榊は診療所の待合室に並べられた長椅子のひとつに腰を下ろしている。
診察時間はとうに過ぎているので、玄関の扉にはカーテンが引かれていた。暖房も切られていたらしい。さっき医者があわててスイッチを入れるのを見た。受付の窓口にも小さくカーテンが引かれ、たった一人きり、榊はなんだか場違いな存在のように待合室でぽつねんと座り込んでいる。
上着のなかで身じろぎをし、煙草を取り出しかけて、この場所が禁煙であることを思い出した。
しばらく考えた末に煙草はあきらめ、退屈しのぎに本棚に並ぶ雑誌へと手を伸ばした。誰が置いていくのか週刊の漫画雑誌が十冊ほど並んでいる。きちんと号数が揃っているのを見ると、よほど頻繁に診察へ訪れているようだ。あるいはここに勤める誰かが置いているのかも知れない。
漫画のほかに多く目に付くのは絵本だった。表紙にはデフォルメされた動物やなにかのキャラクターが描かれている。ここを訪れる様々な子供やその親に読まれてきたのだろう、角は擦れて丸みを帯び、表紙も手垢で汚れてしまっている。
漫画を拾いかけた榊の手が一瞬止まり、その隣の絵本を引き出した。表紙にはかわいらしいウサギの絵が描かれている。ピンクのワンピースを着ているところを見ると、どうやらこのウサギは女の子であるようだ。題名は『いじわるなミー』。さてさて、一体どんなお話なのやら。
「榊さん、どうぞー」
診察室から名前を呼ばれて榊は顔を上げた。絵本を本棚に戻し、帽子を取って長椅子から立ち上がる。診察室の入り口に引かれたカーテンを片手でよけてなかに入ると、丸メガネをかけた医者がくわえ煙草でにこにこと笑いながら聴診器を持って待ち構えていた。
「吸っていいのか」
「いいよ」
ホントはいけないんだけど、と笑ったまま医者が付け加える。榊は示された丸椅子に腰を下ろすと、帽子をベッドに放り投げて煙草を取り出した。
「はい、今日はどうしましたかー?」
「免許証の偽造を頼みたいんだが」
医者は、ふんふんなるほどと言って榊の腕を取る。手首をつかんで時計を眺め、脈拍を数え始めた。
「犯罪の話してるのに、脈拍は正常だね。いやー、相変わらずたっちゃんってば心臓に毛が生えてるんだから」
医者が言うようなことかと榊は眉根を寄せる。
「今更、公文書偽造程度で動揺してたまるか」
「まぁそうだよね。人生の半分以上人殺ししてるんだもんねぇ」
「で、どうなんだ。やるのか、やらないのか」
「いいよ、別に」
免許証ぐらい簡単だよと言って丸メガネの医者――元仲介屋の香月は榊の腕をつまらなさそうにほっぽりだした。
「そんな話だったら電話で済むのに」
「書類が要るだろう」
不機嫌に言って榊は上着の内ポケットを探る。だいたい話があると言って香月の許を訪れることは連絡したが、なにもわざわざ診察の真似事をしてくれとはひと言も頼んでいない。しかし香月はきちんと白衣を着込んで榊を出迎えた。よっぽど退屈していたようだ。
書類の入った封筒を差し出すと、香月は煙草を灰皿に置いて失礼と呟き、中身をあらためた。入っているのは折りたたまれたコピー用紙が一枚と証明書用の小さな写真が一枚だけだ。香月はその両方を手に取り、じっと眺めたあと、いきなり吹き出した。
「え、なにこれ?」
「それとそっくり同じで、写真だけ挿げ替えてくれ」
「え。だからなんで? なんでこの名前でこの写真? え? なにこれ?」
「……そんなにおかしいか」
榊は腕を伸ばして灰を叩き落すと、げらげら笑う香月を怪訝そうに眺めやった。
「いや、別におかしくはないけどさ」
そう言いながらも、香月は笑うのをやめなかった。どうやら大層おかしいらしい。
「まぁ、免許証作るぐらいは簡単に依頼出来るけど」
ようやく笑いを収めた香月は咳をして呼吸を整え、短くなった煙草をもみ消した。
「理由は教えてもらえるのかな? ほかの人ならいざ知らず、この名前で偽造免許証っていうのが引っかかる」
そう言って香月はコピー用紙を開いて榊に示した。そこにはKKの運転免許証がカラーコピーで印刷されていた。勿論名前は偽名だが(そもそもKKの持つ戸籍自体が他人のものだ。ずっと昔に彼が金で買い取った)、きちんと日本の法律にのっとって正規に入手したものである。
「……」
榊はしばらく考え込んでいたが、香月から灰皿を受け取った時に、そうだな、とうなずいた。
