『内科・小児科 香月診療所』
白の看板は当然のように明かりが落ちている。KKは玄関前の狭い駐車場に車を乗り入れ、榊の腕を取ると引きずるようにして扉の脇にあるインターホンの前に立った。しつこいほどに呼び出しボタンを押し、ガンガンと扉を叩く。
やがてスピーカーから男の声が聞こえてきた。
『お客様がおかけになった番号は現在――』
「寝ぼけてねぇでとっとと開けろよ!」
怒りに任せて扉を叩くと、「はいはい」と面倒臭そうに返事があった。
「今開けますよー」
奥の部屋に明かりがつくと扉の向こうのカーテンが開き、メガネをかけた小柄な中年男性の姿が現れた。男はKKを見ると驚きに目を見張り、扉の鍵を開けながら「ケイちゃんだ、久し振りー」と嬉しそうに笑った。
「遅くに、すまんな」
搾り出すようにして榊が言うと、男は今更ながら二人の様子に気が付いたようだった。
「なんだよたっちゃん、撃たれちゃったの? ドジだなぁ」
そうして、あははと楽しそうにまた笑う。これが五十にもなる男の台詞かとKKは思わず力が抜けそうになった。それでもなんとか気力を奮い立たせて、
「早く診てくれよ、香月センセ」
「はいはい。こっち連れてきて」
香月は待合室のソファーに放ってあった白衣を拾い上げると先に立って診察室へと歩き始めた。
診察台の上に横になった榊は予想以上に青白い顔をしていた。香月はハサミで榊の着ている服を切り取ると、血を拭き取りながら傷口を観察した。
「ごめんね、痛いよ」
そう言ってKKに手伝わせて体を起こすと背中を眺め、「こりゃ切らないと駄目だなぁ」とぼやいた。
「弾がなかに残っちゃってるね。腸もいってそう」
「なら早くやれよ」
KKは煙草に火をつけてイライラと言った。
「ケイちゃんって、いっつも難しいこと簡単に言うよね」
こぶしでメガネをずり上げながら香月は眉根を寄せる。そうして血圧計を取り出すと榊の腕にベルトを巻き、機械のスイッチを入れた。計測された数値を見てやれやれと首を振る。
「たっちゃん、血液A型だよね?」
「ああ」
「ケイちゃんは?」
「俺? 血液? 知らね」
「なんで知らないの!? 調べときなよ、こういう時に困るでしょお」
しょうがないなあ、と呟いて香月は机の書類棚を探り始めた。
「ちょっとケイちゃん、ひとっ走り和田さんとこまで買いに行ってきてよ」
「なにを」
「血液。A型一リットルもあれば間に合うと思うんだ。香月のとこから来たって言えばわかるように連絡しておくからさ」
そうしてノートを引っぱり出し、連絡先を確認しているようだった。あったあったと嬉しそうに呟いている。
「それじゃあ頼んだね。はいお店の地図。あと自転車の鍵とお金」
「――車あんだろ」
「道が入り組んでるの。自転車の方が絶対早いって」
玄関の脇に止めてあるから使えと言う。それでもKKが迷っていると、
「早くしないと、たっちゃん死んじゃうよ」
そう言って、いってらっしゃーい、と手を振った。診察台に横たわる榊はうつろな目でこちらをみつめている。思わず盛大な舌打ちが出た。KKは煙草を灰皿に押し付けると床に放られた血まみれの上着を拾い上げ、ズボンのポケットに金を突っ込んだ。
「ジジィ! てめぇ勝手に死にやがったら俺がぶち殺すかんな!」
そうして診察室を駆け出していった。
あとに残された香月は振っていた手をゆるゆると止めて、
「ケイちゃんって相変わらず、あったま悪いなあ」
「……笑わせるな。痛い」
店の場所は頭に叩き込んだつもりだったが、どこか途中で脇道を一本数え間違ったようだ。KKは自転車を止めると自販機の明かりを頼りにもう一度地図を眺めた。郵便ポストから二本目の道を右に入って小さな飲み屋がとりあえずの目印、と確認すると、一度走った道を元に戻ってポストを探した。
