。
「――おい」
起き上がり、ドアの奥へと声をかけた。
「コーヒー飲むか」
「……うん」
台所に行ってコーヒーの準備をした。粉と水を入れ、カップを二つセットしてスイッチを入れる。モーターのうなりが少しずつ大きくなっていく。それに気を取られていたせいか、ケイが台所まで来ていたことに気付かなかった。
「ちょっと話してもいい?」
声に驚きながらも、俺は無関心を装って「なんだよ」と訊き返した。
「こっち見て」
叱りつけるような声だった。俺は不承不承振り返り、流しに寄り掛かるようにしてあいつを睨み付けた。
「俺、KKが好きだ」
どこかあきらめたような顔でケイが言った。
「……俺だって別に嫌っちゃいねぇよ」
「そういう意味じゃなくって――」
あいつは苦笑して首を振り、そのまま泣き出した。
「――ごめん、ちょっと待って」
そっぽを向いて乱暴に涙を拭い、何度か深呼吸を繰り返す。
部屋の静寂を破るのは、徐々に湯が沸く音だけだ。
「俺、KKが好きだ。……友達としてとか、そういう意味じゃなくって。気持ち悪いかもしんないけど、ちょっと話聞いて」
あいつはうつむきながら言葉を続けた。
「最初は、そういうのなかったんだ。普通に、一緒に住む人がみつかったなーって喜んでただけでさ。KKと暮らすの面白いし。俺よくうざいとか言われるんだけど、KKもよく言ってたけど、でも怒らないしさ、結構気が合ってるみたいで楽しかったんだけど」
「……」
「熱出して寝込んでた時ぐらいから、なんか、……なんか、ちょっと違うなーって思って」
茶色の髪の毛が揺れている。あいつの声が耳に飛び込んでくる。
「KKよく頭撫でてくれたけど、そうやってさわられんの嬉しくってさ、もっとさわってーとか、俺もさわりたいーとか、――なんか俺、変でさあ。さわりたいっていうか、手ぇ握りたいとか、……抱きしめたいとかそういうこと考えてて、いや俺ちょっと待てって感じで」
「……」
恐る恐るケイが顔を上げた。まだ話を聞く気があるかどうか確かめているようだった。
「……最初は、なんか誤解してるんだと思ってた。さわられるのが気持ちいいからそう思うだけで、別にKKだからってわけじゃないんだって。だからしばらく考えないようにしてたんだ。言ったって気持ち悪がられるだけだし、そんなんで一緒に住めなくなるのも嫌だったし。……でも違うんだ。俺、KKが好きなんだ」
「……」
「別に元々そうだったわけじゃないよ? 男好きになったことなんか一度もないしさ。だから――どうしたらいいのか、わかんなくなっちゃって」
ずっとなにかをこらえていた。
「ずっと我慢してたんだ。言ったらおしまいだって思ったから。でもなんか、実家帰ってる時とかもずっとKKのことばっか考えててさ、今なにしてんだろうとか、早く会いたいなとか、」
強張ったあの笑顔。
「……ずっと、我慢してたんだけど。でも駄目だって思って。帰ってきてからずっと言おう言おうとしてたんだけど、上手くいかなくって。あの時も、ホントは告白するつもりで帰ってきたんだけど」
そう言ってあいつは苦笑した。
「KK普通にご飯食べてるしさ、なんかそういう雰囲気じゃなかったし、俺も、なんかいざってなったら怖くなっちゃってさあ」
「――怖い?」
「言ったらおしまいだって思ったから。もう友達としても会えなくなるのかなって思ったら言わない方がいいのかなって。でも俺好きだって言いたくってさ、言いたいんだけど、……なんか、怖いのと、ほかのと色々で頭んなかぐちゃぐちゃになっちゃって、」
『ごめん、やっぱ無理だ』
気が付いたらあいつの話は終わっていた。まるで制裁を待つみたいにうなだれている。俺は言葉を探していた。訊きたいことがたくさんあった筈だ。
「――本当に出ていくのか」
「……」
「そうしたいってんなら好きにしろ。ただし絶対に裏の仕事には来るな」
「なんで? 俺、それだけが納得いかないんだけど」
「お前には無理だ」
言った瞬間、耳元で風が鳴った。ライトの細い光の筋が目の前を横切っていく。
「お前は来なくていい」
「――、」
一度叩きつけるとシャベルは驚くほど軽かった。ジジィに止められるまで、俺は男が気を失っていることに気付かなかった。
「頼むからお前は来ないでくれ……!」
――断末魔は聞こえなかった。男は既に気を失って穴のなかで血まみれだった。男は自分がどんな末路を辿ることになるのかよく知っていた。暴れるのを二人がかりで押さえつけ、俺が後ろからシャベルで殴った。穴に落ちた男の頭を何度も何度も銃で撃った。これで本物だなとジジィが嬉しそうに笑った。地獄へようこそ。ここは憧れるような場所じゃない、お前はこんなところ知らなくていい。地獄に居るのは俺一人でたくさんだ、そうだ、どうせ俺は最初から一人だ……。
「KK」
首に腕を回して抱き寄せられていた。俺はいつの間にかあいつの背中にしがみついていて、しゃくりあげてから初めて自分が泣いているのだと知った。
「ごめん、もう言わない」
「……っ」
「ごめん」
足の力が抜けて、俺はずるずると床に崩れていった。あいつは俺を抱きしめながら、何度も何度もごめんねと繰り返していた。
