エレベーターを七階で降りてKKは教えられた病室を探す。夕飯の時刻なのか病棟内部は妙にざわついていた。部屋番号を確認しながら廊下を行くと、ふと通り過ぎようとした部屋の入口に榊の名前があった。
「ジィサン」
入口付近を軽くノックして病室へ入ると、点滴を受けていた榊がこちらに振り返った。
「着替え持ってきた」
「ありがとう」
部屋は個室だった。入ったばかりで個人的な荷物がないせいかひどくがらんとして見える。KKは着替えの入った袋をベッドの下に押し込むと、壁に立てかけられているパイプイスを開いて腰を下ろした。
「胃潰瘍かよ」
「胃潰瘍だと」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。いくらなんでも無理があんじゃねぇのと言うと、「これからほかの病気がみつかるそうだ」とおかしそうに榊が教えてくれた。
「とりあえず一度なかを開いて手当てしないといけないからな。院長が適当に病名をでっちあげてくれるだろう」
「もっかい手術?」
「仕方ない。奴の腕じゃいまいち不安だ」
そう言って榊は苦笑する。確かに応急処置のまま放っておくわけにはいかない。KKはやれやれと首を振った。
「入院したてで悪いんだけどさ、来月の予定だけ組んでよ。俺、あんなごちゃごちゃなの、わけわかんねぇよ」
「わかった。明日にでも書類全部持ってこい。どうせ暇だしな」
しばらくは飯も食えないそうだ。煙草が吸いたいなぁと点滴の管をみつめて切なそうに呟くのがおかしかった。
不意に沈黙が降りてKKは居心地の悪さを覚えた。怪我が原因でしばらく寝たきりになっている姿は今までに何度か見ているが、こんな風にしてきちんと入院するのは今回が初めてだ。入院患者用の白い衣に身を包み、腕に点滴を付けられた姿からは、普段の呑気さをうかがうことは出来ない。
やっぱ老けたよな、と横顔を盗み見てKKは思う。いつもは意識することもないが、自分が歳を取り成長した分、榊も同じ年数を歩く。二人のあいだにある二十数年の差が縮まることは絶対に有り得ないのだ。
「なんか要るもんある?」
沈黙を誤魔化すようにKKは訊いた。榊はしばらく考え込んでから、
「酒と煙草」
「却下」
「せめて煙草一本」
「一年ぐらい入院しとくか?」
「……暇つぶし用の雑誌」
「わかった」
「あと小さいのでいいからカレンダー持ってきてくれ。日付けがわからんとボケそうだ」
そうして、入ったばかりだというのに「早く退院したい」と情けなく呟いてみせる。思わず吹き出した。
火曜日には出来上がるというので予定表を受け取りに行った。仕事が延びたお陰で時間は遅くなってしまったが、一応見舞い許可の時刻内だ。近々再手術になるという話だからその辺りのことも聞いておきたかった。
いつものように病室へ入ろうとすると、なかから笑い声が聞こえてきた。ほかの入院患者か誰かが遊びに来ているのかと思ったが、違った。
「よー、お久しぃ」
窓枠に腰をおろしたMZDがKKの姿を認めて笑った。榊は相変わらず点滴を受けながらベッドで半身を起こしている。
「見舞いに来てくれたんだそうだ。指を差して笑われたがな」
「指差して笑っちゃった。だって胃潰瘍ってさぁ」
そうして、また我慢出来なくなったのかけらけらと笑い始めた。KKは病室のなかに一歩だけ入り込み、壁にもたれかかりながら「なんの用だよ」と訊いた。
「だからお見舞いだってば」
そう言ってMZDは背負っていたバッグを探り、なかから封筒を取り出した。
「はい、お見舞い。早く良くなってね」
見覚えのある封筒だった。表には黒のマジックででかでかと「俺様の!」と書いてある。
「ほんじゃあね。お邪魔しましたー」
MZDはにこやかに手を振ると病室の窓から出ていった。窓を閉めた榊は封筒のなかをのぞき込み、品物を確認して驚きに目を見張った。
「たいした見舞いだな」
「……いいじゃん、もらっときゃあ」
KKは壁に寄りかかったまま不機嫌に呟く。厚さからいって、今まで渡してきた金が全部入っているようだ。
――やり方がいちいち嫌味なんだよ。
なにからなにまで、全て笑われているようで腹が立つ。KKは予定表を受け取るとそのまままっすぐ店へと向かった。
晃がカウンターに居たがKKは無視した。人込みを掻き分けて扉を薄く開け、なかに体を滑り込ませる。とたん、
