手元で黒のリードがギシギシと鳴っている。あんまり遠くへ行くなと軽く引っ張ると、少し離れた辺りで不満げな唸り声が聞こえた。KKは手元から目を上げる。懐中電灯の光に照らされて、太り肉の男が息を乱し、こちらを泣きそうな顔でみつめていた。着ていたワイシャツは早々と地面に放り出されており、今は白のランニングに泥まみれのスラックスという格好だった。
片手に握るシャベルは地面に突き立てられ、男はそれに寄り掛かりながら流れ落ちる汗を拭っていた。
「休めっつってねぇだろ」
音楽を止め、ヘッドホンを首に掛けて男が着ける首輪のリードを引っ張ると、疲労のせいか男は前のめりに倒れ込んだ。あわててシャベルにすがりついたが刺し方が浅かったのだろう、それは支えにならず、男と一緒に倒れてしまった。
下草をよけて手を突いた男は、泥まみれ汗まみれの顔を拭おうともせずにこっちをみつめてくる。大声を出したところで無駄だということは骨身に沁みている筈だ。ここへ来るまでにも散々脅しつけてきた。真夜中、しかもどことも知れない山の中腹で、一体どこへ逃げようというのか。
「早く掘れよ」
「……た、頼む、五分だけ」
休憩させてくれという懇願にKKは面倒で首を振ったが、男が立ち上がりそうもないのを見て「煙草吸うあいだな」と仕方なしに許可を与えた。
男は安堵した顔でゆっくりと起き上がり、リードと、片足に巻かれた鎖とに邪魔をされない場所、つまり自分がそれまで掘り続けている穴の側に座り直した。リードの一端はKKの手首に、鎖は近くの木に巻き付けてある。逃亡の危険もそんな体力もないだろうが、KKは男から視線を外さなかった。
男は懐中電灯に照らされた穴を茫然と見下ろしている。てっぺんが禿げているのを隠そうと無理やり伸ばして横に置いた髪は、今はぐちゃぐちゃに乱れて先端が右目にかかっていた。無駄に贅肉だらけの肉体がみっともなかった。それでも、あんたの為に金を払ってくれる奴が居るんだよなと思うと、不思議な気分になってくる。
気配に気が付いた。男は未だに夢を見ているんじゃないかと疑うような視線をKKに向けていた。
「なんだよ」
「どれくらい、掘ればいいのかな」
男はあわてて視線をそらせ、怯えた声でそう訊いた。あんたが埋まるくらいだ、そう言ってKKは立ち上がる。
「あのな、人間の腐臭って結構きついんだよ。最低でも一メートルは欲しいし、深けりゃ深いほどいいんだ」
「……もう一メートルは、行ったと思う」
「じゃああんたを埋めねぇとな」
「あぁいや! いや、その、まだかな」
男はシャベルを握ろうと震えながら手を差し出した。もう殆ど体力は残っていない筈だ。だけど掘り終わってしまえば自分は殺される。そんな板挟みのなかでどうしたらいいのかと懸命に頭を働かせているようだった。
「さっさと掘れよ」
携帯灰皿に灰を叩き落としてKKは言う。
「あと五分あんたの寿命が延びたって、なんも変わらねぇだろ」
「……許してくれ!」
男は突然地面に頭をこすりつけた。KKは煙を吐いて返事をしなかった。
「な、頼むよ、金ならやるから。全部やる! 幾ら欲しい? な。なんでもするからこ、殺さないでくれ……!」
「『なんでもする』、か」
思わず失笑が洩れた。男はしばらく頭を下げ続けたあと、恐る恐る顔を上げてこちらをのぞき込んでくる。藁にもすがるような、ってのはこういう顔なのかなとぼんやり思った。煙草をもみ消して懐中電灯を拾い上げると、ベルトから銃を取り出した。
安全装置を外して男に狙いを定める。
「じゃあ、とっとと掘れ」
男の口からうめき声が洩れた。無意識に伸ばした手がシャベルに触れて、一瞬ハッとしたような顔つきになる。KKが動かないでいると、男は泣きそうな顔で立ち上がり、唸り声と共に殴り掛かってきた。
KKは木の根元に駆け寄ると片足に鎖をかけて思いっきり蹴り上げた。足を引っ張られた男は情けない悲鳴を上げて仰向けに倒れ込んだ。手にしていたシャベルは遠くへ放り出され、あわてて光を向けると下の方へと滑り落ちていくのが見えた。
痛みに顔をしかめながら男は身を起こそうとする。KKはその顔に狙いをつけた。
「やめ……、待――」
「アホ」
消音機は今回もいい仕事をする。男は頭から穴へと倒れ込んだ。のけぞった恰好でだらしなく四肢を伸ばしている。KKはのそのそと歩いていって穴をのぞき込む。注文通り一メートル以上はきちんと掘られていそうだった。あんた、頑張ったな。そう死体に笑いかけてKKはしゃがみ込んだ。首輪と鎖を外さなければ。
手袋をはめた手で首輪を外している時、ふと視線を感じて振り返った。懐中電灯を斜め下に向けたまま辺りを照らす。人影はない。――当たり前だ、わざわざこんなところまで下りてくる奴が居るか?
