翌朝、表通りで待っていると、目の前に一台のワゴン車が止まった。色は白だが、あちこち汚れの目立つ車だった。助手席に座っていたジジィが窓から顔を出し、「乗れ」と短く命令した。
 俺は荷台に積まれている様々な道具を一瞥してから後部座席に乗り込んだ。驚いたのは、そこにも小型の扇風機とボロ雑巾が置かれていたことだった。そしてビニール袋に包まれたオレンジ色の作業着。
「今のうちに着替えとけ。現場着いたらすぐ作業始めるぞ」
 それはつなぎだった。やや色褪せたオレンジ色の。着替えながら何気なく前を見ると、ジジィはジジィで黒のつなぎだし、運転してる奴は青いのを着ている。統一感がねぇなと思いつつも、洗濯済みのそれに腕を通した時、夕べ鍵屋のオッサンが「本格的に」と言った意味がなんとなくわかったような気がした。
 揃いの制服。組織に組み込まれたという実感。
 現場は病院だった。駐車場には同じような作業車が二台並んでいて、なかに人は居なかった。既に仕事は始まっているようだった。っつうか、マジで掃除やんのかよと、俺はいささか面食らっていた。
 荷物を下ろして言われるまま玄関へ向かうと、同じようなつなぎを着た男どもがひと仕事終えた顔でモップを洗ったり、缶コーヒーを飲みつつ煙草を吸ったりしていた。
「お疲れさん」
 ジジィが姿を現すと、皆は口々におはようだの遅いよジィさんだのと言って出迎えた。意外と人望はあるらしい。こんなクソジジィが。
 掃除仕事で見る奴らは初めての顔ばかりだった。どうやら表向きヘルクリーンは立派な清掃会社であるようだ。先発隊の面々は初顔の俺を興味深そうに見たが、ジジィは特に紹介しなかった。日雇い程度の扱いで済ませるつもりらしい。俺もその方が気楽だった。別にダチなど欲しいとは思わないし。
「おはよー」
 俺たちのあとから更に一人やって来た。やっぱり下りのバスは空いてるねぇと誰かに話しかけている。少し伸びすぎた髪を茶色に染めた、軽そうな奴。
 洗い物も終わり、新たに作業へ取り掛かる準備も済んだ様子の時、「やるかー」と言って歩き出した一群のなかからジジィが一人の男を呼び止めた。俺たちよりもあとからやって来た奴だった。
「新入りだ。一緒に付いて仕事教えてやれ」
 黄緑色のつなぎを着たそいつは「よろしくー」と笑いながらも俺の顔から視線を外さなかった。ガン付けてんのかといささかムッとしていると、
「すっげー目ぇほっそいねえ!」
 運べと言われて水の入った一斗缶を持っていた。ためらいもなくなかの水ごと投げつけた。なにす、と言いかけた奴の横っ面を殴り、胸倉を掴んで壁に押し付けた。が、奴も負けてはいなかった。足を引っかけられてバランスを崩した俺は奴ともども地面に倒れ込み、呆気に取られる面々に引き剥がされるまで殴り合いを続けた。
「やりたきゃ裏でやってこい!」
 ジジィに怒鳴られ、二人して駐車場まで引きずられていった。俺たちはしばらくのあいだ睨み合っていたが、やがて奴が盛大にくしゃみをし、
「ちょ、マジで寒いから着替える。パンツまで濡れてるからちょっと待って」
 そう言って作業車に乗り込んでいった。俺は怒りが治まらないまでもなんだかバカらしくなってしまい、車に寄り掛かるようにしてしゃがみ込むと煙草に火を付けた。
 一体なんだってんだ。こんな朝っぱらから。
「……あのさぁ」
 私服に着替え、ボロ雑巾で頭を拭きながら奴が顔を出した。
「まあ……悪かったよ」
「……」
 素直に謝るぐらいなら最初から喧嘩売ってくんなっつう話だ。俺は煙草の灰を叩き落として、別に、と呟き返した。
「もしかして失恋でもした?」
「――はあ?」
「すっごく泣いたんじゃないの」
 そう言ってまぶたの辺りを指差す。
「……」
「蒸しタオルするといいって言うよ」
「……」
「あ、もしかしてまだ話題にしない方がいい?」
「……」
 なんで鍵屋のところから拳銃を持ってこなかったんだろうと盛大に後悔していた。ひょっとしてジジィなら弾も持ってるんじゃないだろうか。
 今更だが、こいつに指摘されるまでもなく俺は目が細い。あまりに細いので、人はまずその目を覆うまぶたに視線が行くようだ。やけに腫れぼったいまぶた。そしてキツネのように細い目。喧嘩が得意になったのはこの目のお陰とも言える。ガキの頃からしょっちゅうからかわれていたので(原因はほかにも色々あったが)自然と体が動いてしまうのだ。
