MZDの住処はすぐに割れた。奴が所有する録音スタジオがそのまま自宅となっていた。知り合いに頼んでおおまかな行動パターンも調べてもらった。狙い目は平日の明け方、店から自宅へ帰る途中。
「なんかチャラチャラした感じの奴だね」
尾行を担当した古馴染の男はMZDをそう評した。そのまんまだよ、と思いながらKKは男に金を渡した。
「あれなに。依頼かけられてるの?」
「いや、まだ。ちょっとした前調査」
「ふうん」
男は金を受け取ったあと、ある程度の有名人って厄介だよな、と苦笑した。
「居なくなったらすぐに気付かれるだろ。死体の身元も判明し易いし」
「まあね」
やるなら用意は周到にな、との有り難い忠告を残して、男は夜の歌舞伎町へと消えていく。KKはその後ろ姿を見送ったあと、歩道のガードレールに寄り掛かってつなぎの胸ポケットから煙草を取り出した。
あれから一週間が過ぎようとしている。山中での殺害現場を目撃したMZDは何故か通り魔にも事故にも遇わず、未だに呑気に生きているらしい。
――まあ、当然っちゃあ当然か。
箱から引き出した煙草をくわえようとしながらもそれが果たせず、KKは指のあいだでもてあそぶ。そうして知らずのうちにため息をついていた。
奴が死なないのは当然だ。何故なら、まだ誰もMZDを殺そうとしていないから。
本来なら有り得ないことだが、KKはあの晩のことを榊に報告していなかった。無事に終了、告げたのはそれだけだ。だから榊は動かない。よって奴も身の安全が保証されている。
とはいえ、もし身内が総動員でかかったとしても、奴の命を奪えるかどうかは怪しかった。頭をぶち抜かれても平気で生き返った化け物だ。しかも空まで飛びやがる。ゾンビより質が悪い。
『なんなんだよ、お前』
『神様』
突然背後でクラクションが鳴らされた。KKは驚いて振り返る。
すぐ側の横断歩道を赤信号で渡ったバカが居たらしい。急ブレーキを踏んだワゴン車が苛立ちを表すように再度クラクションを鳴らして走り過ぎていく。中央分離帯に駆け込んだ若い男が、その後ろ姿に向かってなにやら声を張り上げていた。自分が轢かれ損ねたことを残念がっているのだろうか。金さえくれりゃ俺が殺してやるのに、バカなことをするもんだ。
KKは非難するように鼻を鳴らして向き直った。ぼんやりと足元を見下ろし、手のなかで煙草をくるくると回し始める。また知らずのうちにため息が洩れていたが、それに気付いたとたん、三度目のため息が胸の奥からやって来た。
珍しく判断に迷っている。というより、頭が考えることを拒否している。
このまま放っておくわけにいかないのは百も承知だ。なにより奴には現場を見られているし、名前まで教えてしまった。今のところは幸いにして警察がやって来る気配はないが、このまま無事に済むとも思えない。
――行くしかねぇのかなあ。
手のなかで煙草を持ち直したKKは一度ガードレールから腰を上げたが、さて行こうと自分に言い聞かせたとたん気力が萎えてしまい、また元の姿勢に戻っていた。
四度目のため息をついた時、遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきた。誰が死にかかってるんだろう。顔を上げたKKは音の方向を確かめ、それが消えるまでじっと聞き入っていた。
KKの世界には二種類の人物が存在している。生きている人間と死んだ人間だ。それは言い換えればまだ殺せる人間ともう殺せない人間ということだった。
命があるなら奪うことが出来る。その為の技術はこれまで長い年月をかけて幾つも習得してきた。自分に殺せない奴は居ないと思っていた。それが覆されたのがMZDの存在だった。あいつは頭を撃たれてもなお立ち上がり、こちらに笑いかけ、今この瞬間ものうのうと生き続けている。
殺せる筈なのに死なない奴などKKの世界には存在しない。つまりMZDは理解の範疇を超えているのだ。解決策を練ろうと思っても、頭が働かないのは当然だろう。
KKは五度目のため息をついてからやっとライターを取り出した。ガードレールに身を預けながらずるずるとその場にしゃがみ込み、こっそりと隠れるようにして煙を吐く。
頑としてその存在を無視し続けてきたが、榊に相談する以外どうにもならなそうだということを、そろそろ認めなければいけないようだ。だいたい何故最初にすっぱりと話してしまわなかったのだろうか。こういうことは時間が経てば経つほど話しづらくなる。そして大抵、事態は悪い方向へと転がっていく。
くわえ煙草で髪を梳き、ズボンのポケットへと手を伸ばした。携帯電話の固い感触はすぐにみつかった。抜き出して画面を眺め、メールも着信もないことを確かめる。榊の番号は着信履歴の一番上だ。探すまでもない。だがKKは画面を閉じるとポケットへと電話を戻してしまった。
八方塞がりという言葉が脳裏で点滅を繰り返す。
出来ることなら誰かに問題を預けてしまいたい。相手がMZDでなければとっくにそうしていた筈だ。榊に拾われてから今の今まで様々なことを教わってきた。だけど、きっとジジィにだってわからない。神様なんかどうやって殺したらいいんだ?
