俺の部屋で鳴らしている音楽がわずかに聴こえてくる。窓から射し込む日射しは温かくて、床に寝そべりながら雑誌を読む俺は、ついつい眠気に引き込まれて大きなあくびを洩らした。
「……KKぇ」
「なんだ」
弱々しい声が頭上から降ってきて俺は顔を上げる。ベッドに横たわったケイが、若干涙ぐんだ目で俺を見下ろしていた。
「煙草吸いたい」
俺は無言でベッドを蹴りつけた。ケイは怯えたような顔になり、頭まで布団にもぐり込みながらも、恨めしそうに俺を見返した。
「一本ぐらいいいだろぉ」
「俺が代わりに吸っといてやる」
「〜〜未成年の喫煙は法律で禁止されてますっ」
「煙草吸うと背ぇ伸びねぇぞ」
痛いところを突かれたケイは、泣きそうな顔で俺を睨み付けると「もういいっ」と言って乱暴に寝返りを打った。俺は雑誌に目を戻しながら煙草に手を伸ばす。
「KKって冷たいよなぁ。ちょっと煙草吸いたいって言っただけなのにベッドまで蹴って威嚇してさぁ。俺、こうやって衰弱して孤独に死んでいくんだな。あたら若い命が無駄に失われて……ああ、俺ってかわいそう」
「かわいそうなのはお前の頭だ」
そう言ってもう一度ベッドを蹴ると、奴の目の前へ火のついた煙草を差し出した。ケイはまだ拗ねたような目で俺を睨みながらも、素直に煙草をくわえてこちらに向き直った。
熱がある、と言って奴がふらふらと起き出してきたのは、俺が目を醒ました午前十時過ぎだった。おとなしく寝てろと部屋へ押し込んだのだが、喉が渇いたと言っては俺を呼び、静かで嫌だから音楽かけてとまた呼びつける。
いい加減うんざりしたので、今日一日は奴の部屋で過ごすことに決めた。昼を過ぎたというのに、ケイはまだ寝ない。
「お前、一人の時はどうしてたんだよ」
枕元で煙草をもみ消し、灰皿を俺に渡しながら「それがねぇ」と奴は言う。
「ここまでひどい熱って出したことなかったんだよね。はしかに罹った時はまだ実家に居たしさ」
小さく咳き込んだあと、ケイはくたびれた顔で布団を引っぱり上げた。
ケイの実家は鎌倉にあるそうだ。意外と裕福な家庭らしいが、そんな家の息子が何故高校にも行かずバイト三昧で独り暮らしをしていたのか、俺には理解出来ない。
ともかく煙草も吸わせてやったし、これで満足だろうと俺はベッドにもたれ掛かる。その俺の肩を、ケイが指でつついた。
「……なんだよ」
「も一回だけ」
すがるような目で見られて、俺は思わずため息をついた。お前はなんだ、幼稚園児か。
「とっとと寝ろや」
「痛い! ってか熱い!」
悲鳴を上げて布団のなかに逃げ込もうとするケイの頭を、俺は望み通り撫でくりまくってやった。
「ちょ、マジでハゲるって!」
息を乱して起き上がったケイは布団を抱えてベッドの隅へと逃げていった。俺は両手を上げたまま「もういいのか?」と訊いた。
「もういいです。充分です。今のでちょっと汗掻いた気がします」
「そうか」
ケイは恐る恐る枕を整え、布団を広げ直して再び横になった。ふう、と大きく息をつき、疲れたように目を閉じる。
生彩を欠いたケイは、どこか知らない奴のようだった。なんとなく見ているのが怖くなる。俺は再びベッドに寄り掛かり、床の雑誌を拾い上げた。
季節は秋を終えようとしていた。日射しは温かいが、風は確実に冷たくなっていた。天候が荒れて強い風が吹く晩など、どことなく落ち着かなかった。中途半端に生ぬるい空気が俺は嫌いだ。
「KK」
声に俺は振り返る。
「ありがとね」
「……」
礼を言う暇があるならとっとと風邪治せって話だ。俺は別に、と呟いて視線をそらせた。
「元気になったら飯食いに行こう」
「……焼き肉」
「いいよ、なんでも」
そう言って奴はだらしなく笑う。しばらく迷ったのちに俺は手を伸ばした。頭を撫でてやると、あいつは気持ちよさそうに目を細めた。
早く良くなれよ。そんでもって焼き肉奢れ。お前が静かだと調子が狂って仕方ねぇ。
やがてもう眠ったかと手を止めると、ケイはそっと目を開けた。そうして少しのあいだ俺を見て、なにか言いたそうに口を開きかけた。だけど言葉は聞こえず、うつむくようにして布団で顔を隠してしまった。
奴が本格的に寝入るまで、俺はずっと頭を撫でていた。
共同生活を始めてから半年が過ぎた。
朝早くから仕事に出るケイと、昼近くに目を醒ます俺とで生活のパターンは異なっていたが、俺たちはそれなりに上手くやっていた。
飽きっぽいわりに几帳面なケイは暇があるとあちこち掃除をしてくれたし、俺も台所回りはちょくちょくキレイにした。ケイが干して出た洗濯物を夕方俺が取り込んだりと、それぞれの役割もおのずと決まっていった。
だから原因がなんなのか、俺にはわからなかった。ただ冬が近付くにつれて空気が冷え込むように、ケイのにぎやかさが徐々に薄れていった。
最初は馴れたんだろうと思った。俺はともかく、ケイは家族以外の人間と住むのは初めてで、色々と目新しさに興奮しているようなところがあった。だけど半年も経てばそういった感動も薄れていく。それはある意味当然のことだ。