それでもしばらく見渡したあと、KKは作業に戻った。なによりこいつを埋めなければいけないのだ。あぁめんどっちい。
そうして首輪を外し鎖を外し、それらをまとめて荷物の上へと放り投げた時だった。
ライトの隅に人の足が映った。
反射的に銃を構える。懐中電灯を向けるとメガネのレンズが光を反射した。今日はピアスは控え目なんだなと無意識のうちに思うのが、自分でもおかしかった。
MZDはじっと死体をみつめている。KKも同じように死体へと目を投げ、それから振り向いた。
「……殺したんか」
「覗きかよ」
奴からの返事はない。メガネの奥で死体へと向けられていた目がゆっくりと持ち上がり、こちらを睨み付けるのが見えた。
「あんまり驚かないんだな」
わざと銃を構え直しながら言った。ショックで頭が働いていないんだろうか。それとも死体など見馴れているというのか――まあ、それはねぇか。自分の考えを小さく笑い飛ばしてKKは言葉を続ける。
「お前、どうやってここまで来た」
「……」
「トランクにでも隠れてたのか? たいした冒険だな」
奴はなにも言わないままだ。怒りの為か、唇を噛みしめてずっと黙りこくっている。
「良かったら手伝ってくれよ。この穴、埋めなきゃなんねぇんだ」
「……ふざけんなよ」
「嫌とは言わせねぇぞ」
そう言って安全装置を外した。ゆっくりと歩いていって、一定の距離で立ち止まる。そうしてふと思い付き、「シャベル拾ってこい」と斜面の方を懐中電灯で示した。
「さっきこの親父がどっかに飛ばしたんだ。そんなに離れちゃいねぇと思うから――」
「道具、か」
咄嗟には意味がわからなかった。そう、とうなずいて、光を奴に戻す。
「親玉、誰なんだ」
「あ?」
「あんたを使ってる奴が居るんだろ? 誰なんだよ」
「――なんでそんなこと話さなきゃなんねぇんだ」
KKは次第にイライラしてきた。銃口を向けられて平然としているのが気に食わない。脅しで足でも撃ってやろうかと思ったが、さすがにそれは不味いだろうと自分を戒めた。とにかくこの場を片付けなくては。
「いいから、とっとと拾ってこいよ。おとなしく言うこと聞いてりゃ命だけはなんとかしてやらあ」
「あんたが命なんか語るな」
初めて怒りをあらわにした声だった。
「自分が粗末にされてきたからって誰もがそうなわけじゃない。あんたの親はあんたをまともに育てなかったみた――」
気が付いたら引き金を引いていた。奴は額のど真ん中に風穴を開けて、背後の木にぶつかった。今回もまた消音機はいい仕事をしてくれたので、KKは最初自分がなにをしたのかわからなかった。力が抜けてずるずると奴の体が崩れ落ちるのを見て、ようやく我に返った。
「あ」
辺りに漂う硝煙の匂いが、KKにわずかな自己嫌悪を引き起こす。膝を突いたあと前のめりに倒れた奴の後頭部をしばらく眺め、どーっすかなぁと半ば自棄気味に呟いた。
背後を振り返る。のろのろと穴の側へ行ってなかをのぞき込み、さすがに二人は無理かなとため息をついた。銃を背中のベルトに差すと、仕方ねぇ、とシャベルを拾いに斜面を下り始める。気は進まないが、工事を引き継ぐしかないようだ。
しかし、落ちていった時は見た筈なのに、どういうわけかシャベルはなかなかみつからなかった。イライラと下草を手で払い、辺りに光を向ける。気が付くと最初の地点からだいぶ移動してしまっていた。もう一度上に戻って当たりを付けるかとあきらめかけた時、
「探してんの、これだろ」
奴の声がした。
――まさか。
光は向けないまま背中の銃を握りしめる。声のした辺りへ銃口を向けると、「早く掘れば?」とからかうような声が続いた。
暗がりのなかで姿を捜しながら、さっきのは見間違いかと自分に問いただした。いや、そんな筈はない。確かに見た。額に開いた穴、ずるずると崩れ落ち、地面に突っ伏した姿を確かに見た。あれで生きてりゃ、そいつは人間じゃない。
――人間じゃない。
『なんなんだよ、お前』
『神様』
いつかの晩の会話を思い出す。そうして、バカか、と小さく吹き出した。そんなわけがあるか。神様なんかが居るわきゃねぇだろ、もし居たとしても、なんで俺みたいな奴に接触したがるよ。
ホッチキスと会話をしようとする奴が居るか? ボールペンに人間的な温もりを求めるバカが居るか? 居ねぇよな、居るわきゃねぇんだ、よってあいつは神じゃねぇしだから殺さなきゃなんねぇんだ。
光を向けると、MZDは片手にシャベルを握ったままこちらを見下ろしていた。警戒しながら近付いていき、元の位置へと互いに戻る。何度も確かめたが、残念なことに額の穴は存在しなかった。まさかな、と知らずのうちに笑い、無言で二発撃った。反動だけが腕にある。奴は立ち尽くしたままだ。
「さっさとやれば?」
バカにするような口調で言い放つと、足元へとシャベルを放り出してきた。
「……なんなんだよ、てめぇ」
幽霊と対峙しているかのような不気味さがあった。いっそのこと狸か狐にでも化かされているのだったらいいのに、半分本気でそんなことを考えつつあった。
奴は口の端を持ち上げるようにして、にやりと笑った。
「神様だよ」
不意にMZDの体が持ち上がった。わずかに上へと移動した奴の顔へ銃口を向ける。移動は止まらない。気が付くと既に見上げるほどの高さに居て、勿論なにかに登っているのでも誰かに引っ張られているのでもなく、まるで当たり前のように宙に浮いている。
手すりに両足で乗る奴の姿を思い出す。あの神がかり的なバランス感覚。
と、突然奴の背後で闇が広がった。鬱蒼と茂る樹木がうっすらと出ていた月を隠していたが、奴の闇はそれより深い。
――神様だと?
しぶとく銃口を向けながらKKは思った。奴は足を組んだ恰好ではるか頭上からこちらを見下ろし、バカにするように手を振っている。
――ふざけんな。
てめぇなんざ悪魔がお似合いだ。
エアポケット・前編/2010.06.07