榊が打ち合わせを終えて事務所に戻った時は夜の九時に近かった。今日は裏稼業ではなくて掃除屋の社長としての打ち合わせだった。お蔭で久し振りにスーツを着込む羽目になった。やはりこういう格好は落ち着かないなと、ネクタイをゆるめて榊はイスにどっかりと腰をおろした。
事務所に戻る最中、吉岡から連絡があった。例の偽造免許証を譲ってもらえないかというのだ。榊は道を歩きながら肩をすくめ、残念だったなと素っ気なく答えた。もう用済みになったので二つに裁断して燃やしてしまった。吉岡はもったいねぇだの、人の写真勝手に使っておいてだのと文句を言うので、じゃあ手数料の二割増しでどうだと打診したら呆気なく引き下がった。相変わらず現金な男である。
吉岡は裏稼業の際、手足となって動く人間の一人だ。まだ二十代の前半で妙に金に汚く、易きにつく傾向があるので榊はあまり信用していない。それでも金次第でなんでもやるので、とりあえずは便利に使わせてもらっている。
だけど、そろそろ切る頃だ。榊は誰も居ない事務所のなかで煙草に火をつけ、少し考えてからファンヒーターのスイッチを入れた。燃焼準備の為にランプがちかちかと瞬くのをみつめながら、あいつの言う通りかも知れないな、とぼんやり思う。
少し手を広げ過ぎた。お蔭で店じまいの準備が大変だ。榊は苦笑を洩らし、着ていたコートを脱いで机の上に無造作に放り出した。そうしてイスに深く座り直して、大きなため息をついた。
まず考えるべきは会社をどうするかだ。
この清掃会社はもともと知人に頼まれて管理運営しているだけで、自分が一から築き上げたわけではない。勿論長年勤めているから愛着はあるが、さほどのこだわりは覚えないというのが正直なところだった。返せるものなら初代社長に引き渡したい。しかし残念ながらずっと前から行方がわからなくなっている。
誰か代わりの人間、と考えて、榊はふとKKの顔を思い起こした。しかし即座に、駄目だな、と自らの考えを否定した。KKは上に立つことを望まないし、自分以外の人間の責任を背負うのも嫌がるだろう。そんな面倒くせぇことやってらんねぇよと顔をしかめる様が容易に想像出来て、思わず笑ってしまった。
短くなった煙草をもみ消して、まぁまだ時間はあるからなと自分に言い聞かせた。多分つてをたどっていけば何人か目星はつけられるだろうし、最悪退職金を多めに渡して社員を解雇し、会社を畳むということも出来る。やり方はいくらでもある。焦ることはない。
本当はそこまできちんとする必要はないのかも知れない。だけど、ある日いきなり姿を消すというやり方はしたくなかった。少なくとも表の顔で付き合っている人間には迷惑をかけたくない。ここで安易な道に流れる事が出来ないのは、恐らく性分だろう。掃除屋稼業が続く筈だと、新しい煙草に火をつけて榊はイスの背もたれに寄りかかった。
その時、不意に事務所のドアが開いた。
「お帰り」
入口に立っていたのはKKだった。仕事はとうに終わった筈なのに、未だにつなぎ姿のままだった。上着を羽織り、首にヘッドホンをかけたいつもの格好だ。
「まだ居たのか」
「うん」
「なにしてたんだ。仕事だったわけじゃないんだろう?」
今夜は夜勤があるわけではないし、なにかトラブルがあって作業が終わらないという連絡もなかった。KKは一瞬叱られた子供のような目をして片手を上げた。
「ジィさん、書類取りに来るって言ってたから、待ってた」
そうしてちらりと机の方を見た。事務員が用意してくれた封筒が乗っている。そうだ、あれを持って帰るのを忘れないようにしないと。榊はそう自分に言い聞かせ、だけどそれは一瞥しただけでまたすぐKKへと視線を戻した。
その手に握られた拳銃が、まっすぐこちらを狙っている。
「大層なお出迎えだな」
