テーブルの上には四五枚の写真が乱雑に置かれている。一番上に乗っているのは恐らく身分証明書の作成にでも使われたのだろう、白黒の風景のなかでくたびれた面長の男が無表情にこちらをみつめていた。
「坂本康則、四十五才」
榊が書類を見ながら写真の男についての情報を読み上げていく。
「羽田商事勤務、千葉県船橋市在住。女房と十四才の娘が一人。半蔵門にある会社まで毎日電車で通勤している」
人は良さげだけど、覇気のない顔してんなあ、とKKは写真をつまみ上げてぼんやり思った。残りの数枚は普段の姿を盗み撮りしたものらしいが、全てスーツ姿のスナップばかりなせいで、証明書用の写真と大差なく見えた。
今までに声を出して笑ったことがあるのだろうか、とふと思う。
「総会屋がらみのことを取り仕切っているらしい。――まぁ見た通りうだつの上がらない人物だから、表向きに使われているだけかも知れんが」
「お飾り人形ってわけか」
「そういうことだ」
榊は灰を叩き落として煙草を置き、缶コーヒーへと手を伸ばした。
「こんな奴、ほっといたってじきに自殺しそうじゃん」
「自殺じゃ困るらしい」
KKは同じようにコーヒーを飲みながら眠い目を榊に向けた。
「自殺はまずい。かといって凶悪犯罪に巻き込まれるのも駄目。とにかく目立つのは避けて欲しいそうだ」
「――酒でも飲ませて車で轢く?」
「通り魔の線も考えたんだが、あまり上手くないな」
そう言って榊は大儀そうに首をひねり、
「とりあえずさらって海にでも放り込もう」
「めんどくせー」
KKは思わずテーブルに突っ伏した。榊は小さく苦笑しながら煙草を拾い上げた。
「お前は拉致の方だけ動け。吉岡に頼めば車も貸してくれるだろう」
「俺が連絡すんの?」
「いや、私がやる。ほかの話もあるんでな」
そう言って写真をひとまとめにするとテーブルの端に追いやり、封筒から別のクリアファイルを取り出した。
「高橋義男、五十八歳。府中市在住。株式会社しんとく勤務。息子が二人居るが両方ともとうに独立して家を出ている。三年前に女房と死別。府中の自宅で一人淋しく暮らしているそうだ」
頬の肉の垂れ下がった老人が一人掛けのソファーに腰をおろしてわずかに口元をほころばせている。どこかの経済雑誌に取材された時の写真だろう。こういう奴は世の中のなにを見ているんだろうか、と再びKKはぼんやり考えた。
「坂本のところと同じ総会屋を利用しているらしい」
「――なに、総会屋さん同士の喧嘩なわけ?」
「ヤクザの内部分裂だとさ。詳しい話は聞かなかったがな」
別に知りたくもねえ、とKKは肩をすくめた。
「こっちの方は多少人目についても構わんそうだ。交通事故程度ならいいだろう」
言いながら榊は書類の文字を目で追い、
「ラッシュ時のホームで足を踏み外すというのはどうだ」
とKKに訊いた。
ワックスや剥離剤の缶が積み上げられた事務所の一角でこんな話をしていると、そこに提示されているのが本当に人の命なのかと現実感が薄れてくる。KKは灰皿に溜まった吸殻をゴミ箱に放り込みながら「いいんじゃないの」とぞんざいに答えた。
「俺やるよ」
「わかった」
榊は写真と書類をひとまとめにするとクリップではさんでKKに差し出した。KKは写真を再確認することもなく書類をテーブルの上に放り出す。
久し振りにまとまった仕事が入ってきた。依頼されたのは全部で四人。どうやら経済ヤクザの内部抗争らしいが、自分で動こうとしないのが今風だな、と榊は笑う。
「いいじゃん。その分金になるんだから」
あとでライフルの整備をしておこうと思いながらKKも笑った。
「ジィサン、そろそろ老後の資金貯まった? 小さいヤツなら南の島とか買えるんじゃないの」
「南の島なぁ」
憧れだなぁ、と呟いて榊は煙草に火をつける。
「別に本気で掃除やってるわけじゃないんでしょ? いいじゃん、とっとと行方くらまして余生楽しめば」
「まだ余生と言うには早かろう」
人を老人みたいに言うなと榊は苦笑した。
「そもそも無事に死ねるとは思ってないからな。いくらなんでも顔が売れすぎた」
「……」
