出勤途中、事務所の近くにあるコンビニで久し振りにホットの缶コーヒーを買った。もうそんな時期なんだなと思いながらKKは階段を上がった。そうしていつものように「おはよーっす」と言って事務所に入ると、そこに榊が居た。
あの時と全く同じスーツだ。ネクタイまで揃えてやがる。
既に出勤していた全員が榊の周りに集まって笑い声を上げている。最初にKKに気付いたのは当の榊だった。声は出さずにじっとこちらをみつめてきた。
目が合った。
生きてたんだ、と思った瞬間、吐きそうになった。
視線に気付いてほかのみんなも振り返った。そうしておはようと口々に言い、
「聞いてくれよ、記憶喪失だってよーっ」
とげらげら笑った。
「……え? なに、どういうこと?」
KKはあわてて我に返り、愛想笑いを浮かべながらその輪に加わった。だがみんな興奮しているようで誰かが話し始めればすぐに誰かが言葉を奪ってしまう。そんなわけで筋をまとめるのが大変だった。
話を総合するとこうだ――榊はある日目を醒ますと病院のベッドで横になっていた。担当してくれた医者の話によると、川崎のとある路地で血まみれになって倒れているところを発見されたらしい。身元がわかるようなものは一切身につけておらず、しかも意識不明のまま五日間も眠り続けていた。あちこち骨が何本か折れているがそっちは単純骨折だから時間をかければ元通りになる。あとは頭の傷がひどかったので検査をしてみたが、まぁ脳波に異常は見られないしCTスキャンの結果も不安要素は見当たらなかったから安心してくれ――さて。
『まずは基本的なところからおうかがいします。あなたのお名前は?』
榊は医者の顔をみつめたままベッドの上で首をひねった。今が平成という時代であることは知っていたが、こまかい日付はわからなかったし、何故自分が川崎の路上で倒れていたのか――しかも血まみれで――どうしても思い出せなかった。歳すらわからない。住んでいるところも思い出せない。どんな仕事をしていたのか、川崎でなにをしていたのか。
医者は困惑した表情を浮かべたが、頭部を強打した時は往々にして記憶障害が起こることがある、多分じきに記憶も戻るだろうから心配することはないと説明した。
榊はありがとうございますと頭を下げたが、やはり首をひねり続けた。
――さて。
私は誰なんだ?
翌日警察が事情聴取に来たがやっぱり榊はなにも答えられなかった。ただの物取りにしては傷がひどいし、財布だけではなくて身元を示すものが全部奪われていることから、もしかしたら顔見知りの犯行ではないかと言われた。しかし榊は「顔見知り」を誰一人として思い浮かべることが出来なかった。
警察は困惑して帰っていった。それ以上に困惑したのは当の本人だ。なにかに釣り上げられて、ふわふわと浮いたままのようなひどく中途半端な状態だった。傷は痛んだが、白い天井を見上げながら榊は毎日考え続けた。
私は誰なんだ?
正体不明のままひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ、やがて退院の日がやって来た。とはいえ帰る場所などありはしない。相変わらず自分の名前も思い出せないまま、どうしたらいいのかと途方に暮れていたら、とりあえず川崎市に保護されるということでアパートの一室をあてがわれた。単純作業ながらも仕事を与えてもらい――ここで笑ってしまうのはこの時も清掃をやっていたということだろう――不安ながらも日々を過ごしていた。
そうして春が過ぎ夏が過ぎ、秋が近付いてきたとある日のことだった。榊はふとコーヒーを入れようと棚を開けた瞬間、自分が居るべきではない場所に居ることに気が付いた。見覚えがないわけではないが、そこは自分の部屋ではなかった。あの例の分譲マンションの台所ではなかった。
――私はなにをしているんだ?
今度は逆回りに記憶が失われていた。記憶を失っていた時のことを殆ど忘れかけていたのだ。ともすれば消えてしまいそうな記憶の断片をかき集め(一番頼りになったのは入院していた病院の診察券だった)、あちこちに連絡を入れた。ようやく自分がどこの誰であるのかを説明し、入院費用やなんやかやを支払い――そして今日ここに居る。
「でもなんで川崎なんかに行ったんですか?」
誰かが当然のように訊いた。榊はしかし首をひねり、
「それがなぁ。そればっかりが、どうしても思い出せなくてな」
「川崎っつったら、ソープに決まってるでしょう」
「お前と一緒にするな」
苦い顔で突っ込みを入れている。げらげらと笑う声が上がり、ほんの一瞬で以前と全く同じに戻ったことを感じさせていた。
「もう社長に車運転させない方がいいぜ。ハンドル握ってる最中にブレーキどこだかわかんなくなるからよ」
誰かが言って、またみんなが笑った。KKもつられて笑っている。そうして思った。
――嘘にしては出来過ぎじゃねぇの?
