見覚えのある黒い扉を開けてMZDは二人を招き入れた。
ここを訪れた晩とは違い、今は飾りの照明ではなく蛍光灯がフロアの隅々までを照らし出していた。幾つかある丸テーブルの上にイスが逆さに乗せられ、乗り切らないイスは壁際に寄せられていた。ステージにはドラムセットと大きなスピーカーが置き去りになったままだ。
小屋としてはまあまあの広さだが、掃除の現場として見るなら小さなものだ。五人で一日あれば終わってしまう。
簡単に挨拶を済ませると、代表の二人は肩を寄せ合ってフロアの点検を始めた。
「お願いしといてなんなんですけど、特にどこをっていう希望はないんですよねー。専門家から見ると、どこら辺が掃除ポイントなのかな?」
「基本は水回りですね。台所とトイレ、あとは照明と……。床はどうしますか」
「ここはもう傷だらけだからねえ。あ、でも事務所の床とかお願いしようかな」
ステージの裏にある幾つかの控室と、やけに立派なトイレを見て回ったあと、三人はフロアへと戻ってきた。そのあとでMZDが指し示すカウンターの内部が気になるらしく、榊は断りを入れてキッチン部分に入り込んだ。
話し合いの最中、奴は一度もこちらを見なかった。最初の挨拶の時に頭を下げてはきたが、代表にくっついてきた社員の人、程度にしか思っていない風だった。
まさかとは思うが、忘れられているのだろうか。もしそうなら有り難いことではあるが、あっさりと忘れ去られたとなると、それはそれで腹も立つ。あの苦悶の一週間をどうしてくれる。
そんなことをぼんやり考えていると、不意にMZDが脇に立った。カウンターに両腕を乗せてなかを覗き込み、奥の榊と言葉を交わしている。
打ち合わせが前提の為か、今日は比較的おとなしい格好だった。灰色のトレーナーに黒のジーンズ。ピアスも大半が外されている。目立つのが一つ二つ――反対側にもう一つ。
KKはカウンターに寄り掛かり、同じように身を乗り出して厨房を眺めた。今日連れてこられたのは、多分現場責任者を任せられるからだ。掃除屋に徹するのであれば作業は完璧にこなす必要がある。いつまでも気を取られているわけにはいかない。
「お金払うとはいえ、なんか申し訳ない気がしますね」
声が自分に向かって飛んできた。KKは恐る恐る振り返る。奴はカウンターに腕を乗せたままこちらの顔を見上げている。無意識のうちにあの晩の憎たらしい表情を探していたが、今目の前に居るのは人の良さそうなただの経営者だった。
――ホントに忘れてんのか?
まだ疑いの気持ちは残っていたが、下手につついて墓穴を掘るのも嫌だったので、KKはお得意の愛想笑いを浮かべてみせた。
「まあ、それが仕事ですから」
MZDは、なるほど、というようにちょっと笑った。
「普段はどういう現場が多いんですか?」
「マンションや一般企業ですね。定期で床を洗うのがメインかな」
「こういうお店は珍しい方?」
「そうでもないですよ。単発で入ることもありますし、ほかにも変わった現場が――」
気が付くと奴は顔をそむけていた。何故か肩を小刻みに揺らしている。不審に思って声をかけようとしたとたん、くつくつという笑い声の合間に奴の言葉が聞こえてきた。
「……き、キショい……敬語使ってる……っ」
何故銃を持ってこなかったんだろう。
知らないフリというのは始めからポーズだったらしい。忘れ去るどころか、しっかりと記憶に残っているようだ。
MZDは声を殺して笑い続けた。不思議そうに榊が見るのに気付いて、KKは無言で視線をそらせた。
――なんだってんだ。
ちくしょうめ。
大まかに清掃範囲を確認したあと、コーヒーを入れるというMZDに引き止められて二人はカウンター席に腰を下ろしていた。
榊はコピーしてもらった小屋の図面を元に、早速料金の割り出しにかかっている。その隣でKKは黙々と煙草を吸い続けた。立て続けに二本を灰にし、三本目に手を付けようかどうしようかと迷いながら、じっと奴の姿をみつめている。
引き出しからスプーンを取り出す合間に、MZDがちらりと振り返った。いつの間にか睨み付ける恰好になっていた自分に向かって、なに? というように笑いかけてくる。
――ふざけんな。
KKは視線をそらせて煙草の箱を握りしめた。そのままイライラとカウンターに打ちつける。と、突然脇腹をつままれた。危うく悲鳴が洩れるところだった。
あわてて脇腹を押さえながら振り返ると、横では榊が渋い顔付きで煙草を取り出そうとしているところだった。目は電卓に固定されているが、苦い表情の理由は値段設定に悩んでいるから、だけではないようだ。
あきらめて煙草を放り出した。わざと聞こえるように大きなため息をつく。
ここへ到着した時のことからして、なにかあるらしいとは気付いているだろう。KKはただただ後悔するばかりだった。一週間の報告の遅れがこんな形で目の前に突きつけられるなんて。
「どうぞー」
カップが並べられ、コーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。KKは手を伸ばせない。顔をそむけ、うつむいたままカウンターの一点をじっと睨み付けている。
厨房に置いてある丸イスを持ってきてMZDは二人の向かい側に腰を下ろした。