信号待ちで立ち止まった榊は、手のなかの地図を開いて方向を確認している。地図とはいってもFAXされてきたものだから、文字が若干不鮮明だ。隣に立つKKは同じく赤信号で足を止め、上着のポケットに両手を突っ込み、目の前を行き過ぎる車の動きをぼんやりと眺めていた。
十月下旬ともなると、吹き渡る風には秋らしい冷たさを感じるようになる。そろそろ厚手の上着出しといた方がいいのかなぁ、などと考えながら、KKは上司の横顔を盗み見た。
手元へと目を落とした榊は癖のように口髭の脇を掻き、よし、と呟くと気合いを込めて地図を畳んだ。ふとこちらの視線に気付いて顔を上げ、
「なんだ?」
「別に。――こっからどんくらいなの」
「そんなに遠くない筈だ。車が置けるといいんだがな」
それは行ってみないとなと独り言のように言うと、青になった横断歩道を渡り始めた。KKも少し遅れて歩き出す。
今、二人は新しい現場の下見へ向かっている。榊の話では一回限りの単発受注だそうだ。大掃除時期の年末でもなく、知り合いから持ち込まれた依頼でもないのに、一度限りで仕事を受けるのは結構珍しいことだった。
細かい仕事好きだよねと茶化すように言うと、こういうのが後々大きい依頼に繋がることもあるからなと、榊は企業人の顔で淡々と語った。仕事に関しては嫌になるくらい几帳面なのだ。だからこそKKは話のきっかけがつかめないまま黙々と歩き続けている。
結局まだ相談はしていない。今日の仕事が終わったらと腹を括ったつもりではいるが、だったら昨晩でもよかったのではないかという事実には、意図的に目をつむっている。
「こっちだ」
榊に呼びかけられて横道を曲がった。飲み屋がありオフィスビルがあり、妙に古めかしい看板を掲げた理髪店の角を曲がって、更に奥へと進んでいく。途中で足を止めた榊は地図を取り出して方向を確かめ、少し行き過ぎたなと再び表通りを目指して歩き始めた。
途中、見覚えのある洋服屋をみつけてKKはハッとした。
この時間は営業中らしく、二階へ上がる階段の脇に着飾ったマネキンが並んでいた。その反対側にある地下へと下りる階段からはわざと目をそらした。だから榊が立ち止まったことには気付かず、危うくぶつかるところだった。
KKはあわてて足を止めた。目の前に立つ榊は再度地図を開いてなにかを確認している。そうしてすぐ側のビルの地下へと下りる階段に向かって歩き始め――。
「ジィさん」
呼び止めながら、なんだそりゃ、と内心で毒づいていた。榊はとぼけた表情で振り返った。
「なんだ?」
声をかけたはいいが、言葉が続かない。
まず簡単な方法として、KKは自分が勘違いをしているのだと思おうとした。
一階が洋服屋のビルなんざ山ほどある、外階段が目立つ位置にあるのは商用ビルなら珍しくない、しかも東京だし六本木だし(ここ六本木だったチクショウ!)地下空間を無駄にするなんてもっての外、だからなんとなく見覚えのあるビルに似てる気がするけどそんな気がするだけできっと無関係だ、無関係に決まってる頼むから誰かそう言ってくれ。
そうして見覚えのある風景から思いっ切り目をそらそうとするが、どこを向いてもあの晩の記憶につながった。まったく、自分の優秀な記憶力が非常に恨めしい。
「……マジでそこ?」
榊は地図を開いてビルの名前を読み上げる。そうして階段の上に描かれた文字を指差した。榊が読み上げたとおりの名前がそこにある。間違いないようだ。KKはくるりと体の向きを変えた。
「俺、帰る」
「バカを言うな」
「いや、バカでいいから」
「ケイ」
苛立ち混じりの声が背中に飛んできた。振り返ると榊はこぶしを握りしめ、それに向かって息を吹きかけていた。誰が見てもわかる、鉄拳制裁の前触れだ。ガキじゃねぇんだからよ、と思いながらも、KKは無意識のうちに頭をかばっていた。
「わけはあとで話すからっ」
「聞く価値があるとは思えんな」
そうして、ふざけるのもいい加減にしろと、こぶしを握ったままゆっくりと近付いてくる。なんとか逃げ出す算段を始めたものの、咄嗟には上手い言い訳も思い付かなかった。人の姿はさほどないが、殺しの話などおおっぴらに出来るもんじゃない。
「こんにちはー」
突然男の声がした。不自然なほど明るい声だった。それだけで声の主が誰なのかわかった。KKは地獄を見る思いで振り返った。
階段を上がり切ったところにMZDが立っていた。にこにこと屈託のない笑顔が、逆に憎たらしい。
「もしかして掃除屋さんかな? 打ち合わせに来てくださったんですよね」
満面の笑みを向けられ、榊はあわてて帽子を取った。
「遅くなりまして申し訳ありません」
「いえいえ、時間通りですよ。どうぞ」
MZDは先導するように階段を下りていく。KKは見送るつもりでその後ろ姿を眺めていた。すると、いつまでも動かないことに業を煮やしたのか、突然背中をどつかれた。もはや逃げることは叶わないらしい。KKはわざとらしく大きなため息をついた。そのとたん、尻に更なる一撃が加えられた。