しかしこちらを見る榊の目にはなにも変化が感じられない。いつもの通りだ。あんなことがあったなど、すっかり忘れているように見えた。
もし本当に忘れてしまっているのだとしたら。
KKは再び吐きそうになる。作り笑いも限界だ。予定表を受け取り、うつむいて顔を隠した。どうすればいいんだと頭をフル回転させて考えたが、解決案はなにも浮かばなかった。間抜けにも直球で訊いてみるか? ――出来るわけがない。
とりあえず今日のところは得意先を回って終わりにするらしい。もう私は社長じゃないだろうと榊は言ったが、代理を押しつけられた男がもう懲り懲りですと言って引かないので、仕方なく現職に戻るそうだ。
皆が現場へ向かうのを榊は机に着いて見送っている。ぐずぐずしていて事務所に最後まで残っていたKKは、その光景を見て思った。
なんてこった、ホントに元通りだ。
全身から力が抜けそうになった。
「どうした、行かないのか?」
煙草をもみ消しながら榊が訊いた。KKは真意を探ろうとじっと目を見返した。だけど、やっぱりそうだ。なにも変わっていない。
「……あー、うん。行くけど」
のろのろとイスから立ち上がった。そうしてジィさん、と呼びかけようとした時、
「そうだ、行く前にワックスの在庫確認付き合ってくれ」
そう言って榊も立ち上がり、先に事務所を出ていってしまった。KKはあとについて隣の倉庫へと足を踏み入れた。部屋の一角に丸い一斗缶が山と積まれている。洗剤もワックスも一緒くただ。
KKは命令されるままにワックスの缶を数え、別の場所に積んでいった。
「高橋の話だと、まだ剥離剤がひと缶残ってる筈なんだがな」
「剥離? なかったよ」
それでもKKはもう一度洗剤の山を積み直して確認した。やはり見当たらない。そうして、やっぱないよと言いながら振り返った瞬間、渾身の力を込めて横顔を殴られていた。
身構える隙のなかったKKはそのまま洗剤の山に倒れかかり、その拍子に腕と背中を打ちつけてしまった。痛みに顔をしかめながら目を上げると、榊が冷たくこちらを見下ろしていた。殴りつけた手をひらひらと振りながら、
「得物を使わなかったことだけは褒めてやる」
まるで汚いものでも見るかのような目で。
KKは起き上がりながら帽子を取り、床に叩きつけた。そうして唾を吐いて憤然と倉庫を出た。そのまま外に出ると作業車が一台だけ止まっていた。だがKKはそれを無視して歩き続けた。おーいと呼びかける声に「うるせえ!」と怒鳴り返して。
大音量で音楽をかけてそれをヘッドホンで聴いているのに、どういうわけかドアが開くのはみつけてしまう。長年の仕事で培われた勘のせいだろうか。KKはソファーで横になったまま客人を迎えた。入口に立っているのはMZDだった。
奴は無言で部屋に入り、静かにドアを閉めた。まだ店は開いていないらしい。ちらりと見えたステージは暗がりに沈んでいた。
KKはソファーの上で体を落ち着かせ、天井を見上げた。真っ黒に塗られた天井には二本蛍光灯が設置されている。今はその蛍光灯が部屋を照らしていた。テーブルのクリップライトは沈黙したままだ。
MZDはソファーの横まで来ると、いきなりKKの足を払い落とした。そうして、なにすんだと睨み付けたKKに向かって腕を突き出した。
親指と人差し指のあいだに、小さな銃弾がはさまっていた。
奴は唇を噛んでこちらを睨み付けてくる。KKも上体を起こしたまま睨み返している。どちらもなにも言わない。だが先に折れたのはKKだった。音楽を止めてヘッドホンを外し、
「……悪かったよ」
あの晩以来の邂逅だった。
KKが腕を伸ばすと、その手のひらに奴が弾を落とした。弾を受け取ったKKはそれをポケットにしまって起き上がった。奴はソファーの肘掛けに腰をおろした。こちらに背中を向けたまま、ずっと黙りこくっている。
店に来るのも久し振りだった。もしかしたら片付けられているんじゃないかと思っていた。だけど部屋は元のままだった。いつ自分が来てもいいようにと、灰皿とごみ箱の中身だけはキレイにしてあった。
なにも変わっていない。
「ジィさんは」
唐突に奴が訊いた。