「はい、KKさん死亡」
ソファーに腰を下ろしたMZDがおかしそうにそう言った。クリップライトの明かりを受けて、奴の手に握られた小さな拳銃がわずかに光って見える。
KKは無言で扉を閉めて蛍光灯のスイッチを入れた。
「返せよ」
奴は聞いているのかいないのか、手のなかで拳銃をくるくると回して遊んでいる。KKは扉にもたれかかり、腕を組んで奴の姿を見下ろした。
「これからお仕事? 大変だね」
「お前には関係ねぇだろ」
「終わったらまた来なよ。ニャミなんかが遊び来るようなこと言ってたからさ」
「もう来ねぇよ」
そう言うと、奴は手を止めてとぼけたようにこちらを見た。
「なんで?」
「……お前が契約切ったんじゃねぇか」
預けた金は全て突っ返された。もうここに居ていい理由はなくなった。そうしたのは奴自身だというのに、何故かMZDの方が不思議そうな顔をしている。
「それだけ取りに来たんだよ。それ返してくれりゃもう来ねぇから安心しろ」
そう言ってKKはソファーに歩み寄るが、奴は「ちょっと待ってよ」と苦笑しながら逃げるように立ち上がった。
「なに、契約って」
「――お前がここ使えって言っただろ? だから金払ってただろ!? なんでわかんねぇんだよ!」
腕を伸ばして銃を奪い取ろうとするが寸でのところで逃げられてしまった。更に追いかけて殴りかかったが、奴はふわりと浮き上がってその手をよけた。そうして銃をズボンにはさむと不意に目の前へやって来て、平手で強くKKの頬を叩いた。
「ちょっと落ち着いて話聞けって」
そう言ってKKの体をソファーへと押しやった。倒れるように座り込んだKKはすぐにでも反撃出来るようにと体を開きながらMZDを睨みつける。奴はテーブルの向こう側に体を下ろし、片手を突いて、とりあえず苦笑した。
「あのさ、貸したよ。確かに貸した。でもそういうつもりじゃなかったんだけど全然わかってなかったみたいね」
「そういうつもりってどういうつもりだよ」
「だから話聞けってば」
叱るようにそう言うと、MZDはテーブルの足に背中を預ける恰好で座り込んだ。
「あのさ、お前はお客さんでさ、まぁ仕事行くのに都合いいからかも知れないけど? それでもしょっちゅう遊びに来てくれてるわけじゃん。言ってみりゃあお得意様なわけよ。従業員とかもだいたいはお前の顔知ってるし」
「……」
「そんでお前が裏の仕事終わらせて、すっげーしんどそうなツラして店来るとさ、みんなやっぱり気にするわけよ。KKさん疲れてそうだなってさ」
「だから迷惑なら」
「だから迷惑じゃないんだって。そういうのは迷惑とは違うの。いいから話聞いて」
なだめるように足を叩かれてKKはソファーの上へと足を引っぱり上げた。MZDの顔は笑ってはいるが茶化すことの出来ない真剣さがあり、おとなしく口をつぐむしかなかった。
「誰でもそういうのは気になるもんじゃん。お前だって、ジィサンが入院して心配するみたいにさ、俺もお前のことが心配になったりするわけよ。別に仕事に関してはなにも言わないよ。言ったって聞きゃしないのはわかってるし、お前が選んでしてることだからさ。口出しはしない。でもおんなじ理由で俺は俺のしたいようにお前のこと心配してるわけ」
――言うだけだったらなんとでも言えるよな。
KKは胸の内で文句を返す。
「別にお前だけが特別っていうわけでもないよ。もしほかにもっと困ってる奴が居たらなんとかしてやろうと思うだろうしさ。でも、だからってお前のこといきなり放り出したりもしない」
「――八方美人」
「博愛主義者ですから」
そう言ってMZDはにんまりと笑った。
「あのね、この部屋はお前の為に用意したのよ。お前が誰にも気兼ねしないで好きに使えるようにと思って作ったの。まぁ、元はただの倉庫だからさ、気に入らなかったら使わなくってもいいんだけど」
「……」
「使いたくなかったら半年でも一年でも使わなくていいのよ。無理やり店に来いなんてことも言わないし。お前の好きなようにして。でも使いたかったら毎日でも来て。好きにしてください。鍵も渡してあるよな?」
「……あるよ。だけど、」