「お前こそ、抜けるなら今のうちだぞ」
「――ジジィより先に引退出来るかよ」
むっとしてKKは言い返す。榊は口元を歪ませるようにして小さく笑った。
「好きにしろ」
まだ早い時間だったが店のシャッターは開いていた。「ちわー」と言いながらKKがフロアへ入ると、床にモップをかけていた晃が驚いたような顔で振り返った。
「――ああ、どうも」
「お邪魔します」
KKはにこやかに笑いながら壁の扉を指差す。
「なにか飲みます?」
「え、いいよ。仕事中でしょ」
「コーヒーならすぐに出せますんで。ちょうど飲もうと思ってたし」
ならばと代わりにモップを受け取った。晃がコーヒーを淹れてくれているあいだにKKは床を全部拭き、用具置き場にモップを戻した。
「来るの早いんだね」
カウンター席に座りながらそう言うと、「新人ですから」と晃は笑った。
「掃除ぐらいしか出来ないし」
「いい心がけだ」
そう言ってKKは笑い返す。
「ケイさんの部屋はほっといていいって言われてるんですけど……」
「うん。ほっといて」
「いいんですか? 床拭くぐらいしますよ」
「いいよ、別に。自分で出来るし」
汚れるほど使っているわけでもない。むしろさわられる方が困ってしまう。
今日は音楽を流す代わりに映画のDVDがかけられていた。KKは煙草を吸いながらしばらく画面に見入っていた。古い時代のSF映画のようだ。
「あの……」
コーヒーカップに手を伸ばすと、晃が遠慮がちに声をかけてきた。
「なにか喧嘩でもしてるんですか?」
「――喧嘩? 俺が? 誰と?」
「いえ、あの……」
もごもごと口ごもりながらMZDの名前を挙げた。KKはカップを持ち上げつつ苦笑する。
「気にすんなよ。元々こういう付き合いだ」
「はあ」
納得のいかないような表情だが、それ以上突っ込んで訊いてもこなかった。そもそも入ってまだ二ヶ月程度のアルバイトだ。KKとしてもさほど親しく会話をするような相手ではない。
底に残っていたコーヒーを飲み干して「ごちそうさん」と呟くと、晃は返事をしにくそうに微笑しながらうなずいた。
部屋に入って明かりをつけ、上着を脱いでソファーに放る。そうしてソファーに座り込みながら背もたれと腰かけのあいだの隙間を探った。手のひらにすっぽりと納まってしまうほどの小さな拳銃がそこにある。KKは手始めに煙草に火をつけ、テーブルに両足を上げたまま拳銃を分解し始めた。
これをもらったのはずいぶんと昔のことだ。今ではもう使うこともない。それでもどうしてだか手放す気になれず、寝床の守り神のように枕やクッションの下に敷いている。分解するのはいつもの儀式だ。一度の仕事で二人以上手をかける時は一度ばらして元に戻す。願懸けをしているわけではなかった。そうしないとなんとなく落ち着かない、それだけだ。
元通りにした拳銃を手のなかでもてあそびながらKKは煙草を吸う。そうして、そういやぁジィサンと一緒に動くのも久し振りだな、と考えた。最近は単発の仕事が多かったせいで拳銃を使う機会も減ってきた。ゲーセンのお遊び射撃では腕がなまってしまう。近いうちにどこかの射撃場ヘ行ってくるとしよう。
煙草をもみ消してKKは立ち上がる。
「じゃあな」
小さい銃身に軽く唇を触れると、名残惜しくも再びソファーの隙間に拳銃を押し込んで部屋を出た。
「もう帰るんですか?」
晃がカウンターのなかからそう声をかけてきた。
「夜勤だよ」
「お疲れ様です」
KKは後ろ手に手を振ってフロアを抜けた。
仕事だ。
ジーンズのポケットに突っ込んでいる携帯が短く振れて止まった。榊からの合図だ。対象が駅に着いたらしい。KKは運転席で体を起こすとシートを直し、シートベルトを締めてワゴン車をファミレスの駐車場から発進させた。
「来たん?」
後部座席に座っていた吉岡が小さい声で訊く。
「来た」
KKは静かに答えて信号を右折した。
対象の帰宅ルートの内で一番人通りが少なく住宅の少ない場所に車を止めてKKは運転席を降りる。冷え込んだ空気に身震いしながら車の裏に回り、外灯から姿を隠した。対象の顔は二度ほど臨時で掃除に入ってしっかりと目に焼き付けてあるので見間違うことはない。