「なんだってこんなに入り組んでんだよっ」
走りながら思わず文句が洩れる。自転車で来て正解だった。車と人がすれ違うのも難しいような狭い道が細かく交差している。
KKは白い息を吐きながら自転車を繰り、急な坂道を上って再び確認地点に出た。ここの変形五叉路の一本をまっすぐ行けば店に出る筈だった。そうして地図を外灯に透かし見る合間に、不意に榊の青白い顔が思い浮かんで唾を飲み込んだ。
――ふざけんじゃねぇ。
地図を握りしめて走り出す。
店の目印として描かれているのは家と家のあいだに鎮座する小さなお地蔵様だった。KKは裏木戸の前で自転車を止めると息を整えながら辺りを見回した。
目の前にあるのは普通の民家だった。『御用の方はこちらへ』と書かれたインターホンが木戸の脇に付いているが、店の名前を示すものはどこにもなかった。辺りは静まり返っている。もし間違ってたら嫌だな、と思いつつもKKは呼び出しボタンを押した。
『――どちら様ですか』
スピーカーから女性の静かな声が聞こえてきた。
「あの、香月センセのとこから来たんですけど――」
『ああ、承っております。なかへどうぞ』
KKは自転車を降りると静かに木戸を抜けて庭へ入った。
丁寧に手入れのされた庭木を掻き分けていくと、縁側に正座する一人の老女の姿があった。風呂敷包みを目の前に置き、呆気にとられるKKの前で深々とお辞儀をした。
「夜分遅くにご苦労様です」
「はあ」
「ご注文いただきましたお品です。ご確認くださいませ」
KKは怖々風呂敷を開けた。なかには大小三つのビニールパックが入っている。白のラベルに手書きの文字で『A・400』が二つ、小さい方には『A・200』とあった。多分間違いないだろう。KKはポケットから金を引っぱり出した。老女は金を受け取ると丁寧に枚数を数え、「確かに」とにこやかに笑った。
「風呂敷のままお持ちください。どうぞお気を付けて……」
「どうも」
荷物を抱えるとKKはまた静かに庭を抜けた。木戸の手前で家に振り返って眺めてみたが、古めかしい普通の日本家屋だ。なんでこんな家に住むあんな普通のばあさんが売血の商売をやっているのか、いくら考えても理解出来そうになかった。まったく、世の中というのは本当におかしなものである。
ともかく無事に血を受け取ったからには急いで帰らなければなるまい。KKは荷物をカゴに放り込むと自転車の向きを変えて再び暗がりのなかへと走り出した。
香月が老女から電話を受けたのはその直後のことだった。
「ああ、無事に着きましたか。いや良かった良かった」
老女の言葉を受けて香月は笑う。
「わざわざありがとうございました。夜分にごめんなさいね」
『先生のご注文ですもの、お断りなど出来ませんわ』
「やだなぁキミちゃんったら、相変わらず口が上手いんだから」
また遊びに来てくださいよと言って受話器を置き、「着いたってさ」と振り返った。
「聞いてたよ」
ぼんやりと天井を見上げながら榊は呟いた。そうして、煙草吸う? との問いかけに小さくうなずき返す。
「ケイちゃん、地図読めるようになったんだね」
「お前、あいつのこと幾つだと思ってるんだ」
思わず苦笑が洩れた。
「だって大人になってからはあんまり会ってないしさ。なんか子供の頃の印象が強いんだよね」
チビでおバカで、かわいかったよなぁ、と香月は懐かしそうな目をする。そのおバカをいじめすぎたお陰でKKに毛嫌いされていることを今では後悔しているらしい。自業自得だ、と胸の内で呟きながら榊は煙草を口にくわえさせてもらった。
「そろそろ引退したら?」
声に振り向くと、香月は事務机に頬杖を突いてこちらを見下ろしていた。
