気が付くと手のひらが焼けていた。MZDは宙に浮かび、苦労しながら指を開いて手のなかのものをみつめた。
小さな、拳銃の弾。
ここにKKの怒りが詰まっている。こんなものに。
投げ捨ててしまおうかと思ったが何故か出来なかった。月明かりのもとでそれを眺めたまま、ずっとどこにも行けずにいた。
あれからどれくらい時間が過ぎたのだろう。もうKKは榊を殺しただろうか。……本当に、殺す気なのか。
こんなことは今までにいくらでもあった、MZDはそう自分に言い聞かせ続けている。誰かの怒りや憎しみ、悲しみや嘆きが、ほかの誰かの命を奪う。何度も見てきたことだ、ある時代にはそれが立派だと褒めそやされもした。
全部彼らが決めることだ。声を上げて反対することは出来る。だけど、それだけ。KKが自分に銃口を向けたように――そして実際に引き金を引いたように、彼らの問題は彼らが解決するしかない。部外者はただ見てるだけ。
――でも。
何度も何度も逡巡を繰り返している。そうして進もうとしてはまた思い止まり、結局その場から動けない。
KKがどんな想いで榊に銃口を向けたのか。痛いほどによくわかる。答えを出すべきはあいつだ、自分に出来るのは黙って結果を受け入れることだけだ。
――でも。
わからない。どうすることが一番いいのか。何度考えてもわからない。
泣きそうになって目を上げると、影が心配そうにこっちを見ていた。MZDは無理に笑おうとしたが出来なかった。唇を噛んでうつむいてしまう。
「……結局、これしかないんだな」
弾を握りしめた時、ぼやきのような呟きが洩れた。
見ていることしか出来ない。……なんて無力なんだ。
これからどうしようかとMZDはのろのろ顔を上げた。空は晴れて月がキレイで、いつもだったらふらふら散歩でもしている晩だった。春の香りがわずかにするのを楽しみながら、なんの心配事もなく。
しばらく影と顔を見合わせていた。どこか目的地があれば勝手に連れていってくれという気分だった。それを悟ったのか、不意に影が腕を引いた。
「……? なに?」
行こう。――その目が語っている。どうせなら、最後まで見よう。
MZDは一瞬迷った。だけど、影に腕を引かれるまま移動を開始した。
連れていかれたのは海沿いに並ぶ大きな倉庫の裏だった。なかなか光が届かない場所らしく、まだここには雪がたくさん残っていた。
最初に見えたのはKKの姿だった。倉庫の壁に向かって立ち尽くしている。辺りの雪は踏み荒らされたせいで汚れて見えた。下は舗装されておらず、土が剥き出しになっているらしい。
MZDは少し離れた場所に降り立って、KKの背中に声をかけようとした。その時、だらしなく放り出された人間の足が見えて息を呑んだ。
榊が、倉庫の壁を背にして座り込んでいた。白かったワイシャツは血と泥で汚れている。あごからは今も鮮血がしたたり落ちていた。まだ息があるのかどうか、ここからではわからない。
呼びかけかけた声はかすかな悲鳴に変わった。それに気付いてKKがゆっくりと振り返った。
「……よ」
まっすぐこちらを見て笑いかけてきた。
「今日はよく会うな」
「……そだね」
「お前、レーダーかなんかでも付いてんじゃねぇの?」
そう言っておかしそうに笑った。笑い返そうとしたが顔がひきつってしまって出来なかった。それを見て、KKも静かに笑いを収めていった。
「悪いけど、今ちょっと忙しいんだよ」
「……そ」
KKは向き直って榊を――榊の死体を?――見下ろした。
「また今度な」
もはや声も出せず、ただうなずいた。しかしKKには見えていないので、返事がないのを訝しがるようにもう一度振り向き、「な?」と念を押してきた。
「……わかった。またね」
「悪いな」
「ううん。いいよ、別に。……じゃあね」
手を握りしめてMZDは浮き上がった。そうしてそこから離れながら、長いこと二人を見下ろしていた。KKはずっと動かないままだった。一度だけ、榊の足を蹴りつけるのが見えた。榊はなにも反応を示さなかった。
どこかに向かって飛んでいた。夜空の彼方に浮かぶ月を見ていた。握りしめた手のなかにはKKの怒りがあった。
こんなものに。
気が付くと泣いていた。両腕で頭を抱え、身も張り裂けんばかりに大声を上げて泣いていた。
なにか大きな物音がしたような気がして香月は目を醒ました。テーブルを探りメガネをかけて時計を見る。午前二時。気のせいかと思ってもう一度眠りにつこうとしたが、どうしても放っておけず、仕方なくベッドを抜けた。
――まさか泥棒じゃないよねえ?