KKはなにも言わずに事務所のなかへ入り、後ろ手でドアを閉めた。そのまま入口に立ち尽くす。
そうして二人は長いあいだ向き合っていた。榊はのんびりと煙草をふかし、結局最後までキレイに吸い終えた。灰皿に押しつけて煙草を消すと、イスの上で座り直して腹の前で両手を組む。そのあいだもKKは身動きせず、黙ったままだった。
「なんの用だ」
銃口は無視して訊いた。KKはずっと無表情でいたが、榊のその言葉を聞いて小さく吹き出した。
「相変わらず、神経図太いよね」
「お前がその気ならとうにやられている」
そう言って肩をすくめた。どこに居たのかは知らないが、ともかくドアを開けるまで榊はその存在に気付かなかった。この時間であればビルに残っている人間は皆無と言っていい。管理人が常駐しているわけでもないのだ。狙う気であったならとっくに殺されている筈だった。
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
その時、不意に携帯電話が振れた。音の出所はKKのポケットだ。KKは相手を確認することもなく電話を開き、電源を切ってしまった。おやおやと榊は思う。こういう時はもとから電源を落としておけ。
「聞きたいこと?」
電話をポケットにしまうのを眺めながら榊は訊き返した。KKはうなずき、あらためて銃を構え直した。
「俺の代になるって、どういうこと」
榊は再び肩をすくめる。
「文字通りの意味だ。私は引退。あとはお前の好きなようにすればいい。以前連絡要員が多いと言っていただろう。そこを整理するのも――」
「引退してどうすんの」
そう言ってKKは銃口を突きつけてくる。当たり前のことだが、引き金に指はかかっている。榊はしばらく考えて首をかしげ、
「どうするかな」
まるで他人事のように呟いた。
「南の島でも買って移住する? ジィさん、のんびりしたいってずっと言ってたもんね」
「南の島なぁ」
たびたび口にした戯れ言を持ち出されて、榊は思わず笑ってしまう。だがKKは笑っていない。早く答えろよと言わんばかりに銃口を振っただけだ。
「まだ具体的には考えていない。まぁのんびりしたいのは本音だが」
「……じゃあなん」
「ガキのお守りでさんざん苦労したからな」
KKの目つきが変わった。鋭さを増してじっとこちらを睨み付けてくる。榊はそれをまっすぐに見返した。そうして事実だろうと言わんばかりに軽く笑ってみせた。それを受けてKKは更に不快そうに表情を曇らせた。
「誰が面倒見てくれって頼んだよ」
「あのまま飢え死にする方が良かったのか」
死体と一緒に。
二人は睨みあったまま動かない。
「……あんたが親父殺したんじゃねぇか」
「仕事だったからな」
それ以外にどんな理由が必要だというように、榊は片手を振ってみせる。そうしてふと思い付いた自分の考えに、つい笑ってしまった。
「なんだ、今更仇でも取るつもりなのか?」
「……」
「じゃあどうせだからお前の父親が殺されたわけを話してやろう」
KKは一瞬嫌そうに眉をしかめた。が、榊は構わずに話し始めた。
「お前も知っての通り、あの男は死体愛好者だった。まぁ世の中には色々な趣味があるしな。他人に迷惑をかけない範囲であればどうとでも好きにすればいいと私も思う。だから献体された死体を金で買ってる分には誰にも文句がなかった」
「……」
「ところが回を重ねるうちに男の注文が細かくなってきた。女がいい、若いのがいい、なるべくキレイな死に顔のヤツがいい――鑑賞でもして楽しむつもりなのかね。死体を眺めるののどこが楽しいのか私にはさっぱりだが」
「……うるせぇよ」
KKは吐き気をこらえるように唾を飲み込んだ。なにか思い出すことでもあるのだろうか。榊はじっとその様子を眺めたあと、おもむろに言葉を続けた。