「生きてるよ」
「どこで?」
「さあな」
固い表情のまま奴が振り向いた。KKは湿布を当てている自分の頬を指差し、
「とりあえず今朝は俺のことぶん殴っていきやがった」
MZDは困惑顔で湿布をみつめていたが、やがてKKに目をあわせると、小さく吹き出した。KKは、けっと吐き出して足を組み、煙草を拾い上げた。
「来年は行こうな」
「あ?」
「花見」
KKは煙を吐き出しながら肩をすくめた。
「わかんねぇぞ。今度は俺が殺されるかもな」
「明日、交通事故で死ぬかも知んないし」
「……まぁそうだな」
なにが起こるかはわからない。でも、
「行こうよ」
そう言って、奴は笑いかけてくる。KKはもう一度肩をすくめ、ゆっくりと煙草を吸い込んだ。
「……春になったらな」
「うん」
――アパートに戻ると会社から封書が届いていた。給料明細が送られてくるにしては中途半端な時期だったし、なにより榊の印鑑が押してあるのが気にかかった。KKは階段を上りながら封を切った。なかに入っているのは一枚の紙切れだった。
「…………なんだよ、これ」
思わず階段の途中で立ち止まって呟いていた。偽物だろうと紙を光に当ててみたが、きちんと透かしが入っていた。さすがにここまで精巧な偽物が作れる奴は居ない。だからこそKKは困惑した。
「え? ――なんだよ、これ」
階段を上がろうとして足を突っかけ、あわてて手すりにつかまった。そうして辺りを意味もなく見渡した。誰かが現れて説明してくれるような気がした。一番納得出来るのは、これがタチの悪い冗談だということだ。
しかし誰も現れなかった。誰もそれが冗談だと断言してはくれなかった。KKは混乱した頭で携帯電話を取り出し、だが誰になにを確認すればいいのかわからず、その場に立ち尽くしてしまった。
MZDがKKの部屋にやって来たのは、それから十分ほど経った頃だろうか。いつも通り窓から入ってこようとする奴の顔面に向けてKKは丸めたその紙切れを投げつけた。
「も、なに怒ってんのー?」
「なんだよそれ、なあ」
まるで奴がその封書を送りつけたかのようにKKは訊いた。剣幕に驚きながらもMZDは紙切れを拾い、破らないよう注意しつつ広げていった。
「ただの戸籍謄本じゃない」
「……その左の欄っ」
「左?」
『養父』という欄があり、そこに榊達也と名前が入っていた。榊? どっかで聞いた名前だなぁとMZDは首をかしげ、
「なんだ、ジィさん? っていうか、この『小林圭太』って誰?」
「俺だよ」
驚いて顔を上げると、それは俺の偽名だと悲鳴のようにKKが叫んだ。そんなこと、そんな大声で喋っちゃっていいのかなと首をひねりながらも、MZDは『小林圭太』の戸籍謄本を確認していった。
本籍地は岩手県になっている。生まれは昭和五十五年六月三日。父親の名前は祐介、母親の名前は妙子だ。両方とも既に鬼籍だった。ほかに兄弟は居ない。何度眺めても、どこがおかしいのかMZDにはさっぱりわからなかった。だからどうしてKKがあんなに怒っているのかもさっぱりだった。
「え、なに? これ、どっかおかしいの?」
そう言って紙面をKKに向けると、急に勢いをなくして目をそらしてしまった。
「……なんだよ、『養父』って」
「え? 養子に行った先のお父さんのことだよね?」
「誰が……!」
そんな当たり前のことを訊いてるよ――そう言いたいんだろうということはわかったが、KKは言葉が続けられなかった。開いた口をいきなり閉じてそっぽを向き、乱暴に髪の毛を掻き回している。やはりMZDにはKKの怒りや困惑が理解出来ない。ちゃんと説明してよと言うと、頬に貼り付けていた湿布を勢いよく剥がして床に叩きつけた。
「あのな、その戸籍は俺が金で買ったんだよ。どうせ役所に預けておくだけのものだからって、とりあえず性別と年齢が合ってそうな奴のを適当に買ったの。今の会社に就職する時。その時から『小林圭太』には身内が居なかったの。どこにも養子になんて行ってねぇんだよ!」
「でもジィさんの息子になってんじゃん」
「だからそれが……!」
なんで養子に入っているんだ?
何故自分が榊の息子になっているんだ?
