引っ越すことを伝えると、鍵屋のオッサンは、たまには飯作りに来いと言った。そういうのは命令するもんじゃねぇだろうと思ったが黙っていた。なんでも気に入った本があれば持っていけと言ってくれたからだ。
 オッサンのところで暮らすあいだに、少しずつ小説を読むようになっていた。言われてそうなったわけじゃない。単にすることがなかったのだ。テレビもなかったし、あったとしてもすぐに飽きていたような気がする。
 どうでもいいと思っていた割に、いざ新居での生活が始まった時はさすがに嬉しかった。ここまでの道のりはともかく、俺は一応自分の力で自分の居場所を確保したのだ。変な相方がオマケにくっついてきていたとしても。
 基本的にケイは毎日なにかしらの仕事へ出掛け、俺は月に数回ヘルクリーンの裏稼業で家を空ける程度だった。最初のうちは飯も各々勝手に食っていたのだが、どうせ作るなら一人前も二人前も変わりがない。前もって予定がわかる時は、ついでだと食事の用意をしてやった。
 ケイは、変な奴だった。基本的にはガキみたいに無邪気な奴だが、以前裏稼業でスカウトされたという経歴があるし、どこか俺と似た匂いを感じることもあった。それがなんであるのかはお互い触れていない。だから俺は未だに、何故ケイがヘルクリーンに所属することになったのかを知らない。十年経った今でも。
「ただいまー」
 梅雨が明けたばかりの頃だったろうか。仕事から帰ってきたケイが、やけに嬉しそうな顔で居間のドアを開けた。俺はちょうど風呂上がりで、扇風機の前に座り込んでいた。
 お帰り、と呟く俺の目の前に奴はチョコボールの空き箱を突き出した。
「見て見て! 銀のエンゼル!」
 まだあきらめてなかったのかと呆れながら、良かったなと俺は呟いた。
「やっと五枚揃ったよ〜。これでおもちゃのカンヅメがもらえるよ〜」
 なにがそんなに嬉しいのか俺にはさっぱりだ。荷物を下ろして床に座り込んだケイは、浮かれた表情から一転、空き箱の説明を真剣に読み耽った。
「……ねえ、KK」
「なんだよ」
「ピーナッツのカンヅメとイチゴのカンヅメ、どっちにするべきかな」
 俺の知ったことか。
 とにかくケイは子供っぽいというか、屈託がないというか、無邪気というかバカというか、本当に俺よりも年上なのかと疑いたくなることがよくあった。
「KK、ただいまー」
 珍しく早く帰ってきたある日。あいつは居間に姿を現すとソファーのすぐ脇にしゃがみ込んで両膝を抱えた。俺はソファーで横になったまま、奴のつむじを眺めていた。お帰りという俺の言葉に、奴は「うん」と返すだけだった。
「……なんだよ」
「あのね――」
 奴は顔を上げて不満そうな表情を見せながらも、言葉に詰まって黙り込んでしまった。
「……なんか、やなことがあった気がするんだけどさあ。でも別に悪口言われたとかじゃないし、俺も怒ってるわけじゃないんだけど」
「……」
「なんか、……なんか、すっきりしない」
 まるで子供がむくれるみたいに眉根を寄せて、唇をとがらせている。
「……」
 なにをどうして欲しいのだか。俺がソファーに座り直すと、あいつはうーうー唸りながら足に頭を押し付けてきた。邪魔、と手で押しやると、余計に力を込めて押し付けてくる。無言の押し問答。俺はなんだかおかしくなって小さく吹き出してしまった。つられたのか、あいつもニヤニヤ笑い始めた。ホントにガキみたいだ。
 思わず手が滑って頭を撫でてやると、しばらくしたあとでいきなり奴が顔を上げた。
「すっごいこと発見! 頭撫でられると気持ちいいね!」
 そのひと言で手を離した。もっと撫でてよーと言う奴の肩を蹴って、うざい、と放り出した。
 ケイはよく喋ったが、俺が聞いていようがいまいがあまり気にしなかった。俺は俺でしょっちゅううるさいだの、やかましいだのと返していたクセに、ふと家に一人で居る時、あいつの話し声が聞こえないことに違和感を覚えるようになってしまった。
 毎朝早くに起き出して仕事へ出かけるケイ。ご苦労なこってと思いつつも、こいつはこいつなりのやり方で世間に溶け込んでいるんだなと、少しだけ羨ましく感じた。