そうだとしたら、素直に現金を渡してお引き取り願おう。一応は、まだ失うには惜しい命だ。
部屋の電気をひとつひとつ付けていって誰も居ないことを確認した。そうして台所へ行き勝手口にきちんと鍵がかかっていることを確かめた時、ようやくあれ、と思い至った。
音は診療所の方ではなかっただろうか? 香月はあわててきびすを返し、住居部分とを隔てる扉を開けて待合室の明かりをつけた。やはり誰か居るらしい。車のドアを閉める大きな音が聞こえた。
サンダルに足も通さず、裸足のまま玄関に下りた。そうして鍵を回して扉を開けると、診療所の前庭に濃紺のハイエースが止まっているのが見えた。香月が外に出た時、運転手がライトをつけた。眩しくて目が開けられない。あわてて顔を背けて声を上げた。
「誰?」
相手は答えなかった。ただエンジンの音だけが聞こえる。香月は目をうっすらと開けていった。その時初めてそこに人間が倒れていることを知った。
「あんたにくれてやる」
聞き覚えのある声が言った。倒れているのが誰なのか、その声で理解した。香月は倒れている男の首筋に手を当てながらもう片方の腕で光をよけ、運転手の名を呼んだ。
「ケイちゃん」
KKは返事をしなかった。だが声は聞こえている筈だ。榊の首筋が弱々しくも脈を打っていることを確かめたのち、香月はそれを訊いた。
「なんで殺さなかったの?」
返事はなかった。KKは無言で車を出し、夜の街へと消えていった。榊と二人で取り残された香月は、側にコートや色々なものが放り出されているのをのろのろと拾い上げながら旧友に振り返った。
「まったく、君らは…………もう!」
人に迷惑をかけることしか知らないのかと憤ったあと、知り合いに電話をかける為になかへと戻っていった。
「大変な子供拾っちゃったよねえ、たっちゃんってば」
大声で話しかけながらボタンを押していく。まあでも自業自得だよねと更に大声で笑った。
笑うしかなかった。
榊は不意に姿を消した。なんの前触れもなく、まるで最初から存在しなかったかのように。
しかしだからといって人々の記憶から榊の姿が消去されてしまうわけではなかった。当然会社では大騒ぎになった。何度も何度も携帯電話に連絡が入れられたが、いつかけても通じなかった。この電話は電波の届かない場所か電源が、と機械的な女の声が冷たく繰り返すだけだった。
自宅を知っている数人が榊のマンションまで訪ねていったが、やはり留守だった。警察に届けるべきだと当然誰かが言い出した。しかし管理会社に頼んで鍵を開けてもらいなかに入ってみたが、別段強盗に襲われたような形跡もなかった。事件性が認められなければ警察が腰を上げることは有り得ない。
ともかく少し待ってみよう。長年榊と共に仕事をしてきた年かさの男が言った。あの几帳面な人のことだ、会社を放り出してそのままなんてことは絶対にしない。会社の金を無断で使い込んでいたわけではないし、きっとなにか理由がある筈だ。
幸い榊が住んでいる部屋は分譲マンションで、既に支払いも終わっていた。余程のことがない限りはそのままにしておける。戻る場所があれば、いつかはきっと連絡が来る。だからそれを待とう。
ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ、三ヵ月が過ぎた。相変わらず榊の電話は通じなかった。そうして四ヵ月が過ぎようとする時、とうとう通話が止められてしまった。多分支払いが滞ったせいだろう。その頃にはもう殆どの人間が、榊は恐らく戻らないだろうと思い始めていた。
形式上、誰かが代表者に腰を据える必要があった。社員全員で話し合い押しつけあった結果、その例の年かさの男が座ることになった。あくまでも自分は代理だからと男は言い張ったが、偶然にもそれは榊が社長になった当時とそっくり同じ姿だった。
春が来て夏が来て、秋が来ようとしていた。気が付けば半年が経過していた。夏に臨時で雇ったバイトは、当然ながら榊を知らなかった。代理のその男を本来の社長だと思い込んでいた。
榊は当たり前のように居なくなった。もはや誰かがその名前を口にすることすら滅多になくなった。そしてそれはKKも同じだった。
この半年のあいだに一度だけ「仕事」をした。最低限必要な人間だけを集めて実行に及んだ。なんとかなる、とKKは思った。やはり榊が必要とするほどに人間はいらない。今は無理に切らないが、そのうち規模を縮小してやろうと密かに決めた。
香月からはなんの連絡もない。こちらから連絡を入れることもしなかった。だから今榊がどこに居てどうしているのか、KKにもわからなかった。
どこに居るのか。
生きているのか、死んでしまったのかさえも。
そんな風にして無事に半年が過ぎた。会社はなんとか普段の落ち着きを取り戻している。繁忙期にはやはり目が回りそうな毎日が続くが、それもじきに終わってしまう。
すぐそこに秋が来ている。榊の電話は通じないままだ。花見は結局行かなかった。