「男はあちこちの病院を回ったが、なかなか好みのものが手に入らなくて痺れを切らしていた。そして思い付いたんだな。なければ自分で作ればいいと。全く理に適っている。正しいことだ」
「もう喋んなって」
「男は友人と手を組んであちこちを回り、好みの獲物を捜し始めた。女でなるべく若くて死んだあともキレイな顔をしていて、見たりさわったりして楽しめそうなヤツ。――男は作ることに楽しみを見出した。獲物を捕らえてじわじわといたぶり、なおかつ死んだあとも」
「やめろよ」
「楽しめる。一石二鳥というヤツだ。……どうやって殺したのかは残念ながらわからないが、まぁ殺す時には犯したんだろうな。それとも殺したあとに――」
「うるせえ!」
怒鳴り声は部屋の空気を穿ち、どこかへと消えていった。榊は醒めた目でKKをみつめている。
「この親にしてこの子あり、だ」
思わず嘲笑が洩れた。
「お前を見た時に思ったよ。『こいつは使える』ってな。父親と一緒になってさんざん死体を見てきたんだ、自分が手を下す段になって、今更怖じ気づくわけがなかろう?」
「……」
「お前はいい拾い物だった」
KKが腹立ちまぎれに振り回した手は壁に当たって止まった。怒りをこらえるかのように噛みしめた奥歯から、かすかなうめき声が聞こえてきた。
「……人をなんだと思ってやがる」
榊は軽く肩をすくめた。
「本当ならお前は死ぬ筈だった」
そう言って机に載る煙草の箱を拾い上げた。
「あの山奥の家のなかでな。腹が減ったと泣いてわめいて――まぁ、探せば缶詰だのなんだのはどこかにあったんだろうが、その程度の知恵も当時のお前にはなかったよ。殺しが好きで死体が好きな変態男に育てられた箱入り息子がお前だ。要するに」
銃を突きつけるKKの目は怒りでつり上がっている。榊はそれを横目で見ながら煙草に火を付けた。そうして煙を吐き出し、最後の言葉を口にした。
「蛙の子は蛙というわけだな」
ゆったりと足を組み、煙草を持った手を机に乗せる。もはや銃口を追うこともしなくなった。ぴたりとこちらを狙っているが、榊はそれを無視してその向こうにあるKKの顔を見続けた。そうしてさてさて、自分はみっともない姿を晒さずに死ぬことが出来るだろうかと考えている。
こんなことになるなら会社の存続で頭を悩ませる必要もなかったな。そう思った時、榊は不意に体が軽くなったような気がした。どうしようかと思い煩っていた全てのことが、KKに銃口を向けられた瞬間に自分から切り離されていったのだ。なんて楽なんだろうとつい笑いそうになった。それを誤魔化す為に榊は横を向き、煙草を吸い込んだ。そうして思った。
長い長い余生だった。しかも幕切れがこいつだなんて――。
「……なにしてんの」
第三の声に驚いて二人は窓へと振り返った。MZDが体を半分だけ事務所のなかに突き出して、KKが握る拳銃を茫然と眺めている。視線につられてKKを見ると、さほどあわてた様子もなくこちらに向き直っていた。
「なにしに来た」
振り返りもせずにKKが訊いた。
「だって電話かけても切られちゃうし、事務所明かりついてるから誰か居るのかなって見に来たら……え、なにこれ。なにしてんの?」
MZDは二人が今にも笑い出してくれることを望んでいるようだった。冗談だよね、やだなぁすっかり騙されちゃったよ――そう言って一緒に笑うことを期待しているらしかった。だけどKKは笑わないし榊も同様だ。向こうに説明の意志がないことを見て悟った榊は、煙草の灰を叩き落として「見ての通りだよ」と素っ気なく呟いた。
「私はここで撃たれて死ぬらしい」
「嘘だよ」
何故かMZDが否定した。弱々しい声だったが。
「……KKがそんなこと、するわけないじゃん」
「どうかな」
銃口はしっかりとこちらを向いている。KKの目も力を失ってはいない。