「どのみちほかに頼みたいこともあるしな」
そうしてとつとつと話すあいだに、香月の表情は苦いものへと変わっていった。話を聞き終えた彼は、ひと言、
「それは犯罪だよね」
「免許証の偽造も立派な犯罪だよな」
しかし香月は渋い表情を崩さない。榊は肩をすくめるばかりだ。
「なんでそんな面倒臭いことするのよ。素直にケイちゃん引っぱっていけばいいんじゃないの?」
「……あいつが素直に来ると思うか?」
「まず無理だろうねえ」
香月はにこにこ笑って同意する。どうやらおかしさが舞い戻ってきたようだ。吹き出すのをこらえている為に、にこにこの笑顔がにやにやにまで引き伸ばされている。見ているこっちの方が気持ち悪い。我慢しなくていいんだぞと榊が言うと、しかし香月は不意に真顔に戻って訊いてきた。
「でも、なんで? 今更っていう気がするんだけど」
「今更か」
「うん。あとケイちゃん、怒ると思うな」
榊は再び肩をすくめた。口髭の隅の方を指でかりかりと掻き、そうだな、と静かに同意した。確かに今更だ。自分でも何故そんなことをしようと思ったのか、よくわからない。
「まぁいいや」
しばらく黙り込んでいると、停滞した空気を吹き飛ばすように香月が言い放った。
「お金だけちゃんと払ってもらえれば別にいいよ。それをなにに使おうと、こっちにとばっちりが来なければね」
「迷惑はかけん」
「そこは信頼してます」
商売用の顔と、長年の友人としての顔と半分ずつの表情で香月は笑う。そうして話は終わったとばかりに立ち上がり、白衣を脱ぎ始めた。
「今日急いでる?」
「うん? いや、別に」
「なら、ちょっと一杯やりませんか。――ついでに血圧でも測ってく?」
事務机に乗る機械を示して冗談とも本気ともつかぬ顔で尋ねてくる。榊は灰皿を返しながら機械を一瞥し、
「……まぁ、ついでだしな」
そう言って上着を脱ぎ始めた。
事務所に戻った榊は部屋の隅に置かれたファンヒーターの前へとまっすぐ向かった。そうして吐き出される温風に両手を差し出し、寒い寒いと呟きながら手をこすった。
「ジィさん、どけ。邪魔」
あとからやって来たKKが同じく身震いしながら隣にしゃがみ込む。
「こういう時は年上に譲るのが普通だろう」
「うるせぇな。老い先みじけぇジジィのことなんざ知ったことか。輝ける未来のある若者こそ大事にしなきゃ駄目でしょ」
「お前の人生のどこに輝かしい未来が待ってるんだ」
二人は互いに悪口を言いじとりと睨みあったあと、仲良く半分ずつ温風を分けることにした。
「っつうか二月も終わりだってのに、なんで雪なんか降るんだよ」
「文句は寒冷前線に言え」
榊は背中に温風を当てる恰好で床に座り込み、煙草を取り出して火をつけた。留守番役の女性事務員が、ファンヒーターの前に陣取ったまま動かない二人を見て笑っている。榊はたまらないよと言って肩をすくめ、事務机に乗る灰皿を指で引き寄せた。
「作業は全部終わったんですか?」
「窓だけ残した。やっても良かったんだけど、こいつがうるさくてな」
そう言って榊は隣を指さす。声にKKが振り向き、同じく煙草を取り出しながら「ふざけんな」と不機嫌そうに眉根を寄せた。
「こんな天気でガラスやったって意味ねぇじゃん。だいたいあんな大雪降ってる時にブランコなんざやりたかねぇよ。寒くて道具落としちまう」
「ゴンドラだったら良かったのか?」
「そういう問題じゃねぇだろ」
まぁジィさんがどうしてもやりたいって言うんなら俺は止めないけど。KKはそう言って大袈裟に身震いをしてみせる。榊は無言で肩をすくめ返した。今後の予定としては全て終わらせたかったというのが本音だが、さすがに朝からずっと雪の降る屋外で作業を続けていれば、そこまでの気持ちも呆気なく消え失せてしまう。榊は煙を吐き出し、「しかしまいったな」と呟いた。
「残りの分、どこに突っ込もう」
「明後日は? 高島平の前にガラスだけ入ればいいじゃん」
「そうは簡単に言いますがね」
榊は立ち上がり、自分の机の上を引っかき回した。組んでいる最中の来月の予定表と、今月の予定表を持ってヒーターの前へと戻る。さて、と呟いて再び腰を下ろすと、同じようにKKも予定表をのぞき込んできた。
「またトンネルがあるから、あまり無茶な追加はしたくないんですよ」