「体力的にもきついんじゃないの。派手な仕事はケイちゃんに任せてさ、のんびりしたらいいじゃない」
「……やたら引退しろと言われると、意地でもしたくなくなるな」
煙草を奪い取られ、憮然として榊は言い返す。
「ケイちゃんにも言われた?」
「言われたよ。とっとと余生を楽しめとさ」
余生ねえ、と香月も呆れ顔だ。
「まぁでも、たっちゃんに死なれちゃ淋しいからな。それこそ老後の遊び仲間が居なくなっちゃう」
「……今からそんな心配をするのもバカらしい」
もともと安穏と生きられるとは思っていなかった。先の見えない人生で、いつ死んでもおかしくないような生き方だった。むしろこの十年ほどの年月が余生だったとも言える。
「とりあえず、あいつよりは先に死んでやらないと」
「まぁ年齢的に言ったら、それが妥当だよね」
「あと五年だな」
そう言って榊は目を閉じた。一度まぶたを閉じるともう二度と開けられないのではないかと思うほどに疲れ切っていた。体の感覚がだんだんと麻痺してきて、脇腹で鈍く脈を打つ痛みばかりが意識にあった。寝ちゃ駄目だよ、という香月の言葉に生返事をし、「あと五年で死ぬよ」と榊は笑った。
「五年も働けば、ある程度の金も残してやれる。……せめてもの詫びだ」
「……」
気力を振り絞って目を開けると、灰皿に煙草を押し付ける香月の手が見えた。
「ケイちゃん、そんなもの欲しくないんじゃない」
「……どうかな」
それぐらいしかしてやれない。もう教えることはなくなった。とうの昔に独り立ちしても良かったほどだ。お荷物になって煙たがられるぐらいなら、潔く死を選ぶ。
弟子は立派に成長した。もう思い残すことはない――。
「でもさぁ、たっちゃん死んじゃったら、ケイちゃん後追いとかするんじゃないの? なんやかんや言って君ら愛し合ってるからなあ」
そう言って香月はおかしそうにけらけらと笑う。うっすらと開けた目で笑い返そうとした時、診察室の入口で壁を蹴っ飛ばす大きな音が聞こえた。
顔の位置をずらして目を向けると、カーテンをよけて風呂敷包みを小脇に抱えたKKがこちらを睨みつけていた。
「おかえりー」
香月は立ち上がって荷物を受け取り、
「ほんじゃあたっちゃん、気絶してもいいよ」
「簡単に言うな」
苦笑しながらも榊は安堵して目を閉じた。その青白い顔を眺めてKKは思わず舌打ちを洩らす。
「なにくだらねぇ話して重傷患者に無理させてんだよ」
廊下に出ていきながらそう言うと、
「だって手術も出来ないうちから意識なくされちゃったら怖いでしょ?」
と香月はあっけらかんとして答えた。勝手にしろ、と呟いてKKは待合室のソファーにどっかりと座り込んだ。
「寝るなら奥の部屋貸すよ?」
「いいよ、ここで」
「じゃあ、せめて毛布」
香月はそう言って診察室から毛布を持ってきた。KKはソファーに横になると毛布を体にかけて香月の姿を目で追った。
「終わったら起こせよ」
「はいはい」
ごゆっくり、と振る手が診察室のなかへと消えていく。
しばらくしたあとで香月が顔だけを診察室からのぞかせてこちらを眺めているのが見えた。なに見てんだよ、と呟いたように思うけれど、もしかしたら気のせいだったかも知れない。香月はなにも答えずにまた姿を消してしまった。
寝ている最中、KKは暑さで一度目を醒ました。毛布を払い、洩れる明かりから目をそむけて、腕で頭を抱え込むようにして眠ろうとした。名前を呼ばれたのはその時だ。
――ケイ
扉が開いて廊下の明かりが暗い部屋のなかへと射し込んでくる。KKは眠い目をこすってベッドの上で起き上がり、部屋の入口に立つ男の姿を無表情に見返した。
――おいで
