「あんまり怒らないでやってよ」
そう言って腰を据え、マッチを擦って火を付ける。
「この子はちゃんと仕事したんだ。後始末もしっかりやったし、俺のことだって殺そうとした。っていうか、俺、撃たれたしね」
榊は怪訝そうに眉根を寄せた。MZDは小さく笑うと、消えかかっているマッチをこちらに向かって差し出してくる。どうやらサービスのつもりであったらしい。KKは紙マッチを奪うと体ごとそっぽを向き、何度も失敗しながら火を付けた。
「相手が悪かったんだよ。俺様、不死身だし」
ね。と同意を求める声には睨み返すだけだ。
「……すまないが、コーヒーのお代わりをもらえるかな」
「喜んで」
MZDが席を立つ。KKは煙を吐く。ガリガリと頭を掻き、
「ホントだよ」
独り言のように呟いた。
「始末つけたんだよ。……嘘じゃねえって……っ」
「じゃあ、あそこでコーヒーを入れているのは?」
「……」
「双子のお兄さんかな」
「俺が知るかよ!」
煙草を投げ捨てた。火は付いたままだったが気にしてなどいられなかった。
「殺して死ぬんだったらいくらだってやってやらあ! 疑うんならあんたが自分でやってみろよ! 頭ぶち抜いてそれでも生きてんだぞ、ほかにどうしろってんだ!」
「傷跡見る?」
厨房の奥から呑気な声が飛んでくる。MZDはにこにこ笑いながら自分の額を指差し、「一応残してあるんだ」と落ちかかる前髪を掻き上げた。
「……」
榊は乱暴にカップを戻すと、大袈裟にため息をついてみせた。
「……からかわれているのでなければいいのだが」
「ジジィ……!」
「まあまあ」
ジーンズのポケットからパケットを取り出し、無造作にこちらへ放ってくる。ふわふわと不自然に宙を漂ったあと、それは二人のあいだへと落ちてきた。確かにあの男のものだった。持ち物は全て処分した筈なのに、一体どうやって手に入れたのか。
「あのさ、結局のところあんたらはそいつを殺して、そのことを俺が知ってるっていうのが不味いわけだよね。関係者ならともかく、俺様みたいな一般人が殺しの現場見ちゃって、しかも誰に言い触らすかわからないし」
「……君が消えたら、誰も君の言葉は聞けないな」
「だから俺は死なないんだってば。――試してみる?」
そう言ってMZDは榊の為のコーヒーと一緒に果物ナイフを持ってきた。榊は一瞬ナイフへと視線を落としたが、すぐに笑って首を振った。
「やめておこう。私は善良な一般市民だからね。殺すだのなんだの、そんな物騒な話は怖くて、とても」
「嘘ばっかし」
席に着いたMZDは小さく吹き出し、湯気の消えかけているコーヒーを口に運んだ。そうしてパケットを指で押し出してきた。
「これはあげるよ。あんたたちの好きにすればいい」
「タダでもらうわけにはいかないんじゃないかな」
伸ばしかけたKKの手が、榊のその言葉で止まった。KKは二人を交互に睨み付ける。もうなんでもよかった。とにかくここから帰りたかった。
「でもなあ。交換条件たって、俺別に困ってないし」
MZDは本気で参ったようにカウンターへ突っ伏した。すぐ側にある果物ナイフがKKに誘いかける。だが不意に榊の手がそれを遠ざけた。それは半ば自分への戒めであるようにも見えた。
「あ、ここの掃除タダにしてもらうとか」
「そんな程度のことじゃ困る」
榊の口調は、まるで幼い子供を優しく叱るかのようだった。
「うちの大事な従業員一人の値段だ。なにか価値のあるものでないと」
「……ふうん」
呟いてMZDはカップを口元へと寄せ、コーヒーを飲んだ。飲みながらちらりとこちらを見ると、
「『大事な従業員』だってさ。よかったね」
「……」
「俺、てっきりこいつのこと切るんだと思ってた。役に立たない道具なんて捨てるしかないだろ?」
