――ケイ
 暗がりのなかでじっとうずくまっている。辺りはひどく暑い。まるで布団かなにかにくるまれてしまっているかのように身動きが利かない。長いあいだ折り畳まれたままの足や腕の関節が悲鳴を上げている。
 ――ほら、見てごらん
 辺りは暗い。まとわりつくような暗闇だ。じっとりと湿っていて、ただただ息が苦しい。
 ――ケイ……


「起きろ」
 肩を揺さぶられてKKは目を醒ました。咄嗟に動かした手がクラクションを鳴らし、自分でやったことなのについ悲鳴を上げてしまった。
「大丈夫か」
 榊が苦笑しながらこちらの顔をのぞき込んでいる。吹き出し口から吐き出される熱風のお陰か、前髪の生え際にうっすらと汗を掻いていた。KKは不精髭だらけのあごを指先で掻き毟り、「時間?」と榊に訊いた。
「ほかの連中はもう作業に入ってる」
 言いながら榊は腕時計に目をやり、四十分前だな、と呟いた。
「今日に限って遅刻とかないよね」
「今のところ変更の連絡はない」
 KKは無言でうなずき返すと煙草に火をつけた。吐き出した煙は暖房のゆるやかな風に乗って作業車のなかを静かに漂う。助手席に座った榊は窓枠に肘を突いて殺風景な駐車場のなかをみつめている。
「今日は風が強いぞ」
「知ってる。――大丈夫だよ」
 狙撃の腕は自分の方が上だ。KKは一度深く煙草を吸い込むと灰皿に押し付けて火を消した。
「行こうぜ」
「ああ」
 二人は作業車から降りると荷台からモップやぞうきんの入ったカートを引き下ろした。そのまま搬入用の大きなエレベーターに乗ってまっすぐ最上階へ向かう。そうして更に上へと続く階段の踊り場にカートを引き上げると、なかに入れておいたスポーツバッグだけを拾い上げて屋上へ出た。立ち入り禁止の張り紙が扉に貼ってあるが、合鍵は既に作ってある。どこにでも出入り出来る掃除屋稼業というのは、こういう時本当に便利だ。
 吹きつける風は冷たいが、降り注ぐ陽の光がわずかながらに温もりを与えてくれた。KKは目的のビルに向かってまっすぐ歩いてゆき、一番視界が広く取れる場所を探した。そうして場所を決めるとバッグから正方形のラグマットを取り出して、風に飛ばされぬようブロックを置いた。更にライフルを引っぱり出し、床に座り込んで設置を始めた。
 榊は無言で仕事を見守っている。
 設置を終えたKKは床に寝転んでスコープをのぞき込み、照準を合わせた。コートに身を包んで寒そうに背中を丸めながら道を急ぐ若いサラリーマンの姿が一番に目に飛び込んできた。しばらくのあいだ銃口をあちこちに向け、視界に誰かの姿が飛び込んでくるたびに引き金を引く真似をした。徐々に体の熱が上がり、心地良い緊張感に包まれつつあるのがわかった。そんな自分がおかしくてつい苦笑が洩れてしまう。
「なんだ」
 榊が不審そうに訊いてきた。なんでもないよ、と答えてKKは再びスコープをのぞき込んだ。
 真っ暗だった。
「あれ?」
 ゴミでも飛ばされてきたか、と顔を上げた瞬間、銃口の前に顔を突き出しているMZDの姿が目に入った。KKは思わず驚きの声を上げてしまい、遠くの景色に目を凝らしていた榊が声に気付いて振り返った。
「こんちはー」
 MZDは宙に浮いたままにんまりと二人に向かって笑ってみせた。
「いやあ奇遇だねえ。たまたま散歩してたらこんなところでお目にかかるなんて」
「……散歩?」
「散歩」
 榊は呆れたようにMZDを見下ろし、それから「まいったな」と頭を掻いた。
「まさかみつかるとは思わなんだ」
「あー、俺のことは気にしないで。別になにもしないし」
 でもちょっと見学させてね、と言いながら屋上に上がってきた。榊は対応に困ってこちらに振り返る。だがKKの方も緊張感と集中が破れたお陰でリズムが狂い、その不快感を追い払うので精一杯だった。MZDは状況を一切無視して「これ、ライフル?」と銃をのぞき込んでは榊に訊いている。
「すまんが遠慮してもらえんかな」
 申し訳なさそうに榊が言った。
「見てても楽しいことなどないと思うんだが」
「えー? そんなことないよ。俺、人殺しの現場って見たことないし」
「だから――」
「ふざけんじゃねぇぞ、てめえ」
 ようやく自分を取り戻したKKは、MZDの胸倉をつかむと給水塔の立つ小屋の壁に力任せに押し付けた。後ろ頭を打ったらしく、奴は呑気にも「痛いなぁ」とぼやいている。
「お前、このあいだからなんなんだよ。俺の周りうろちょろしやがって」
「だから言ったじゃん。見学させてもらってんのよ。社会科見学」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇっ」
 KKはベルトにはさんでおいた銃を抜くとMZDのこめかみに押し当てた。
「なにが目的だよ。あ? 金でもゆすろうってのか」
「みみっちい話だね。底が知れるよ」
「レベルが低くて悪かったな。こちとらお育ちが悪いもんでな」
 ぎりぎりと銃口を押し付けるが奴は平然としたままだ。痛いってばぁ、とまるで冗談のように笑っている。
「あのな、説教は聞きたくねぇんだよ。しかも今は仕事中だ。用があるならあとにしてくれ」
「別に説教なんかするつもりはないけどさ」
 そう言って奴は苦笑した。そうしてこちらの目をのぞき込み、不意に真顔になった。
「お前が――」
 言葉を続けようとしてなにかをためらい、再び苦笑しながら小さく首を振る。
「……なんか、憐れでたまんない」
 横顔を殴りつけるとサングラスが飛んだ。コンクリートの床に跳ねてかしゃんと乾いた音が鳴った。榊の視線を強く感じていた。何故か恥ずかしくてたまらなかった。
「失せろ」
 MZDは殴られたまましばらく動かなかった。だがやがてゆっくりと歩き始めると、落ちたサングラスを拾って宙へと浮いた。そのまま音もなくビルの下へと消えていく。一度もこちらは振り返らなかった。
「――とっとと終わらせて飯食いに行こうぜ」
 KKは銃をベルトにしまうとライフルの前へ戻りながらそう言った。榊は小さくうなずいた。