「……」
「え?」
「……もっと、なんか話せ」
俺を日常に戻してくれ。いつものあの声で、俺をここから引っぱり上げてくれ。
「――鍵屋のオッサンが、正月ぐらい顔出せって淋しがってたよ。あれ、多分お年玉とかもらえるんじゃないかな」
「……っつうか、オッサンとこに居たのかよ」
「え? まぁ色々。あんまり長々と泊めてもらうのも悪いしさ、あちこち友達んところ回ってたんだけど」
なんか、そろそろ行くとこなくなっちゃって、とあいつはだらしなく笑った。
「……戻ってきてもいい?」
俺はゆっくりと顔を上げた。手の甲で涙を拭い、下から奴を睨み付ける。
「次はねぇぞ」
「……」
「戻りたいとかふざけたことぬかしやがったらぶち殺すからな」
ケイは小さくうなずいた。泣くのをこらえるみたいに奥歯を噛みしめ、わかった、と呟いた。
あいつの手がそっと俺の手に触れた。俺はすがるようにその手を握り返した。少しがさついた手のひらを握った時、嬉しくて、――びっくりするくらい嬉しくて、恥もなにもかも忘れて胸元に抱え込んでいた。
「二度と居なくなるな……!」
「――はい」
もう一度うなずいて俺を抱きしめた。
温もりが気持ちよかった。
――その日の夜。
俺はベッドで横になって頬杖を突いている。奴があまりにもじたばたと暴れ回るので端っこによけているのだが、よけ過ぎてそろそろ落ちそうだ。
「落ち着けよ」
「無理!」
ケイは布団の端を握ったままひと声叫ぶと、俺を見てまた恥ずかしそうに顔を隠した。
「ってか、KKが落ち着きすぎだよ! なんでそんな平気な顔して――」
思わず天井を仰いでため息をついた。
「だから戻るって言ってんだろ」
「それは駄目」
俺の腕をつかんで奴は不服そうに唇をとがらせた。居て欲しいのか欲しくないのかはっきりしろってんだ。
俺が睨み付けると、ようやくケイは布団から顔を出した。そうしてこっちを向いて横になり、壁際までじりじりと後退していった。ベッドの真ん中にもう一人入れるんじゃないかっていうほどの隙間が出来ている。
俺はもう一度ため息をついて枕に頭を載せた。横になりながら見るケイの顔は、久し振りのせいか、なんだか少しだけ違って見えた。
「……え、え、マジでいいの? 俺今、動揺しすぎちゃってなにするかわかんないよ?」
「誘ってきたのはお前だろうが」
「そういういやらしい言い方しないの!」
顔を真っ赤にして奴は布団をかぶった。なにがいやらしいだ。事実だろうに。
風呂を済ませたあと、俺は早々部屋にこもった。泣いてしまった気恥ずかしさもあってか、なんとなく顔が合わせづらかった。それでもドアの外から聞こえる奴の気配に俺は安堵していた。
誰かと一緒に居て落ち着くというのが、少し不思議だった。
しばらくしたのち、ドアがノックされた。先に寝るねとでも言うのかと思っていたら、違った。
『……一緒に寝ない?』
なんもしないから、と妙に真面目な顔つきで言うのがおかしかった。それで枕を持って奴の部屋へと来たのだが、俺が一歩踏み出すごとにあいつは一歩引き、ベッドに入れば入ったでじたばた暴れて落ち着かない。揚げ句には、
「なんか、ずるーいっ。俺ばっか動揺しててすっごくずるい!」
などとわけのわからないことを言い出す始末だった。
「なにがずるいんだよ」
「……だって、俺ばっかが好きみたいでさあ」
KKってば平然としてて、俺バカみたいじゃん。奴はそう言って拗ねた顔をしてみせる。そういうものかと俺は内心で首をかしげた。
「平然としてるか」
「してる。すっごく落ち着いてる」
「確かに落ち着いてるけどな」
お前が居るからなんだけど。なんで気付かないんだろうか。
以前ここに入った時部屋は暗くて、聞こえるのは目覚まし時計の秒針の音だけだった。今は違う。明かりが灯り、ケイが身動きするたびに小さな音が聞こえてきて、シーツは温かい。
俺はベッドの中央へと体を寄せた。これ以上後ろにさがったらマジで落ちる。それに寒い。
少し落ち着いたのか、ケイも同じように身を寄せてきた。そろそろと手を上げて俺の顔に触れる。俺は腕を伸ばして奴の髪を梳いた。
気が付くとあいつの顔が目の前にあった。抱き寄せられたと思った瞬間、唇が軽く触れ合った。奴はまじまじと俺をみつめ、顔を真っ赤にしたかと思うとくるりと寝返りを打ってしまった。
「もー駄目、限界! 寝る! おやすみ!」
限界はこっちだアホ。俺は耐えきれずに吹き出した。笑い続ける俺を振り返り、恨めしそうに睨んだあと、あいつは布団を勢いよくかぶった。
「おやすみ」
俺は呟いてベッドを抜けた。立ち上がりかけた俺の腕をケイがあわてて引っ掴んだ。
「電気」
「……うん」
部屋の電気を消してまたベッドに戻る。暗くなって安心したのか、ケイが腕を伸ばしてくる。背中を抱き寄せられ、俺も同じように抱き返した。ゆっくりと髪を梳き、互いの呼吸を頼りに唇を重ねた。
「KK」
「なんだよ」
「……もう会えないのかと思った」
それはこっちの台詞だ、馬鹿野郎。
風切り羽・後編/2008.12.14
2009.02.11 大幅改訂