「おい」
思い切り不機嫌な声になったが、奴は気にした様子を見せなかった。身を起こしてコーヒーの残りを飲み干すと、なにを思い付いたのか突然吹き出した。
「それとも、単に捨てるのが面倒なだけなのかな。これだけでっかいと焼却場に持っていくのも大変そう――」
「いい加減にしろよ、てめえ!」
胸倉をつかんでも奴の目は榊に向いたままだった。今度は止める声が聞こえない。
「否定しないんだね」
「……さっさと仕事を終わらせたいんだ」
言葉のとおり、榊の疲れ切ったようなため息が聞こえてきた。お察しします、とでも言いたげにMZDは肩をすくめてみせた。
「一個だけ教えてよ。あんたから直接聞ける機会はもうないだろうから」
「なんだね」
不意に親指をつかまれたと思った瞬間、胸倉に掛かる手を外された。KKは呆気に取られ、バカのようにMZDの顔をみつめてしまった。奴はちらりと目を動かしてKKを見た。値踏みするような目付きだった。
「あんた、こいつのこと育てたんでしょ。小さい頃から立派な道具になるようにって」
「……なんでも知ってるんだな」
「その気になればどんなことでもね」
そいつを止めろ、と心のどこかが叫んでいる。これ以上御託は聞きたくない。
「で? お望みどおりに育ったの?」
一瞬の間があった。今ここで自分がなにかをすればまだ間に合う、そんな気がした。たとえば大声を出すとか、こいつに殴りかかるとか、なんでもいい、そう思うのに、KKは言葉を待ってしまう。
「――ああ」
そして、いつも後悔する。
「道具としては一級品だな」
「――ジィさん」
店を出た榊は携帯電話を取り出してどこかへと連絡を取り始めた。誘いかけるように側へ寄り、歩き出そうとしても、榊は動く気配を見せなかった。声をかけてもこちらを見ようとしない。KKは辛抱強く電話が終わるのを待った。だが一体なにを言いたいのかがわからなかった。打ち合わせは終わった。あとは現場へ戻るだけだ。
周囲は日が暮れかかっており、どれだけ長いあいだあそこに居たんだろうと時刻を確認するが、実際には一時間程度のことだったようだ。なのに、ひどく疲れていた。頭のなかに泥でも詰まっているみたいだ。今なら深く眠れそうな気がする。
ふと視線を上げると、榊と目が合った。
「お前はもう上がれ」
電話の最中、声が伝わらないよう受話口をずらして榊がささやいた。その目が、お前にもう用はないと語っている。
「ジィさん、あのさ――」
「ああ、いや、こちらの話だ。それで? 作業は終わりそうなのか」
どうやら現場へかけているようだった。今日の予定は教習所とマンションの廊下定期とハウスクリーニングが一件。人数はぎりぎり足りていた。ただ打ち合わせで二人が抜けたから、もしかするとマンションの方で人手が足りていないかも知れない。
「方南町だったら俺行くよ」
榊は返事をせず、わずらわしそうに声を避けた。空いている方の手をズボンのポケットに突っ込み、電話に集中しようとうつむいている。
「了解です。――わかってるよ、大丈夫だ。それじゃ」
通話を終わらせた榊は携帯電話を胸ポケットにしまうと、もう一度強く「お前は上がれ」と繰り返した。
そうして振り向いた顔を、どういうわけか直視出来なかった。店は出た筈なのに、またあの疲労感に見舞われ始めている。
「何故黙っていた」
電話に語りかけていた時とは打って変わって、あからさまに怒りに満ちた声だった。
「……言おうとは、ずっと思ってたんだけど……」
榊は嘲るように鼻を鳴らしただけだった。
「いや、だってさ、たとえば正直に話したとして、ジィさん信じる? なんかバカみたいに聞こえない?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