 デジタル時計の数字が一つ一つ進んでいくのをKKはイライラと見守っている。予定時刻を十五分過ぎたら一人で戻れと言われていた。既に二十分近くが経過している。対象が現場に到着するのは確認してある。考えたくはないが非常事態のようだ。
「――くそっ」
 KKは吐き捨てるようにそう呟くとドアを開けて車を降りた。
 大仕事の締めの晩だった。昼の狙撃から続けての作業だ。たまには働かせろと榊は笑い、ヤクザの幹部を狙撃するという危険な仕事に名乗りを上げた。
 対象は毎週水曜日の晩、午後九時に情婦のマンションへ行く。そこを狙い撃ちする予定になっていた。仕事を終えたら近くの公園で待ち合わせて逃げる手筈だった。なのに肝心の榊が戻ってこない。
 KKは公園のなかをぐるりと回って向かい側の道へ出た。その時怒声が聞こえて思わず立ち止まる。そ知らぬ顔をしながら声のする方へ振り向くと、いかにもなチンピラ風情の男がもう一人の男になにかを命令されてどこかへと走り去っていく姿が見えた。
 困ったことになっているらしい。
 KKは時計を見た。二十三分が経過。迷いながら再び公園へ戻り、逃げるべきかと考える。
 今までにこんなことはなかった。もし待ち合わせ時間に戻らなかったらどうするかと冗談で言い合っていたが、五秒経過で即行逃げると笑って答えていた余裕は今はない。KKは祈るような気持ちで公園のなかの植え込みを掻き分けた。どこかで血溜りに沈む榊の姿をみつけてしまうのではないかと思うとたまらなかった。
「ジジィ」
 ささやくようにして榊を呼んだ。
「出てこいよジィサン、俺だよ」
 落ち葉が溜まっているばかりだ。三十分が過ぎようとしている。
 もしかしたら車に戻っているかも知れない。KKはイライラと髪の毛を掻き毟りながら駆け出そうとした。その時だ。
 かすかなうめき声を聞いたような気がして足を止めた。
 ツバキの植え込みの隙間から、見覚えのある靴がわずかにのぞいていた。
「……ジィサン?」
 枝を手で払いながらなかへ入ってゆくと、脇腹を押さえて倒れ込んだ榊がこちらに銃を向けていた。KKは咄嗟に両手を上げ、俺だよ、と呟いた。
「やられたん?」
「……お前か」
 榊はようやく緊張を解いて銃を下ろし、体を起こそうとして苦痛に顔を歪めた。KKは脇に座り込むと手を貸して榊の上体を起き上がらせてやった。左の脇腹を押さえつける手が血で真っ赤に染まっていた。
「なにやってんだよ、ドジ」
「すまん」
 全然すまなさそうな表情で榊が謝る。言いたいことは山ほどあったが、ともかく逃げるのが先決だ。KKは榊の腕を取るとゆっくりと立ち上がろうとした。だが公園の入口辺りで緊張に満ちた男の声が聞こえて動きを止めた。榊を植え込みに隠すようにして座らせ、KKはポケットからナイフを取り出す。そうして立ち上がろうとした時、
「行くな」
 榊が腕を引いてKKを止めた。
「なんで」
「大丈夫だ。動くな」
「……」
「じっとしてろ。大丈夫だ」
 うつむきながら榊が言う。余計なことはするな、と呟くのが聞こえてKKは思わず怒鳴り返しそうになったが、榊の苦しそうな息遣いが理性を呼び戻した。KKはしばらく迷った末にナイフを開いてしゃがみ込み、榊の首に片腕をかけて顔を隠すように抱き込んだ。
 幸いなことに声は車を置いてあるのとは違う方向から聞こえていた。その場に居たのは五分ほどだったが、一時間もの長さに感じられた。三人来たらおしまいだな、と計算しながらじっと気配に耳を澄ませていると、不意に榊が苦笑する声が聞こえた。
「だらしないな」
「ホントだぜ、ったく」
 更なる苦笑に、苦痛のうめき声が重なる。
「何発食らったんだよ」
「……二発かな」
「上等じゃん」
 声が離れたことを確認してKKはナイフをしまい、榊の腕を取って立ち上がらせた。
 車までの道のりがひどく遠かった。後部座席に榊の体を押し込んだ時には既に意識がなくなりかけていた。
「香月の……」
 青い顔で榊が呟く。
「わかってるよ」
 タオルを傷口に当てて着ていた上着で縛り付けるとKKは運転席に飛び乗った。


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