人込みの波に呑まれながら俺はジジィと歩いていた。週末、夜も遅い繁華街だ。
「あの男」
 ジジィは軽くあごをしゃくり、俺に注目を促した。いかにもチンピラですといった風情の男が、肩をいからせ、俺たちの少し前方を歩いている。
「喧嘩売ってこい」
「……売ってどうすんだよ」
「素直に買ってもらえ。使えるかどうか見てやる」
 そう言ってジジィは煙草に火をつけた。
「……どこまでやりゃあいいの」
 ジジィはひと言、殺すな、とだけ呟いて煙を吐いた。
 俺はざっと周囲を見回して、引っぱり込めそうな路地を探した。そうして目星を付けてから駆け出した。向かい側から来る通行人をよけるフリで男にぶつかり、邪魔だよテメェと呟いた。
「あぁ?」
 男は走り去ろうとしていた俺の上着を乱暴に掴んだ。
「おめぇ、今なんつった」
 無駄に間延びした台詞が、男が充分に酔っぱらっていることを教えてくれた。俺は胸倉を掴まれながら、いや、あの、としどろもどろに呟いた。
「兄ちゃん、人様にぶつかっておいて『ごめんなさい』も言えねぇのか? あ?」
「いや、あの、ちょっと急いでたんで……」
「そんなん俺の知ったことかよっ」
 軽く蹴りを食らう。脇を通り過ぎる奴らは、嫌そうに眉をひそめ、あるいはおかしそうに口元だけで笑いながらこっちを見ていた。男はその視線を感じたのだろう、「聞いてんのか、あぁ!?」と更に大声を張り上げた。
「あの、ホントすいません。あの……」
 逃げる隙をうかがうように俺は周囲を見回した。男は怯える俺の姿が楽しいのかニタリと笑った。俺は人通りの少ない路地の方へと、逃げる気配をちらつかせつつ移動し始めた。そうして実際に腕を振り払い、酔っ払いにも追いつけるようにゆっくりと駆け出した。
「逃げんじゃねえよ!」
 小さな看板にぶつかって、距離を縮めてもらいながら更に奥へと向かう。都合のいいことに、突き当たりは金網が張り巡らされた造成地だった。
「兄ちゃん、詫びも入れずに逃げるたぁいい度胸じゃねえか」
 再び男が目の前にやって来た。嬉しそうにポキポキと指を鳴らしている。俺はすいませんともう一度呟いて、
「あんたに恨みはねぇんだけど」
 返事を聞く前にみぞおちを殴りつけた。男はわずかにうめき声を上げて上体を折り曲げた。すかさず顔を押さえ込んで膝蹴りを入れる。男は血と一緒に胃のなかのものを吐き出して路面に倒れ込んだ。
 腹を蹴りつけた時、殺すな、というジジィの言葉を思い出した。男は自分の吐瀉物で顔を汚しながら、怯えたような表情で俺を見上げていた。なにが起こったのか理解出来ないといった感じだった。
「財布」
 呟きに、男は一瞬表情を険しくした。だが肩を蹴りつけるとおとなしく上着を探って財布を取り出した。俺は札を抜き取って残りを投げ捨てた。男はこれで助かると思ったのか、安堵したような顔つきになっている。
 俺はもう一度腹を蹴った。男は悲鳴を上げて胎児のようにうずくまった。頭蹴られないだけ有り難いと思え。やけに冷静に考えながら俺は男が顔を上げなくなるまで蹴り続けた。
 ――バカバカしい。
 虚勢張るなら自分の限度考えろよ。
 うずくまったままの男に唾を吐きかけると、俺は表通りに向かって歩き出した。こっちを見ている人間は一人きりだ。
 路地を出ると、ジジィがガードレールに腰掛けて俺を待っていた。俺は奪った金を突き出した。ジジィは面倒臭そうに首を振り、「取っとけ」と言って歩き始めた。
「割のいい仕事がこれかよ」
 俺の言葉に、ジジィが足を止めて振り向いた。呆れたような顔をしていた。
「人の命はもっと高ぇぞ。そんなもん、はした金だ」
「……」
「怖ぇってんならやめりゃいい。お友達のトコに戻って掻払いでもやってろ」
 ――あの見下したような目が。
 「未成年」なんて括りで訳もなく俺を無力だと決め付けるあの目が。
 俺は返事の代わりに、側にあった飲み屋の看板を蹴っ飛ばした。ジジィは満足そうに笑うと、近いうちに連絡すると言って歩き出した。
「いつか絶対にぶっ殺してやるっ!!」
「おー、いい根性だ」
 ジジィは後ろ手に手を振った。俺は金を握りしめたまま人込みのなかで立ち尽くしていた。誰一人知り合いの居ない雑踏のなか、その時の俺は本当に無力で、ただのガキだった。


 熱くなったフライパンに油を引いて全体に広げる。少し間を置いてから真ん中をへこませたハンバーグのタネを二つ並べ、中火にしておいてフタをする。
「オッサン、醤油っぽいのとソースっぽいの、どっちがいい?」
 俺が訊くと、鍵屋のオッサンは少し考えてから醤油、と答えた。やっぱりそう来ると思った。俺は大根の皮を剥き、下ろし金で大根おろしを作った。付け合わせの野菜は既に茹で終わっており、ザルのなかで湯気を立てている。