正論だ。KKは言葉が続けられなかった。
「あれからどれだけ日が経ってると思う」
「……一週間」
「お前は毎日なにをやってたんだ。このままバレなければいいとでも思ってたのか?」
「いや、……だからさ、」
「もういい」
榊は乱暴に話を打ち切った。
「とにかく今日は上がれ。これ以上面倒事を持ち込むな」
「……んだよ、面倒事って」
不意になにかを投げつけられた。受け取り損ねて地面に落ちたそれは、例の運転免許証だった。
「お前が始末しろ。その程度のことは出来るだろ」
「――あのさあ」
「いいから拾え」
KKは渋々地面に手を伸ばす。
視界の隅で榊が近付いてくるのを察した瞬間、膝の後ろを蹴られてKKはすっ転んだ。あわてて立ち上がろうとすると、不意に榊の足が膝の上を踏みつけてきた。なにを、と思って顔を上げた時には、髪の毛を鷲掴みにされていた。
一度、無言で髪の毛を引っ張られた。睨み返すのは殆ど意地だった。
「久し振りに本気で腹が立ってるよ。お前のお友達も大したもんだな」
「……誰が友達だよ……っ」
「友達なんだろ。仲良さげに名前まで呼ばれてたじゃないか」
「あれは……!」
榊の足に体重がかかった。アスファルトに押しつけられた膝に鋭い痛みが走り、KKは声を上げるまいと必死で歯を食いしばった。榊は体重を預けながら顔を寄せてくる。ささやき声は、少し遠いところで聞いた。
「お友達に免じて今回だけは許してやる。だが次があると思うな」
そうしてつかんだ髪の毛を思い切り引っ張ったあと、乱暴に放られた。踏みつける足がどいたあとも、KKはしばらく立ち上がることが出来なかった。
「次……」
立ち上がりかけて失敗し、側の自販機に手を付こうとして、また失敗した。脇に置かれたゴミ箱の上へと倒れ込んだKKは、歩き出した榊の後ろ姿を茫然と眺めていた。
「次ってなんだよ、……どうなるってんだよ!」
榊は振り返らない。
「クソジジィ……!」
自販機を殴り付けても大声を張り上げても、榊の足は止まらなかった。KKはただ捨て置かれていた。
電気を消した部屋のなかにKKは座っている。ベッドに寄り掛かり、ライターを握りしめ、もう片方の手には運転免許証。目の前のテーブルに置いた灰皿を腕で手繰り寄せると、その上で免許証に火を付けた。
火は最初表面を舐めるように揺れるだけだったが、やがて大きく身をもたげると獲物をひと息に呑み込んだ。KKは火の付いたそれを灰皿の底で支え、端をつまんだままじっと眺めていた。
顔写真が溶けてあっと言う間に消えていく。刺激臭に眉をしかめた時、ふと脳裏にあの晩の光景が甦った。
シャベルを持ち、汗まみれでこちらを睨み付ける顔。乱れた髪の毛のあいだから覗く目は、理不尽さに対する怒りで満ち満ちていた。
何故だ。――男は無言で問い掛ける。何故だ。
何故俺が死ななきゃならないんだ。
火が指先にまで昇って来たので、KKは免許証の燃えかすを灰皿に放り込んだ。そうして空気を入れ換えようと立ち上がった。
カーテンを開けた途端、涼やかな光が足元に射し込んできた。見ると夜空に満月が浮かんでいる。しばらく月光浴を楽しんだあと、煙草を取りにテーブルへと戻った。灰皿のなかで火はもう消えている。煙草に火を付け、煙を吐き、ベッドに寄り掛かるようにして座り込んだ。窓から射し込む月の光を眺めながら一本を灰にした。
火を消すと再度立ち上がり、CDが並ぶ棚の前に立った。荷物を掻き出しながら、てめぇらは贅沢なんだよ、とぼんやり思った。
理不尽だろうとなんだろうと、あんたたちは死ぬことに意味がある。――俺とは違う。
求める品をみつけたKKは出掛ける支度を始めた。窓もカーテンも開けっ放しだ。