「後日見積書をお送りします。FAXでも構わないのでしたら明日にでもお届け出来ますが――」
「じゃあFAXで。っていうか、いいですよ見積もり出してもらわなくても。そっちの言い値で」
「そういうわけにはいきませんよ」
「いやマジで。だって掃除頼んだの、ただの口実だし」
音楽が掛かっていたことに初めて気が付いた。静かなピアノ曲がフロアの沈黙をゆっくりと掻き回している。
「口実……?」
榊が呟くのと、視界の隅に奴の手が現れるのと、ほぼ同時だった。シルバーの指輪をはめた人差し指が命令を下すようにコツコツとカウンターを叩く。音に促され、KKは渋々振り返った。
「な?」
「……」
奴は小狡そうな笑顔を見せたあと、ゆっくりと笑いを収めていった。榊はまだ事情が呑み込めないらしく、怪訝そうに自分とMZDとを見比べている。
この期に及んでも、KKは自分の失態を言い出せずに居た。左手に握った煙草の箱を意味もなくいじくり回し、口を開こうとしては何度も失敗を繰り返している。
「ジィさん――」
「このあいだ」
不意にMZDが煙草の箱を奪っていった。許可も取らずなかの一本を引き抜き、まるで当然のように火を付ける。
「あんたら、山んなかで男殺しただろ。わざわざ自分が埋まる為の穴まで掘らせてさ。――趣味悪いね」
そう言ったあと、MZDは上を向いて煙を吐き出した。男の割に細い首が剥き出しになった。KKは即座にナイフでその首を掻っ切る場面を想像したが、たとえ第二の口がぱっくりと開いたとしても、奴の御託が止まるとは思えなかった。
榊はカップの縁に指を触れたままずっと押し黙っている。返事のないことに気が付いてMZDの視線が榊に向いた。にやにやと嫌らしい笑いを口元に浮かべ、わざと目の前の灰皿に灰を叩き落とす。
「しらばっくれんのは無しにしようよ、ボス」
「……」
「あんただって手ぇ貸してただろ。随分と馴れた様子だったけど、今までに何人くらいやってきたん? 報酬幾らなのかとか訊いちゃってもいい?」
「……誰か別の方と勘違いされてるみたいですな」
ビジネススマイルを顔に張り付けて榊は帰り支度を始めた。
「申し訳ありませんが、今回のお話はなかったことにさせていただきたい。あなたがなにを考えてらっしゃるかは知りませんが、くだらない遊びに付き合っていられるほど暇でもありませんので」
「ふうん」
立ち上がった榊は鋭い視線でこちらを見下ろしてくる。KKはすぐには動けなかった。カウンターに置いたライターと帽子をあたふたと拾い、ふと気が付いて振り返ると、何故かMZDが肩をすくめてこちらを見ていた。
「あんた、見捨てられちゃうんだ。かわいそうな人だね、ミスターKK」
不意に奴はジーンズの後ろポケットからなにかを取り出した。密封の出来る小さなパケットだ。なかには一枚のカードが入っている。
「これ、このあいだ山に埋められちゃった人の免許証なんだけど、何故かKKの指紋が付いてるんだよね。あんたが無関係だっていうんなら、これ警察に持ってっちゃってもいいよね? 別にあんたが引っ張られるわけじゃないし、こいつが道具だってんなら、代わりは幾らでも居るんでしょ?」
「てめ……っ」
胸倉につかみかかったが、榊の手が静かにそれを止めた。KKは戸惑って振り返る。榊の目はMZDに向いていた。その視線を受けて、MZDもおかしそうに笑っていた。
指紋など嘘に決まっている。だが問題はそんなことじゃない。
「手を離せ」
静かな声だった。
「離すんだ」
「……っ」
KKは突き飛ばすようにして手を離した。奴はふらつき、おどけて両手をひらひらと振った。その手にはまだしっかりとパケットが握られている。
「なにが望みだ」
MZDは安堵したように笑ってみせた。つかみかかられた拍子に落とした煙草を、床から拾い上げて灰皿へと突っ込み、
「とりあえず座んなよ。別に脅そうなんて思ってるわけじゃないんだ。ちょっと話がしたかっただけでさ」
そう言ってカウンターのスツールを手で示す。しばらく考え込んだあとで、榊は再び腰を落ち着けた。
不意に目の前へ煙草の箱が置かれた。奪い取るようにして手のなかへと戻し、火を付けようとするが上手くいかなかった。
「話というのはなにかな」
「その前に、コーヒーのお代わりいかが?」
「いや、結構だ」
「じゃあ俺もらうね。KKはどうする? 新しいの入れよっか?」
名前を呼ばれるたびに違和感を覚える。ふと顔を上げると、何故か二人に注目されていた。KKは煙草をあきらめてカウンターに置き、無言で首を振った。
「いらない?」
「いらねぇよっ」
針の筵だ。
MZDは肩をすくめるとコーヒーの準備に取りかかった。帽子をカウンターに置いた榊は一度ため息をつき、冷めかかったコーヒーのカップを持ち上げた。
「どうりで」
ぼそりと呟く。
「様子がおかしかったわけだ。こんな理由とはな」
そう言って、カップの底に残っていたコーヒーを飲み干した。
「いや、あのさ、言おうとは思ってた――」
「黙れ」
ピアノが沈黙を崩していく。KKは再び煙草に取りかかった。火はなかなか付かなかった。どうやらガスが切れかかっているらしい。向かいに現れたMZDは自分の為に二杯目のコーヒーと、店の名前が入った紙マッチを持ってきた。