 第二ラウンドへ突入かと俺は煙草を投げ捨てて立ち上がった。が、それは奴の言葉であっさりと流された。
「チョコ食べる?」
 半乾きの髪を手で梳きながら奴はチョコボールの箱をカラカラと振った。まだ半分ぐらい入ってるよと言って俺に差し出してくる。しかもイチゴ味。
「なっかなかエンゼル出ないんだよねー」
「……」
「三枚までは集まったんだけどさ」
 奴は箱の口を開き、ほら、と呟いた。俺はバカバカしくなって素直に手を差し出し、丸いチョコの粒を受け取った。口に放り込むと甘ったるいイチゴの味が広がった。
 これがケイとの出会いだった。


 その後もケイとは掃除の現場で何度か顔を合わせた。歳が近いせいか休憩の時はなんとなく一緒に居ることが多かった。ケイは初っ端に殴り合ったことなど忘れているようだった。俺も別に根に持っているわけじゃないし、いつもどうでもいい話を振ってくる奴の気楽さが、なんとなく心地よいと感じていた。
 ケイは純粋な清掃作業員だった。俺のように表向きは掃除屋をやってますよ、という誤魔化しの人種ではなかった。話を聞いてみると、しかし掃除屋も片手間の職業で、あちこちいろんな業種を渡り歩いているようだった。――と言えば聞こえはいいが、単に飽きっぽいだけの奴だった。
 俺がヘルクリーンに所属したいきさつは、案外あっさりと理解してもらえた。どこ住んでるのと訊かれ、鍵屋のところと答えた瞬間、
「――ああ」
 裏稼業の人なんだ、とケイは呟いた。
「それ、あんまり言わない方がいいよ」
 仕事を終えたあと、飯でも食わないかと誘われてファミレスに入っていた。ケイの説明によるとヘルクリーンは表と裏にきっぱりと分かれており、裏に所属する人間はたとえ表の仕事で顔を合わせたとしても知らない振りをするのが習わしになっているのだという。
 現場に連れていかれた初日、俺をケイに付けようとしたのも、恐らくその辺のことを教える為だったのだろう。やり方がいちいち回りくどいジジィだと俺は呆れた。
 何故表で働くケイがそれを知っているのだと訊くと、「俺も最初は裏の方で入ったんだー」とだらしなく笑った。
「でも使えないからってクビになっちゃってさ」
 なんとなく理解出来る。こいつには無理だ。それで良かったんじゃねえのと俺が言うと、ケイは少しだけムッとしたが、すぐにあきらめたような顔で「だよねぇ」と力無く笑った。
「だから、ちょっとだけ尊敬するよ」
「……」
 尊敬? 俺は視線をそらせながら鼻で笑った。世の中いろんな職業があるが、人殺しなんざ本当に最低の仕事じゃねぇか。確かに掻払いよりは稼げる。だがその代わり、絶対に戻れない場所へと足を踏み入れる。
「でも鍵屋のオッサンのところって、部屋狭いよね?」
 ケイは俺の考えていることなど全く知らない様子で言葉を続けた。
「六畳一間」
「え、そこに二人で住んでるの!?」
 うなずいて俺はコーヒーを飲む。風呂も付いてないし、出来ればほかのところに引っ越したいのだが、この先どの程度稼ぐことが出来るのかはっきりしないので、今の所はどうしようもない。ちなみに手伝いはしたものの、まだ自分の手で殺したことはなかった。
「……KKが良かったらの話なんだけど」
 少し考えてから奴が口を開いた。
「一緒に部屋借りない?」
「一緒に?」
「そう。ルームシェア。部屋二つあるとこ探して、家賃半分こするの。俺、再来月に更新があるからどうしようって思ってて」
 居心地は悪くないのだが、ちょっと引越したい気分でもあるし。奴はそう言って、どう? と俺の顔をのぞき込んできた。どうでもいいと最初は思ったが、風呂付きの部屋に住めるのは魅力的だった。銭湯が嫌だというわけじゃない。単に面倒なのだ。
 俺はたいして考えることもなく、いいよと答えていた。
「マジで!? じゃあ情報誌買って部屋探そうよ!」
 その日はそのまま奴の家へと連れていかれた。俺が出した条件はなるべく居間と台所が広いこと、だけだった。奴はベッドに寄り掛かって情報誌をめくり、俺は家主の寝床を占領して雑誌を読んでいた。KKも一緒に探してよと言われたが、とりあえず候補を出せと言って放っておいた。部屋に流れる音楽が心地よくて、いつの間にか眠っていた。


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