「……俺、トンネル入ってんの?」
「一日だけな。休みの前日」
そう言うとKKは、げぇーと渋い顔をしてみせた。夜勤のトンネル清掃が数日入っているのだ。勿論昼間の作業もあるから、ほぼ丸一日働きづめとなる。三月の後半には大がかりな校舎の清掃作業も始まる予定だ。忙しそうっすねとまるで他人事のようにKKが言うので、頑張ってくださいよと榊も他人事のように応えてやった。
「ちょっと貸して」
KKが来月の予定表を引っぱっていった。榊はそれを横からのぞき込み、出勤予定のメンバーを頭のなかで組み立てる。基本的には運転手と機械を回す中心人物、それからワックスが塗れる人間が必要だ。小さい現場であれば最低二人で動けるが、だからといって誰でもいいというわけにもいかない。まださほど仕事を覚えていない人間も上手く組み込まなければいけないし、ひと口に予定を組むと言っても、容易に決められるものではないのだった。
「……なんかさあ」
予定表をひらひらと振りながらKKが呟いた。
「たまに、なんでこんなに一生懸命働いてんだろうって疑問になることない?」
榊はたいして考えることなく、そうだなぁと同意していた。
「食わせる必要のある人間が居るわけでもないしな」
「そうそう。自分だけなんとかすりゃいいわけじゃん」
「よし、今日限りで仕事辞めるか」
「そんなこと簡単に決めないでください」
事務員が半ば本気でこちらを睨みつけていた。榊は思わず首をすくめ、予定表を眺めるふりをして顔を隠した。
「そうは言っても、さすがに社長となると社員の生活が肩にかかってるからな」
誤魔化すように呟いた。そうして目を上げると、予定表を眺めていた筈のKKが嘲笑するように口の端を持ち上げてこちらをみつめていた。
その目がなにを言いたいのかは、よくわかっているつもりだった。
「どっかから代わり引っぱってくりゃいいじゃん」
案の定、突き放すようにKKが言う。榊は煙草をもみ消して、うつむきながらそのつもりだと囁いた。KKは一瞬真顔でこちらを睨み付け、
「……ふうん」
予定表を放り出して立ち上がった。
「倉庫整理してくんね」
榊は床に落ちた予定表を拾い上げることもせず、黙ってKKの背中を見送った。まずいことを言ったなという自覚はあったが、今更なかったことにするわけにもいかない。
それに、事実だ。
まだしばらくは先の話だが、誰かに後釜を譲ることは既に考え始めている。もともとが代理で行っている社長業だ。任せられる人間がみつかればいつでも喜んで引退する気でいた。
心残りは少ない方がいい。迷うことなくそう思う。
だけど、とりあえずは社員の為の「明日」を考えなければならない。榊は予定表を拾うと、現場に確認の連絡を入れようと携帯電話を取り出した。
近年稀に見る大雪だった。未明に降り始めた雪は日が沈む頃になってもまだやまず、このまま永遠に降り続くのではないのだろうかと人々にある種の不安と期待を抱かせた。交通機関は麻痺し、積雪による事故や怪我のニュースも飛び込んできている。でももうじきやむってさとMZDが言うと、KKはつまらなさそうに、ふぅん、と生返事をするだけだった。
街は銀色に染まっていた。雪が音を吸収してしまう為にいつもよりずっと静かだ。傘を差して歩く人の足取りが遅いのは、雪を警戒している為か、歓迎しているせいか。
KKは降り続く雪を眺めている。
二人が居るのはMZDの店のあるビルの屋上だった。ライトアップされた大きな看板が立ち、給水塔とエアコンの室外機が並ぶだけの、殺風景な場所だ。KKはビニール傘を差して看板の柱に寄りかかり、ぼんやりと街を見下ろしていた。
店に来てからずっとこんな顔をしている。このビルの屋上には出られるのかと訊いてきた時も、なにかを考えているような表情だった。なんかあったのと反対に訊いてみたが、やはりKKは、うん、と生返事をするばかりだった。それ以上は質問しないことにした。多分KKにもよくわからないのだ。自分のなかでなにがどう動いているのか。それを確かめる為に、今ここに居る。MZDは影と一緒になって小さな雪だるまを作りながら、ただそばに居ることにした。
「――あのさ」
