「名前なんてーの?」
 外に出ても耳の奥で反響が続いている。KKはすっかり汗の引いた体に再びつなぎを纏い、ガスのなくなりかけた百円ライターで煙草に火を付けた。質問を無視していると、MZDは苦笑するように口の端を歪め、道の向かい側に立つ自販機の前へと歩いていった。
「コーヒー飲む?」
「飲む。ブラック」
 答えて煙を吐き出し、ビルの二階へ上がる外階段の手すりにもたれかかる。空は曇っているようで、月の姿は隠れてしまっていた。こうして外に居ると地下の馬鹿騒ぎが嘘のようだ。
「ほい」
 缶を受け取ってKKはしゃがみ込んだ。一階は洋服屋らしい。店の奥のぼんやりとした光を眺めていると、目の前にMZDが立った。
「さっき一緒に居た人、あんたの身内?」
「さっき?」
 おんなじつなぎ着た、という言葉で、榊のことだと思い至った。
「あんたのことケイって呼んでた」
 しばらく迷ったが、隠すのもおかしいような気がして、育ての親だと教えてやった。
「赤の他人だけどな」
「ふうん」
 フタを開けて煙草を手に持ち、よく冷えたそれを喉の奥に流し込む。息を吐き出す合間に、MZDが隣にしゃがみ込んできた。
「名前教えてくんないの?」
「……なんなんだよ、お前」
「神様」
「それはさっき聞いたよ」
 胡散臭さは変わっていない。むしろ倍増された気がする。MZDは短く笑うと、そこのオーナーだよと地下を指さした。
「いい音鳴らす奴らは問答無用で引っ張ってくんのよ。スギもレオもそうだし、今日演ってる奴らも全員そう」
 ご機嫌だったっしょ? との言葉は、まあ否定しない。KKは肩をすくめて煙草をふかした。
「あんたも、面白い音鳴らしそうだったから声かけたんだ」
 わけがわからずに見返した。MZDは何故か照れたように笑ってから前を向いてしまう。
「俺、見境なさすぎだってよく叱られんだよね。でも駄目なんだ、いいと思ったら我慢出来なくってさ。――あん時、あんた音楽聴いてたじゃん」
 プレイヤーの電源は切れたばかりだった。
「解体中のビルの音とさ、電車と車と通行人と、あとなにかの宣伝の車が流してる音楽。救急車のサイレンも鳴ってたな。ガードの下で音が反響して車が通ってそれ掻き回して、そういうのの流れを聴いてた」
 喋りながらMZDは手をくるりと回した。指が起き上がるのにつられて周囲の空気が動かされ、渦を巻いて沸き起こる様が見えた気がして、KKは目をそらす。
 ――駄目だ。
 胡散臭さ更に倍。
「だからパーティーにも来てもらいたかったんだけど」
 奴はそう言うと、タイルを貼った床にどすんと座り込んだ。
「やっぱあの紙、あんたか」
「チケット入れといたって言ったじゃん。あれ、どうしたの?」
「捨てた」
 本気で泣きそうな顔になったので、さすがに動揺した。参加者用の特別チケットだったのにぃーと、今度は本当に泣き始めたので、とりあえず無視することにした。
「KKだ」
「へ?」
 コーヒーを飲み干して煙草の吸殻を放り込む。
「名前。さっき訊いただろ」
「……なんかの暗号? っつか、コードネーム?」
 俺が初めて覚えた文字だ、とKKは何故か苦々しく思い出した。
「どういう字書くの?」
「アルファベットのKが二つ。そんだけ」
「――なにそれ。ホントに名前なの?」
 そういうてめぇはどうなんだ。KKは立ち上がり、自販機脇のゴミ箱へと空き缶を突っ込んだ。
「道具にいちいち名前なんざ付けねぇだろ」
「そんなことないよ! 俺は愛用のパソコンに片桐さんって名前付けて可愛がってるよ!」
「そんなんてめぇだけだ」
 思わず苦笑が洩れた。音楽が聴こえてきたので振り返ると、騒がしい話し声と共にレオたちが階段を昇ってくるところだった。
「俺はただの道具なんだよ。――俺に期待なんざするな」
 話を打ち切るようにKKは言い捨てた。
「あー、運動したら腹減ったー」
 階段の脇に座り込むMZDの姿をみつけ、飯食いに行こうよとレオが誘う。
「掃除屋くんも行かない?」
 そう声をかけるスギの後ろには何人か見覚えのある顔が続いた。ステージで演っていた連中の殆どが集まっているようだった。ぞろぞろと大勢で行動するのが好きではないので、つい顔をしかめてしまう。誤魔化すようにうつむき、そのままMZDを見ると、良かったら行く? という風に弱々しく笑いかけられていた。出会った当初の強引さは何故か消えていた。
「あんた、どうすんだ」
 階段脇に戻ってKKは訊いた。
「……どうしよっかなー。KKは?」
 耳馴れない、と咄嗟に考えた。思い返してみれば仕事以外で付き合いのある人間というのは本当に片手で足りてしまう。それですら全て偽名で通してきた。何故教えてしまったのか。
『で? 君は何者なのかな』
 俺は何者なのか? ――考えるまでもない、ジジィにとってのただの道具だ。それを、知りたかったんだと思う。
「あんたが行くんなら、行ってやってもいいぞ」
 階段を昇りきった辺りで大勢の人間がたむろしながらこっちを見ている。早くーと女の焦れたような声が聞こえてきた。MZDはにっかりと笑うと「じゃあ行こうかな」と言って勢い良く立ち上がった。
「お。なんだ、新人か」
 歩き出した集団にまぎれないよう後ろから付いていったのだが、それが逆に目立ってしまったのか単に格好のせいなのか、話しかけてくる声があった。目を上げると振り返っているのは着物姿の男で、確か入った時しょっぱなに演ってた奴だなと思い返す。ふてぶてしい目付きながらどこか幼さを残す面立ちだ。
 そう思いながら男の姿を一瞥してKKはぎょっとする。有り得ないことに日本刀を腰に下げていた。銃刀法違反、っつうか髪の毛水色、ってか目が赤ぇ。その風体もさることながら、自分よりも年下らしき人物から気軽に「新人」と呼ばれたことが気に食わなくて、KKは癖のように睨み返す。
「……あにくれてんだ、てめぇ」
「ああ? てめぇにくれてやるモンなんざねぇよ、バカじゃねぇのか」
「んだとお!?」
 男が胸倉をつかむのと同時につかみ返していた。怒鳴り声に気付いて前を歩いていた集団が二人三人と足を止めてこちらに振り返る。誰か止めに来るかと思ったが、それはなかった。
「まーたやってるよ。六も飽きないねえ」
「っていうか、相手誰?」
 そうして、早めに終わらせなよーというからかいの声を残して去っていこうとする。なんだ、こいつって結構かわいそうな奴なのか? と思った時、人の輪から二人ほど離れて駆け寄ってきた。
「もー、六ってばすぐに大声出すんだから」
 そう言いながら、互いに胸倉をつかむ手をするりと押し退ける。呆気に取られている隙に、腕を押し退けた片方が六と呼ばれた男の袖をつかみ、
「喧嘩はあとあと、ご飯が先!」
 と前方を指さして一緒に歩き始めた。少女のような声だった。頭にかぶっている二対の三角形のでっぱりがなければ、まぁ可愛いかなと思えた。っつうかあれ、猫耳か?