 ともかくそんな風に俺たちは暮らしていた。基本的にはお互いに触れず、各々自分の生活を続けた。ケイは掃除屋とほかのバイトをふらふらと渡り歩き、俺は本格的に裏の稼業へと。
 初仕事は呆気なかった。山奥に連れてこられたオッサンの後ろ頭を銃でぶち抜くだけだった。ジジィは、練習だと言ってあごをしゃくった。身動きが出来ないように腕を縛られ両目と口をガムテープで塞がれた、見ず知らずの男。
 断末魔も聞こえなかった。
 あまりに呆気なかったせいか、仕事を終えてマンションに送り届けられても、半分ぐらいは夢を見ているような気分だった。地獄へようこそ、と暗がりのなかでささやいたジジィの声が、ずっと頭のなかを回っていた。
 多分混乱していたのだと思う。とにかく寝ようと思って布団をめくると、ケイが寝ていた。
「――――うぉうっ!!」
 状況が理解出来ずに立ち尽くす俺を見て、ケイはド派手に悲鳴を上げた。
「え、なに!? KKどしたの!? 夜這いとかじゃないよね!?」
「……」
 なんで俺の部屋にこいつが寝てるんだ。
「KK?」
 周囲を見回して、ようやく部屋を間違えたのだと理解した。ああ、と呟いて俺は自室へ戻ろうとした。が、ケイは寝起きながらも俺の異変に気付いたのだろう、慌てて上着を掴んで俺を止めた。
「え、KKどしたの? なんか変だよ」
「……」
 そうか、変なのか。……そうか。そういえば、なんとなくまだ現実感がないしな。
 俺はベッドの脇にのろのろと腰を下ろした。
「仕事してきた」
「――あぁ、」
 一瞬の間。
「……なんか話せよ」
「なんかって?」
「なんでもいいから」
 ここが現実なのだと教えてくれ。いつものあの声でくだらない話を聞かせてくれ。
 んーと、んーと。しばらく考え込んだあと、あいつは話し始めた。
「こないだコンビニ行った時にアフロの女の子見かけた」
「……それは珍しいな」
「でしょでしょ!? カツラかなーとか思ったんだけど、さすがに訊けなくってさ。思わず後ろからこっそり引っぱってやろうかと思っちゃった」
「やったのか?」
「無理に決まってんじゃん! でもちょっと惜しいことしたなーとは思ってる」
 そうして、女の子はカツラとか付け毛とか気楽に出来ていいよね、とかなり真剣な声で言うので、さすがに笑ってしまった。
「お前、ハゲそうだもんな」
「ハゲないよ!」
 素質だったら絶対KKの方がある、と言って、あいつは乱暴に俺の髪を掻き回す。俺はベッドに横顔を付けて、でもカツラってすごく高いらしいなと言った。
「一度付けたら一生付けなきゃいけないんだもんね。……お金かかりそうだなあ」
「今から貯金しとけばいい」
「あ、そっか」
 本気で心配してんのか。それとも単なる話題なのか。顔を上げて確かめようとしたが、あいつの手が髪を梳いているので動きたくても動けなかった。
「今日仕事か?」
「うん。でも出かけるの九時だから」
 まだ日は昇っていない。窓の外は真っ暗だ。なんだか眠くなってきた気がする。こうして座り込んであいつの声を聞いて、そうして眠ってしまえば、全てが夢だったと思えるような気がしてきた。腕に届いた銃の反動も、死体が落ちた穴をシャベルで埋めたのも。
 暗闇を照らすライトの光、辺りを漂う硝煙の匂い。一度だけ風が吹いた。木々のざわめきがまだ耳の奥に、
『地獄へようこそ』
「――KK?」
 俺は体を起こしてケイの顔をみつめていた。あいつは不安そうに俺の目をのぞき込んだ。
「大丈夫?」
 俺は無言で首を振る。あいつはなにも言わずに頭を撫でてくれた。いつもとはんたーい、と言ってあいつは笑い、そうだなと俺は呟いた。
 ――ケイ。
 お前は来るなよ。絶対に来るなよ――あいつに頭を撫でられながら、俺はずっと胸のなかで繰り返していた。
 今から行きたいなんて言っても無駄だからな。俺が全力で止めてやる。お前はそこに居て、いつもみたいに笑っててくれ。ここはお前の来るべきところじゃない――。


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