駅周辺は比較的空いていた。八時過ぎという中途半端な時間のせいだろうか。KKはまだつなぎ姿のままだ。パーカーを羽織り、ポケットに両手を突っ込んで、うつむきがちに黙々と歩いている。
 信号待ちで足を止めるたびに、榊の姿が思い浮かぶのが癪に障った。無意識のうちに目印になるものをみつけている自分にも腹が立った。俺は言いつけ通り仕事に来る気なんだろうか。あんだけコケにされて、それでも掃除屋としてあの店を訪れる気でいるのだろうか。
 自分の気持ちは自分でもよくわからない。だが榊の命令とあれば恐らく従うのだろう。それが仕事というものだと、何度も何度も聞かされてきた。引き受けたからには責任がある、やれると答えたからには遂行する義務がある。
 だからKKは、責任を果たそうと思っている。
 店はまだ開店していないようで、階段の周囲に幾人かの客らしき人物がたむろしていた。そのなかの三人ほどが階段を塞ぐようにして立ち話をしている。側に寄ったKKが無言で睨み付けると、手すりに寄り掛かった同年代の男はあわてて道を譲った。こちらの格好を見て、業者かなにかだと思ったらしい。特に声をかけてくることはなかった。
 KKは階段を下りながらつなぎの上部分のジップを下ろして手を突っ込んだ。そうしてドアノブを引くと、幸いなことにドアは開いた。受け付けのカウンターを照らし出すライトが目に眩しくて無意識のうちに舌打ちを洩らしていた。
 カウンターの内部に男が一人。更に奥へと続くドアの側にもう一人。
「すいません、開店までは今しばらく――」
「オーナー居るか」
「は?」
 ドアの側に立つ男は困惑気味にフロアの方へと目を泳がせた。客かそれ以外かの判断に迷っているようだった。だが男がフロアへと目を向けたのがわかっただけで良かった。
 奴は居る。
 KKは制止の声を無視してドアを開けた。閑散としたフロアのなかで目的の人物をみつけるのはひどく容易なことだった。
 壁際に設置されたソファーでMZDは踏ん反り返っている。側に二人ほど女が居た。バラバラに並べられたテーブルとイスが邪魔だった。ブースには誰かが居るらしく、KKがフロアに入り込んだ瞬間、突然音楽が始まった。光に照らされて腕を振り上げる男の姿が視界の端に映った。
 背後で制止の声が続いた。それに気付いて奴が振り返った。KKは安全装置を外す。とりあえずほかの奴は殺さない、自分に課した戒めはそれだけだったが守れるのかどうかはもうわからなかった。音楽が続いてステージの近くに居る男がなにかを言った。同時にMZDもなにかを言いかけたが、それはKKに向けた言葉で、だが結局はなにも言わずに到着を待つ気になったらしい。呆れたように笑っているのが見えた。だからてめえはむかつくんだよ、KKは心のうちで吐き捨てる。あと五メートル。イスが邪魔で蹴り飛ばした。あと三メートル。KKはポケットから腕を出す。つなぎの下に隠した銃を引き抜こうとする。あと二メートル。片方の女が振り返った。茫然とこっちを見ている。あと一メートル。
「あれーKKだ。久し振りー」
 ソファーに座ったMZDはおとなしく胸倉をつかまれていた。相変わらず無言のまま、なにがおかしいのかかすかに笑っている。その肩に女の手がかかっていた。KKの腕を止めるようにもう一方の手が伸びているが、それは中空でためらったまま止まっている。
 いつの間にか音楽が止んでいた。
「……あれ?」
 振り返ると、声をかけてきたのはレオだった。ただならぬ雰囲気のKKになにかを感じたらしく、困ったように笑いながらMZDへと視線を移していった。ほかに口を開く者は居なかった。
 ――名前。
 君は何者だ、というスギの声が甦る。一人だけに語ったつもりの名前が、いつの間にか周囲に伝わっていたらしい。そう気付いた瞬間、KKは恐怖で叫び出しそうになった。
 なんてこった、俺が誰なのか、こいつらは知っているのか。
「ミスター。用件は?」
 奴の声で我に返った。女の手は宙に浮いたままだ。見ると、このあいだの猫耳女だった。不安そうに顔をひきつらせながらも、MZDを守ろうと懸命に腕を伸ばしている。
 KKはつなぎの下で銃把を握りしめた。
「ツラ貸せ。話がある」
 MZDはやれやれというかのようにため息をついた。そうしてうなずき、安心させる為なのか、女の腕を軽く二三度叩いてみせた。
「え……なに、喧嘩?」
「違うよ。仕事の打ち合わせ。こいつに掃除頼んだの。な?」
 言葉に納得したわけではないのだろうが、猫耳女はそれ以上なにも言わなかった。
 BGMが流れ出した。視線を感じて振り返ると、ブースから覗く顔があった。スギが首にヘッドホンをかけて不思議そうにこちらをみつめている。その黒いシャツと、レオの怪訝そうな眼差しを確認したあと、KKは無言で手を離した。
「こっち」
 立ち上がったMZDはフロアの隅へとKKを招き寄せた。従業員用の控室だ。歩いているあいだ、フロア中の視線を感じていた。俺は無事にここから出られるのかなと一瞬考えたが、すぐにバカらしくなって、考えるのを止めた。
 奴が扉を開けて待っている。なかに入り込んだKKはすぐに足場を確保して振り返った。扉を閉め、そのついでに外の様子をうかがう姿を見せたあと、MZDは振り向いた。
「さて――」
 続く言葉は聞かなかった。無言で全弾を撃ち込んでやった。奴は突然のことに驚いて目を見開いた。その視線がKKの手元に落ちる。引き金を引くたびにカスッという乾いた音がした。弾を撃ち尽くしてもなお自分が引き金を引いているのだと気付くのにしばらくかかった。