「え……ちょ、やめなよ。ねえ。……なんでこんなことになってんの」
どういうわけか関係ない筈の彼が一番悲しそうな顔をしていた。榊は安心させようと煙草をもみ消して笑いかけた。
「出ていった方がいいと思うよ。嫌なものを見ないで済む」
「KK」
懇願するような呼びかけも、KKは無視した。だが動きには注意を払っている。MZDが完全に事務所のなかへ入ってきた時、牽制するように銃口を向けた。
「てめえにゃ関係ねぇだろ。黙って見てろよ」
「……こんなの見たくて来たわけじゃないよ……っ」
「じゃあとっとと出てけ。撃たれたくなかったらな」
その通りだよと榊もうなずきかける。だけどMZDは弱々しく首を振るばかりだ。
「ね、ジィさん殺してどうすんの? お前そのあとどうするつもり? お前、ジィさん居たから生きてきたんじゃないの? 他の誰もどうでも良くって、ただジィさんに認められたいってそれだけの為に――」
いきなり銃口が火を吹いた。榊は驚いてKKに振り返った。奥歯を噛みしめ、怒りの形相でこちらを睨みつけていた。狙いを定めずただ引き金を引いただけのようだったが、弾はMZDの肩の辺りに向かっていた。だが有り難いことに彼が普通の人間ではなかった為に、弾は当たらず、宙で浮いたまま止まっていた。
榊は二人を順番に見比べながら、外の気配をうかがっていた。さほど大きな音がしたわけではないから恐らくは大丈夫だろうが、もし誰かに騒ぎを聞きつけられたら厄介なことになる。用心するに越したことはない。
そう考えて、榊はつい笑ってしまう。まったく、どうして殺される側がそんなことまで心配してやらなければいけないのか。
「……」
MZDは未だ自分を向いたままの銃口を茫然と眺めていた。
「失せろ」
吐き捨てるようなKKの呟きでようやく我に返ったようだ。宙で止まっていた弾がぽとりと落ちて手のなかに納まった。まだ熱いだろうに彼はそれを握りしめて、
「も………………なんだよ、KKのわからんちーん!」
そうひと言叫ぶと身を翻して窓をすり抜け、姿を消した。あとには長い長い沈黙だけが残された。
「――――――ああ?」
耐えきれずに榊は吹き出していた。そのまま状況も考えずにくつくつと笑い続けた。KKを見ると、やはり彼も困ったように頭を掻き、怒ればいいのか笑えばいいのかわからないといった表情でこちらを見ていた。
「相変わらず、楽しい御仁だの」
「……バカ丸出し」
KKは銃を構え直し、少し考えてからそれをズボンの後ろにしまった。
「場所変えようぜ」
「そうだな。ここで撃ち合うわけにもいかん」
ちらりとKKが警戒するようにこちらを見た。榊は笑いかけて立ち上がった。煙草をしまってコートと書類の入った封筒を持つと、KKは壁を探って作業車の鍵を手に取った。
「なにで行くんだ?」
「ハイエース」
なるほどと榊はうなずき返す。二人は暖房を切り、電気を消して事務所を出た。
ビルを出て駐車場へ向かうあいだ、互いに無言だった。今更与太話もないだろう。榊はKKが車のロックを外すと当然のように助手席に乗り込んだ。
エンジンが温まるのを待ってからKKは車を出した。交通量の少なくなった夜の道を、作業車はスムーズに進んでいく。流れ過ぎる景色をぼんやりとみつめていた榊は、ふと煙草を取り出しながら「ちなみにどこに向かってるんだ?」と訊いた。信号待ちで車を止めたKKはハンドルに両腕を乗せてもたれかかったまま、まっすぐ前だけをみつめている。
「……どこだろうな」
まるで他人事のように呟いた。目的地を決めていないのかも知れない。まぁそれでもいいさと榊は座席に座り直した。
目の前には吸い込まれそうな夜の闇が広がっている。このまま溶けるように消えてしまうというのも乙だろう。