傘に積もった雪を何度目かに振り落とした時、ようやくKKが口を開いた。MZDは雪を丸めながら振り返り、なに? と訊いた。だけどKKは呼びかけておきながら続く言葉を用意していなかったらしい。口をつぐんで目標を見失ったように視線を落としてしまう。らしくないよと思わず内心で笑っていた。そうして全く関係のないことをMZDは言った。
「な、春になったらさ、花見しようぜ」
「花見? どこで」
「どこでもいいよ。どっか桜のキレイなとこ。酒と食い物いっぱい持ってさ、みんなで騒ごうぜ」
KKはその言葉を吟味するようにじっとうつむいていた。足元の雪を小さく蹴って、こんな時に花見の話かよと呆れたように笑った。それでもMZDが見ていると、やがて彼は顔を上げて、そうだな、と呟いた。
「花見か。――いいかもな」
「な」
今はまだ雪の降る時だけど、いつか必ず春は来る。
「お前はホントに騒ぐの好きね」
KKは同じようにしゃがみ込んで、積もった雪を手のひらですくい、こちらに放り投げてきた。その能天気なところがうらやましいよとでも言いたげな表情だ。MZDは雪をぎゅうと握りしめて、
「だってさ、今しかないじゃん」
そう言ってすぐそばに雪玉を投げつけた。
「今の俺も今のお前も、今ここにしか居ないだろ。明日になれば俺もお前も変わっててさ、多分雪はやんじゃってるし、電車は普通に動いてるだろうし」
きっと二三日中に雪は跡形もなく溶けてしまう。その頃には雪が降ったという事実さえ大半の人が忘れてしまう。
時は容赦なく過ぎていく。誰にでも平等に。
「来年のお前が、今の時期にどうしてるのかなんて俺には予想もつかないしさ。――今年の桜が見れるのは、今年の俺たちだけなんだよ。来年にもその桜はあるだろうけど、桜は一年分成長してるし、みんなも一年分なにかが変わってる。……『今ここに』あるものを全部見たいんだ。それだけ」
「……」
「お前と一緒に見れたら、もっと嬉しいってだけ」
目的はなんでもいい。記念の品なんかはいらない。むしろ記憶のような形の残らないものでいい。同じなにかを共有したい。
「俺、忘れるかもよ」
「そん時は、まぁしょうがないよ。俺がその程度の存在だったってことだし」
手に付いた雪をはたいてMZDは立ち上がる。そうして顔を上げると、KKが少し驚いたようにこちらを見ていた。
「あんだけさんざん、俺のこと忘れんなー忘れんなーってうるさかったのにな」
「うん。まぁ、ちょっと反省してる」
反省? と不思議そうに呟いてKKは煙草を取り出した。
「うん。わがまま言い過ぎたなーってね。――最近の俺、ちょっと泣き過ぎ」
KKが吹き出した。そのままくつくつと笑うのを、MZDは横目でむくれながら眺めている。
「や、まあ、でもそれは本音だよ。覚えててもらえりゃ嬉しいし、呼ばれたら百万光年彼方からでもすっ飛んでくるけど」
十年振りに会ったとしても、まるでつい先週顔を合わせたみたいに。
「でもさ、それは押しつけるもんじゃないじゃん。十年後に俺らがどうしてるか、お互い、ホントにわかんないしさ。……だから余計に、全部見たい」
同じ『今』を。
MZDがそう言って笑いかけると、KKは恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。なにか返事が欲しくて言ったわけではないので、MZDはビルのへりに立って同じように街を見下ろした。雪に包まれた街並みは普段と全く違って見えた。なんだか知らない国に居るかのようだ。
お前は、という呟きに振り返ると、KKは立ち上がって煙草の灰を叩き落としていた。
「……絶対に誰のことも忘れないんだろうな」
「うん」
MZDはためらいもなくうなずいた。
自分のなかには全ての記憶が眠っている。むしろその記憶こそが自分自身だと言ってもいい。そうして時々、記憶に残る誰かの想いを取り出して音をあやつる。そんな風に、ただここに居る。昔も、今も。
これからも。
不意にKKが吹き出した。見ていると、ずっとおかしそうに笑っている。なんだよと訊いてもKKは答えない。なんでもないと言って首を振り、
「俺、晩飯まだなんだよ。なんか食い行かねえ?」
そう言って、初めてすっきりしたような顔をした。
「いいよ。なに食う?」
「ラーメン」
「賛成っ」
給水塔の上に雪だるまを並べていた影が、自分も連れていけとしきりに指を差す。MZDは忘れてないよと笑って宙に浮き上がった。雪はやむ気色もなく降り続いている。