それは魔法のようにKKの体を支配する。どんなに眠くても戸口まで歩いてゆけば、あとは男が導いてくれる。決まりごとはひとつだけ。発していい言葉はただひとつ。
部屋の扉は開いていた。なかへ入るとベッドサイドのランプが室内をぼんやりと照らしている。ベッドに横たわる肉体がひとつ。今は毛布がかけられていて、それがどんな顔なのか幾つぐらいの人物なのか、確かめる術はない。
鼻につく血の匂いにKKは息を詰める。男はKKの腕をつかんでベッドのそばまで連れてゆく。足が重い。気が進まない。KKは唇を噛み、うつむいたままのろのろと歩く。
ひどく暑い。
――ほら、見てごらん
剥き出しの腕が毛布からはみ出している。苦痛にあえぐように曲げられた指が今も宙を引っ掻いている。死んでいる筈なのに当人だけがそれを知らないかのようだ。KKは指から目をそらし、むせ返るような血の匂いが嫌できつく目を閉じた。
――ケイ
ひやりと冷たい指がKKの頬を撫でた。ベッドの死体がこちらに腕を伸ばしている。やめて、と心のなかで念じ、逃げ出そうとするのにどういうわけか足が動かない。
――かわいいだろう、お前と同い年の子だよ
男がそっと毛布の上から死体の顔を撫でた。死体は血溜まりのなかでもがいている。今も鮮血はあふれ続け、KKの小さな足を濡らしている。
KKはそこにあるのが少女の死体でないことを知っている。既に知っている誰か、けれど名前の出ない誰かが目の前でもがき苦しみ、自分は、ただそれを見させられている。恐怖の涙がこぼれ落ちたが泣き声を上げることは禁じられていた。許されている言葉はひとつだけだ。でもそれも言いたくない。
やめて、か細い声で呟くが声は暗がりに吸い込まれてしまう。男がKKにも死体をさわらせようとする。腕を引く力に抗い、いやだと首を横に振るが、
――かわいいだろう
男の声は期待に満ち溢れている。
死体がKKの腕をつかんだ。男はKKの髪をわしづかみにして死体へと押し付けた。かわいいだろう、お前もこの子が好きだろう、たったひとつの同意をねだり、男の声は興奮に震え始めている。鉄サビのような血の匂いにKKはまた泣いた。男の手が毛布にかかり、ゆっくりとそれをめくろうとする。知りたくない誰かの顔を見てしまいそうになる。いやだ、やめて、声は喉の奥で凍りついたまま涙となって溢れ出し、
「ケイちゃん」
肩を揺すられてKKは夢から醒めた。毛布を握りしめつつ目の前の白衣を眺め、そこに居るのが誰であるのかを思い出そうとする。
「終わったよ」
「……ああ」
「大丈夫?」
じっとソファーに横になったままで居ると、目の前に香月がしゃがみ込んできた。そうしてこぶしでメガネをずり上げ、ん? と訊くようにわずかに首をかしげた。
「様子は」
KKは起き上がりながらそう訊いた。
「弾は取り出した。内臓の方は応急処置だけ。うちじゃ預かれないし、朝になったら堀内病院の方に移すから着替えだとか色々持ってってあげて」
「わかった」
「ちょっと寝てく?」
しばらく考え込んだあとでKKは首を横に振った。
「車返さなきゃなんねぇし、明日仕事あるし」
「大変だね」
他人事のように香月は苦笑する。KKは煙草を取り出しながら「幾ら?」と訊いた。
「あとでたっちゃんと相談するよ。ケイちゃんはとりあえず帰ってお休みしなさい」
――ガキみてぇに言うんじゃねぇや。
それでもKKは無言で立ち上がると玄関に向かった。
「じゃあな」
「気を付けて」
外に出るとわずかな月明かりが足元を照らしていた。それが血で濡れていないことを確かめてからKKは車に乗った。
運転席に腰を落ち着かせ、短くなった煙草を吸い込んで、深く深く息を吐き出す。
長い一日だった。それでも、ともかくは終わってくれた。