とはいえ、やっぱり違和感はあった。
最初に気付いたのは、奴の口数が減っていることだった。家に居ても妙に静かで、どうしたと訊くと、なにが? と驚いたように訊き返されてしまった。なにか考え込んでいるような顔だったから、また職場で嫌なことでもあったのかと思ったのだが、違ったらしい。
そうして飯時に奴の姿を見ないことが増え、休みの日でもあまり部屋から出てこないようになった。
避けられている。
思い当たる節がないでもない。十二月の初旬だったか、俺は珍しく仕事に出かけた。寒空の下二時間近くも張り番として立たされた。
とりあえず仕事は順調に終わったのだが、引き上げる際にヘマをしてなにかの出っ張りに顔をぶつけてしまった。仕事とは全く関係のない怪我だった。ジジィの呆れたような視線にむかついて、俺は一人でさっさと電車に乗った。
家へ帰ると、ケイが「どうしたの!?」と驚きの声を上げた。トイレで顔を洗い、手で何度も拭っていたのだが、意外と傷が深かったようでまだ血は止まっていなかった。それでもうっすらと滲む程度だ。なのにケイはわざわざ消毒液まで持ち出してきた。
「危ない仕事だったの?」
「別に」
無関係の、ただのドジだ。説明するのは嫌だったので適当に誤魔化しておいた。傷に絆創膏を貼りながら、ケイはずっと心配そうな目で俺を見ている。なんだよと訊くと、今更気付いたみたいに驚いた顔をして、なんでもないと首を振った。
「KKも掃除屋専門になればいいのに」
道具を片付けつつ冗談のようにケイが言った。
「水回り掃除するの得意だしさ、ハウスクリーニングの方で入るとか――」
その時自分がどんな表情をしていたのかよく覚えていない。ただケイの反応からして、いい顔はしていなかった筈だ。尻窄まりに言葉を失ったケイは消毒液の容器を握ったまま気まずそうに視線を落とした。
部屋の沈黙が耳に痛い。
「……無理に決まってんだろ」
頭上で風がうなっている。木々のざわめきが苛立たしいほどに続いている。あの晩、まるで嵐の前触れのような生ぬるい風が吹いた。
俺はなにかを忘れようと懸命に穴を埋めた。俺にはこうする権利がある筈だ。こいつは死んだが俺は生きている。そして明日も生きる為に穴を埋める。
貼ってもらったばかりの絆創膏をむしり取って床に投げつけると、俺は上着を持って玄関に向かった。コンビニ行ってくる、と呟くので精一杯だった。
歩いて五分のところにあるコンビニで一時間ほど暇を潰してから家に戻った。居間のテーブルには絆創膏の箱が置かれたままだった。
喧嘩をしたわけじゃない。ケイは別に悪くない。ただお前は知らないだけだ。
『使えないからってクビになっちゃってさぁ』
でも、お前はそれでいいんだ。
すっきりしない気分で幾日か過ごした。ご機嫌を取るようなケイの笑顔を見るのが辛かった。なんで俺なんかに気を遣うんだと、些細なことに苛立ったり落ち込んだりした。上手く立ち回れない自分は本当にガキなんだと今更のように痛感していた。
以前大勢で雑魚寝をしながら暮らしていた時もこうした諍いはあった。だがあの時はほかにいなしてくれる奴が居たし、毎日そこへ帰ってくるわけでもなかった。
今は二人きりだ。ほかに行くところもない。
大晦日、奴は実家へ帰った。一緒に来ないかと誘われたが断った。一人になれて俺はホッとしていた。多分ケイも同じ気持ちだったと思う。
居間でソファーに横たわりながら新年を迎えた。年が明けたからといって浮かれた気分にはなれなかった。いっそのこと出ていった方がいいんじゃないかと、ずっとそれだけを考えていた。
資金的な問題はなかった。ただ心のどこかで、今の生活がなくなるのは嫌だと感じていた。
うざいうるさいと思いながらも、ケイが振ってくるどうでもいい話題やあいつと共有しているこの空間に、いつの間にか俺は馴染んでいた。自分で手に入れた自分の居場所――それはケイが居て初めて成立した。
わかっているつもりだったのに。
ケイが帰ってきたのは三日の夕方だった。押し付けられた土産を山ほど抱え、兄ちゃんが婚約者連れてきたと嬉しそうに報告してくれた。鬱々としていた自分がバカらしく感じられるほどケイは以前の明るさを取り戻していた。
「飯行こう、飯」
和食ばっかで飽きたと言って、ケイはファミレスに俺を誘った。
玄関で靴を履いている時、
「――KK、」
ふと腕を引っ張られた。振り向くと奴はなにかを言いかけ、あわてて言葉を呑み込むところだった。中途半端に強張った笑顔が妙におかしかった。
「なんだ」
「……ゴミ付いて――なかった」
見間違えちゃったーと笑ってあいつは俺の背中を軽く払った。
「俺、グラタン食べたいなぁ」
靴に足を突っ込んで玄関の扉を開けつつケイが言う。そのあとに続きながら俺はなにを食おうかとぼんやり考えていた。
久し振りに耳にしたケイの声に安堵してしまい、妙にテンションの高い奴のことには気付いていなかった。