 二人のあいだに空の薬莢が転がっている。弾はひとつ所に固まって浮いたままだ。それを手で軽く払いながら奴はため息をついた。
「……八つ当たりすんなよ」
「うるせえ!」
 銃を持ち直して殴りかかった瞬間、浮いていた弾が床に落ちて奴の姿が消えた。あわてて振り返ると奥に置かれたソファーにMZDの姿があった。足を組み膝の上で手を握り合わせながら、どうしようかと思案顔でこちらを見ている。
 KKは弾倉を引き抜くとパーカーのポケットに手を入れて新しいものと取り替えた。
「いくらやったって無駄だよ。わかってんだろ」
 奴の言葉など聞いていない。スライドを引いて弾を送り込むと再び銃を構えた。だが既に奴の姿は消えていた。と思った瞬間、すぐ目の前に現れた。引き金の隙間に親指を突っ込んでじっと睨み付けてくる。
「そんなものにこだわり続けてる限り、俺のことなんかどうも出来ないよ」
「偉そうに……!」
 突然ノックの音が響いた。最初の二度はあわてたように、続く一度は打つつもりがなかったけど鳴ってしまったのを後悔するように。MZDはちらりと視線を動かしたが返事はしなかった。
「……あのー、打ち合わせ中に悪いんだけどぉ」
 レオらしき声だった。内部が気になって我慢出来なかったのか、それとも本当になにか用事なのか。MZDは動かない。KKは胸倉をつかむと壁に押しつけた。側にあった棚に奴の肩がぶつかって雑誌が雪崩のように落ちてきた。しばらく二人は無言で揉み合い、それに呼応するかのようにノックが繰り返された。
「え? あれ? ちょっと開けていい?」
 ヒステリックに叫ぶ女の声もする。MZDは舌打ちをすると首元に伸びる手をつかみ返してきた。
「場所変えるぞ」
 床が抜けるのとドアの開く音は同時だった、理解出来たのはそれだけだ。


 冷たい風が吹きつけている。視界は暗く、ただ遠くの方に小さなきらめきが二つ三つばかり見えるだけだった。なにかに引っかかった手首に自分の体が支えられている。足元にはなにもない。どこか足を置くところ、そう思って下を向くと、今度はあちこちに光が見えた。赤や黄色にきらめき、動いては消え、また生まれている。
「お前、ちっと頭冷やせ」
 頭上から声が降ってきた。風に掻き消されながらもそれは確かに耳に届いた。まばたきを繰り返しながら頭上を仰ぎ見ると、MZDが自分の手首をつかんだまま空中に浮いていた。――いや、違う。KKもまた空中に浮いているのだ。正確に言えば宙擦りになっている。体を支えているのは手首を握る奴の腕一本。
「……離せよ!」
 風に負けないよう腹の底から叫んだ。その時雲が晴れて月が現れ、MZDの横顔をゆっくりと照らし始めた。奴はなにも言わない。KKは銃口を向けた。
「落ちたら死んじゃうよ」
「離せ!」
 MZDは呆れきった顔で、やれやれと首を振った。
「わかったよ」
 その瞬間に落下が始まった。引力の存在は絶大で、落ちるというよりは地表に強く引っ張られているという感じだった。KKは落ちながらも腕を伸ばし引き金を引いたが、一秒ごとに奴の姿は遠ざかっていった。弾を撃ち尽くした時にはもう点のようにしか見えなかった。勿論自由になったからといってそのあとどうやって助かるのかという目論見などかけらも持ち合わせていなかった。
 地表が物凄い勢いで近付いてくる。吹きつける風で目を開けるのもやっとだった。それでもKKは自分が到達しつつある地表を眺め続けた。せめて死ぬなら自分がどんな場所で息絶えるのかを見ておきたかった。そして出来ることなら――当然無理だとはわかっていたが――クソジジィも巻き込んでやりたかった。
 なにが一級品だ、KKは落ちながら叫んでいた。あんたの大事な道具は空から落とされて蛙みたいにぺしゃんこに潰れてみっともなく死に体を晒すんだ、ざまあみろ。ざまあみろ!
 しばらく阿呆のように何事かを叫び続けた。叫んでいるあいだは落下も気持ちのいいものだった。やがて叫び尽くすと、体中の力が抜けた。地表を見ていたいという意地も消え、仰向けに、風にあおられるままの姿勢で空を見た。
 星の殆ど見えない夜空で満月が輝いている。
 KKは風にあおられながら腕を伸ばした。そのまま引き金を引こうとしたが、弾がないことを思い出してやめた。
 あーあ、ちくしょう。――全ての気力が尽きたことを悟って思わず泣きそうになる。結局最期まで意味なしかよ。
 地表が近付いてくる。遠くの方に東京タワーが見えた。あーあ。
 ――と、突然背中がなにかにぶつかった。トランポリンのように柔らかいものにぶち当たって体が跳ね上がり、でたらめな方向へ飛び出した先に、また真っ黒な柔らかいものがあった。その黒いものの上でKKの体は二度三度転がって、ようやく落下が止まった。吹きつける冷たい風だけが相変わらずだ。
 わけがわからずに身を乗り出して眺めてみると、地上はまだはるか彼方にあった。KKは驚いて辺りを見回す。立ち上がろうと手を付くが、その黒いものは掴み所がなく妙にふかふかしていてバランスが上手く取れなかった。
 ともかくは助かったようだ。落ち着いてみると、それもまた残念であるような気がしてならない。


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