車に寄りかかりつつ道の曲がり角を見張ること約十分。コンビニの袋を片手に提げ、携帯の画面に見入りながら夜道を歩く対象の姿が現れた。KKは車体を軽く指で叩いてなかに居る吉岡に合図を送った。
対象は当然のようにこちらの姿には気付いていない。車があることすら知らないかのようだ。携帯を操作しながらだったので一瞬車にぶつかりそうになり、驚いて顔を上げた瞬間、KKは暗闇から飛び出して対象の首に片腕をかけ、頚動脈を押さえて失神させた。ぐったりともたれかかってくる体を引きずり、ワゴン車の荷台に引き上げると落とした携帯とコンビニの袋を放り込み、扉を閉める。
なかでは吉岡がガムテープを広げて待機していた。即座に口をふさぎ、後ろ手に縛り上げ、足も一つにまとめる。そうして上から毛布をかけるとKKは後部座席をまたいで運転席に移動し、駅へと向かって車を発進させた。
この間、約二分。目撃者は居ない。
「簡単だったね」
吉岡が後部座席のシートを戻しながら笑う。
「おにぎりあるよ。食う?」
「いらね」
吉岡は対象が持っていたコンビニの袋を探っている。
KKはこの男が好きではない。どこか軽薄で金に薄汚く、いつかどでかいドジを踏むのではないかと心配でならなかった。それでもまぁ役には立つ、というのが榊の意見だ。一応仕事はこなせるようだから我慢してはいるが。
駅のロータリーで車を止めると、暗がりのなかから榊がやって来た。
「どうだ?」
KKは無言で後ろを指差す。バックミラーに映る吉岡も、おにぎりにかぶりつきながら真似をするように背後を指差した。それを見た榊は何度かうなずき、助手席に乗り込んで「出せ」と短く命令した。
「どこ行きゃいいの」
車を出しながらKKは訊いた。
「ケイさん、好きなとこで降りなよ。あとは俺が運転するから」
「あっそ」
とはいえ千葉のここからでは都内まで戻ってしまうわけにもいかない。総武線に沿うようにしてしばらく西へ向かい、途中のどこかで降りようとKKは考える。
車のなかで喋っているのは吉岡だけだった。KKは貝のように黙り込み、榊もたまに生返事をする以外に言葉はなかった。対象は意識を失ったままなのか、少しも騒ぎ出す気配がない。
――あんたは俺と同じだな。
車を運転しながらKKは思う。
――道具として生きて、道具のまま使い捨てられるんだ。
自覚がない分、もしかするとこいつの方がマシなのかも知れない、とも思う。
赤信号で車を止めた時だ。ハンドルにもたれかかるようにしてぼんやりと横断歩道を渡る人影を眺めていると、帽子をかぶったMZDがこちらを向いた。向こうはサングラスをかけたままだったが目があったのがわかった。驚いた様子もなく、わざとらしく足まで止めやがった。
「早く行けよ」
運転席で不機嫌に呟くと、榊が不思議そうな顔で振り返った。
「どうした?」
「――別に」
上りの電車はとっくに終わっていた。KKは途中でタクシーを拾い、店まで行った。酒をもらってひと口だけ飲んで、朝まで昏々と眠った。奴の姿はなかった。
ヘッドホンから流れる音楽をイライラと聞き流しながらKKはホームに立っている。二両目、と当たりを付けていた通り、対象が乗車口から吐き出されてきた。タイミング良く向かいのホームに電車がやってくると放送が入った。人込みをよけて比較的空いている方へと流され、対象が電車を待つ人の列の前をすり抜けた直後、反対側から歩いていったKKは少し強めに対象の体を線路へと押し出した。
かすかな悲鳴は電車の警笛に掻き消されてしまった。
脳天に突き刺さるような急ブレーキの甲高い音が響き、事態に気付いた一人の女性が大きな悲鳴を上げた。人々は何事かとざわめき立ち、KKも現場を充分離れてから無表情に振り返った。
電車がホームの中途半端な位置で止まっている。それだけを確認すると、KKは音量を少し上げて階段を上り始めた。
一番上のところでMZDが待ち構えていた。こちらを見下ろしてにやにや笑っている。KKは階段を上りながらその顔を睨みつけると無言で目をそらし、人込みのなかへとまぎれていった。