「使いたかったら好きに使って。来たくなかったらそれも好きにして。でもここはお前の為に用意した部屋だから、ほかの誰にも貸さない。ある日来てみたら部屋がなくなってました、なんてことには絶対にしない。もしその必要があったら絶対話す。これはただ単に俺のわがままなの。俺がそうしたいからそうしてるだけ。お前がなにか気兼ねする必要はないし、金が欲しくてしてるわけでもないの。もしお前が嫌だったらそう言って。別に契約書交わして事務的なやり取りしたいわけじゃないのよ。迷惑ならきちんと言って。言ってくれればいいから」
「わかったよ――」
「わかった?」
逃げるようにして立ち上がっていた。何故だかわからないがひどく落ち着かなかった。壁に向いて大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着かせようとしたが駄目だった。イライラとこぶしで壁を殴りつけ、
「KK?」
名前を呼ばれて、ゆっくりと振り返る。
顔がまともに見れない。
「どうする? ここ、片付けた方がいい?」
「……」
KKは目をそらし、うつむいて言葉を探した。
「別に――」
「別に?」
「………いいよ、このままで」
「わかった。ありがと」
テーブルに銃を置く音が聞こえた。
「ごめんな。ちゃんと説明しない俺が悪かった」
『――ごめんな』
「……好きにすりゃいいだろ」
「なんで?」
「お前の店なんだし」
「そうだけどさ。そういうことじゃないじゃん」
MZDは困ったように笑っている。KKは言葉の意味がわからなくて思わずじっとみつめてしまった。
「お前見てると、時々怖いよ」
「なにが」
「自分の方が殺されたがってるみたいで」
――ケイ
――見てごらん、かわいいだろう……
父親の恍惚とした表情を思い出す。
あの時、そこに横たわる死体は確かに特別だった。父親のそんな表情をほかで見たことはなかった。
殺されたがっている?
――そうかも知れない。
誰かにとってその肉体の死は特別だった、俺も死ねばそんな風に見てもらえるかも知れない――。
「KK」
名前を呼ばれてKKは我に返った。MZDはソファーにもたれかかりながらこちらを見ていた。
「また遊び来てよ。十年経っても二十年経っても、俺ここで待ってるからさ」
そう言って笑い、な? という風に軽く首をかたむける。何故そんなことが平然と言えるのかKKには理解出来ない。呆気にとられ、なにか言い返す言葉を必死になって考えた。そうして、
「……気色悪…っ」
誤魔化す為に笑おうとして、失敗した。
「KK?」
大きく息を吸い込んで奥歯を噛みしめ、腕で顔を隠したけれど、もうばればれだ。どしたの、と小さく訊く声に答えられなくて首を振り、逃げるように部屋の隅へと向かってゆっくりと歩いた。
息を整えようとしたのに、嗚咽が洩れていた。
なんでもねぇよと返事が出来ない。
KKは両腕で頭を抱え込み、ゆっくりと壁沿いに歩きながら静かに泣いた。どうして泣いているのか自分でも良くわからなかった。バカじゃねぇのか、くだらねえ、必死になって自分を鼓舞したが効果は薄い。大きく息を吸い込んで向かいの壁にたどり着いてしまい、結局そこでしゃがみ込んで長いことKKは泣き続けた。泣いているあいだじゅう、ずっと昔に聞いた誰かの声が耳の奥でささやき続けていた。ひどくやさしい声だった。
――ごめんな。
怖い思いさせて悪かったよ……。
煙草のほのかな明かりが灰皿を照らす。灰を叩き落として持ち上げようとしながらも、ふと考え直して手を戻した。
扉の向こうは相変わらずにぎやかだ。でもこちら側はもう真っ暗で、耳元で小さな寝息が聞こえるばかりだった。
煙草の火を消して、ソファーに腰を下ろしたまま灰皿を戻そうとしたが、やはり肩が動いてしまったらしい。暗がりのなかで奴が身じろぐ気配がした。
「……」
KKが体を落ち着かせるのを待って、また肩にもたれかかってくる。タオルケットを口元まで引きずり上げて眠ろうとする。
「ジィサンは――」
不意に奴が口を開いた。
「どうなの、容態は」
「……二三ヶ月は入るんじゃねぇのか」
結構いい歳だしな、とKKは呟く。
「そう」
そうして、また眠りに落ちた。
KKは首の力を抜いて奴の頭に頬を乗せた。そうして目をつむり、静かに眠りの波を探した。静寂とざわめきが両方聞こえてくるが、意識を集中させれば、また小さな寝息をみつけられる。
暗闇のなか。
もたれかかってくる重み。
小さな寝息。
奴の温もり。
ささやかな命/2006.09.23
2006.12.05 一部加筆訂正