なんだそれ?
「手続きしたんでしょ?」
「いつ?」
「平成二十年二月二十九日」
すごい日付だよねとMZDは笑ってしまう。
「なんで、わかるんだよ」
「印字されてる」
ほら、と言って紙の一部を指差した。KKがものすごい形相で紙を奪っていった。それを見ながら今年の春先だねと呟いて、MZDは気が付いた。
例のことがあった数日前だ。
「……え? KK、一緒に手続き行ったんじゃないの」
「行かねぇよ。行くわけねぇだろ」
まぁそうだろうなと思わずうなずいていた。養子縁組の手続きするからお前ちょっと来いと言われて、しかも相手があの榊で、どうしてKKが素直についていくだろう?
でも、そうだとしたら余計におかしいよねと、窓枠に腰をおろしながらMZDは言った。
「だってさ、確か昔勝手に籍を入れられたり抜かれたりっていう事件があったからさ、今は手続きに行く人両方の身分証明書が必要になってんだよ」
「両方って?」
「だから養い親になる人と養子になる人、両方。身分証明書も運転免許証とかパスポートとか、なるべく顔がわかるヤツでさ。あとほかにも、確か二人ぐらい証人の署名とハンコが必要だったり」
「……身分証明?」
「うん。――え、もしかして免許証盗まれたりとかしてる?」
「ちゃんとあるよ」
言いながらKKは棚に載る財布を指し示した。
「だいたい、名前が違うんだからすぐにわかるだろ。誰が行ったんだか知らねぇ――」
不意にKKの言葉が途切れた。
「偽造でもしたんじゃないの?」
「……なんで?」
「そんなの俺は知らないよ。でも、なんか出来そうだよね、簡単に」
「……出来るけど……」
でもなんで? KKは途方に暮れた顔でそう繰り返した。なんでって訊かれてもとMZDは肩をすくめる。
「わざわざ免許証偽造して、証人までつけて……えぇ? なんだよそれ、なあっ」
「KK」
いきなりKKが謄本を破き始めた。止める間もなかった。MZDが見る前で紙切れは本当の紙切れになり、KKの部屋中にばら蒔かれてしまった。
「ただのゴミじゃねぇか!」
床に散らばった紙屑を指差して勝ち誇ったようにKKが声を上げた。その必死な姿に、何故だかふと泣きそうになった。
――ジィさん。
MZDはうつむいて奥歯を噛みしめた。――あんたたちは、あんたたち人間は、本当になんて不器用で臆病な生き物なんだ――。
「KK、違うよ」
MZDは弱々しく首を振った。床に散らばった紙屑を見下ろして、
「そこにあるのは、ジィさんの気持ちなんだよ」
「……こんなものがか」
腹立たしげに言って、KKは紙屑を蹴りつける。
「そうだよ、そんな紙切れがね。……わざわざ代わりになる人をみつけてきて、その人の写真と『小林圭太』の名前でなにかの証明書を偽造して、お互いの戸籍謄本を取り寄せて、二人の人に証人になってくれって説明して署名と捺印を頼んで、わざわざ役所まで自分で足を運んで手続きして、それでようやっとそこに『養父』の文字が入るんだよ」
「……」
「たった二文字の為にさ。……なんでそこまで面倒なことするよ」
「……俺が知るかよ」
「ホントに?」
じっと見上げると、KKは逃げるように視線をそらしてしまった。わかっていない筈がない。だけどどこかを睨み付ける横顔は、絶対に認めるものかとかたくなに現実を拒んでいる。
「KK」
「……違うよ」
MZDは思わず肩をすくめた。
「もう明白だろ? なんで拒否すんの? まさにそれを望んでたんじゃないの?」
「違う!」
部屋の中央に立ち尽くし、目をつり上げてこっちを睨み付ける。MZDもそれ以上に言うべきことがわからなくて、同じように目を見返していた。
不意にKKの目から力が抜けた。泣きそうになるのをこらえるように口を歪め、混乱した表情で前髪を掻き上げる。小さく首を振ってのろのろと歩き、ベッドに倒れ込むように腰を下ろした。
両手で髪の毛を掻きむしり、そのまま頭を抱え込み、
「……なんだよ、それ……っ」
かすかな悲鳴を上げた。それっきりだった。
MZDは立ち上がり、KKの隣に腰を下ろした。震える肩に手を置いて静かに抱き寄せる。
嗚咽はいつまでも続いた。嬉しくって泣くこともあるんだよねとMZDはぽつりと呟いた。
エゴイスト/2008.03.09