 様子を見ながらハンバーグをひっくり返し、ついでに味噌汁も温め始めた。
「おー、なんかいい匂いがしてきた」
 オッサンは嬉しそうに言って起き上がる。窓の外を眺め、桜も終わっちまったなぁと淋しそうに呟いた。
「お前も花見来りゃよかったのによ」
 俺は返事をしないまま煙草に火を付けた。灰を落とさないよう注意しつつ、味噌汁の具合を確かめる。
 改造拳銃を専門に造る『鍵屋』のオッサンと暮らし始めてひと月が経っていた。俺は繁華街でチンピラをのした日から何度かジジィに呼び出され、使い走りのようなことをさせられていた。
 初っ端に呼び出された喫茶店で、真新しい銀行通帳とキャッシュカード、携帯電話、それから見知らぬ名前の印鑑と健康保険証を渡された。
『契約金だ』
 通帳の最初の行に五十万の入金があった。意味がわからなくて俺はジジィを睨み返した。
『これからちょくちょく働いてもらう。その時はその名前を使え。勿論偽造だが、今のところは保険証も使えるようになってる』
『……なんだよ、今のところってのは』
 そう訊くと、ジジィはおかしそうに鼻を鳴らした。
『今ならまだ手は汚れてねぇからな。もしそいつを持って逃げるんなら、三日後には全部使えなくなるようにしてある。だからその前に金だけは忘れずに引き出しておけ。その場合は口止め料ってことだ』
『……』
『ちなみに保険証あるからって、サラ金じゃあ金借りられねぇぞ。未成年だから保護者の承諾が必要だしな』
 いちいち癇に触る言い方しやがるジジィだ。だが奴は俺の不機嫌さなど全く知らない素振りで言葉を続けた。
『居場所は必ずわかるようにしとけ。鍵屋のところ出るのもいいが、その時は連絡しろ』
 ご丁寧にも、携帯の電話帳に幾つか番号が登録されていた。そのなかでも一番目を引かれたのが「ヘルクリーン」という名前だった。目の前に座るジジィには似つかわしくないカタカナだ。ヘルスかなにかの名前かと訊いたら、
『掃除屋だよ』
 片付けてくれと言われたらなんでもキレイにする、お掃除屋さんだとジジィは笑った。
 つまりはそこが、俺の職場であるらしい。
「お、すっげー美味ぇぞこれ」
 大根おろしをたっぷり載せてポン酢醤油をかけた和風ハンバーグ。作ったのは久し振りだったが、まあまあ上手く出来た。鍵屋のオッサンは、俺が来てから色々と変わったものが食えて嬉しいと喜んでいた。
 俺だって別に料理が得意というわけじゃない。ただ以前つるんでいた奴らと同居してた時壊滅的に金のない時期があり、ないならないなりに倹約するしかねぇだろうということで、初めて包丁を握る羽目になっただけだった。今考えてみれば、案外堅実な生活だったように思う。――稼ぎ方はともかくとして。
 飯を食っている最中、携帯電話が鳴り出した。
『明日の朝、七時半に迎えに行く』
 出たのが俺だと確かめもせずにジジィが言った。
「なにすんだよ、そんな朝っぱらから」
『仕事に決まってんだろ』
 寝坊すんじゃねぇぞと言って電話は切れた。俺は通話を切ったあと、上着に向かって携帯電話を投げつけた。
「Gか?」
 オッサンが急須に湯を注ぎながら訊く。俺は小さくうなずいて飯に戻った。
 ヘルクリーンというところでは多分に通称が用いられており、ジジィはGだのGさんだのと呼ばれていた。あぁジジィだからね、と納得したものの、あんな野郎クソジジィで充分じゃねえかと思っている。ちなみに俺はKKだそうだ。単語に意味はない。上から順番に付けていったらそうなったんだと。
「明日、七時半に迎えに来るって」
 味噌汁をすすり込んでそう言うと、湯飲みに番茶を注いでいたオッサンが驚いたように顔を上げた。
「朝の?」
「朝の」
「へえ」
 なにがおかしいのか、一人でニヤニヤ笑っている。俺が、なんだよと訊くと、
「本格的に仕事させられるぞ」
 湯飲みのひとつを俺の方に押し出しながら言った。そういうことなのか。俺にはいまいちよくわからないが、オッサンがそう言うんならそうなんだろう。
「そういうことなら早く寝ねぇとな。今日は風呂行ったらとっとと布団敷くぞ」
 そう言って、オッサンは早くも自分の食器を片付け出した。っつうか、まだ俺が食ってるっての。
 銭湯で湯船に浸かりながら、本格的ってどういう意味だとオッサンに訊いた。
「掃除だよ」
 なにを今更という顔でオッサンが答える。そりゃあヘルクリーンはある意味では掃除屋だけど。
 ――まさか本当に真面目に掃除をやっているとは、この時は露とも思わなかった。


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