「ほら君も。歩いて歩いて」
 もう片方がそう言ってKKの背中を押し始めた。びっくりして振り返る。
 ……ウサ耳?
 なんとか集団に追いついたところでウサ耳少女は満足げに笑い、「またあとでね」と前方へ走っていった。一群の最後尾に付いてだらだらと歩きながらKKは、あぁ胡散臭ぇ集団だなと認識を新たにしていた。
 ――やめときゃ良かったかな。
 人生のなかで滅多にしない後悔を、KKは久々に感じていた。


 東の空がうっすらと白み始めている。MZDはガードレールに腰を下ろしたまま、わずかに交通量の増えつつある大きな交差点の中心を眺めていた。
「あれ? 掃除屋くんは?」
 二十四時間営業の喫茶店から出てきしな、スギが不思議そうに訊いた。ぐだぐだと意味のない会話の続く店を早々に脱出して、もうずいぶん時間が経つのに姿が見えないのをおかしく思ったのだろう。MZDはメガネを直しながら店の裏側を指さし、
「あっちで吐いてる」
 スギの吹き出す音が聞こえた。
「飲み過ぎか。まぁあんまり強そうにも見えなかったけどさ」
 そう言って煙草を取り出し、一本だけ残っていたマッチで火を付けた。ドアの開く音がしたので喫茶店へ振り返ると、なにを見たのか不機嫌そうな顔でレオが近付いてくる。
「君はそろそろ煙草なんかやめちゃえばいいと思うよ」
「君はそろそろ人の嗜好に口出ししなくなるといいと思うよ」
 レオとスギのいつもの応酬に苦笑して、MZDはガードレールに座り直した。
「あいつ、どうよ」
 問い掛けに二人は、困ったように首をひねった。
「音楽聴いてみないと、なんとも」
「だね。一個人としてはまぁ、おとなしそうな子だなぁ、としか。あと目付き悪いなぁって」
「六とは気が合いそうだけど」
「二人とも若いから」
 そう言ってスギはけらけらと笑った。
「自分ではどう思ってるの。スカウトしてきたんだよね」
「……まあな」
 だけど正直なところ、何故声をかけたのか自分でもわかっていなかった。なにか曲を演っていたわけじゃない、道端に突っ立ってぼんやりしていただけだ。
 ただ、その姿が気になった。
 解体工事の音、電車の音、クラクション、うんざりしたようなエンジンの唸り、甲高い女の笑い声、苛立ちに満ちた人々の空気、そういったものが流れ、とどまり、ぶつかって包み込むなかで唯一の例外だった。まるで竜巻の中心に居るかのように、様々なものが渦巻くのを、遠くに眺めていた。
 街中のエアポケット。そんな風に見えて、気が付いたら声をかけていた。
「でも彼、楽器出来ないって言ってたよ」
「マジで!?」
「なんで今更驚くんだよ」
 知ってたんじゃないのかとレオが呆れている。MZDは肩をすくめるだけだ。
「ま、どういう付き合いになるのかはわからないけど」
 煙草の灰を叩き落としてスギは笑う。
「いい関係が築けるといいね。せっかく知り合えたんだし」
「俺様の見立てに間違いは無い。…………筈」
「いや、そこは断定しとこうよ」
 スギの苦笑いの奥からKKがやって来るのが見えた。しかめっ面で口元を拭い、こちらを遠巻きに眺めるようにして立ち止まると、不意に「じゃあな」と行ってしまおうとする。
「ちょ、帰んの?」
「帰る。飯ご馳走さん」
 MZDはあわててガードレールから飛び下りた。
「な。また遊び来いよ」
 声にKKは足を止めた。こちらを振り返り、値踏みするようにじっとみつめてくる。
「気が向いたらな」
 ちょうど信号で止まったタクシーの窓を叩き、乗り込んでいく。多分次はないんだろうなと思いながらMZDはそれを見送った。
「ちょっと、不思議な人だね」
 ぽつりとスギが呟いた。
「若いんだか歳食ってるんだか、よくわからない感じ」
「……そうだな」
 タクシーはもう見えなくなってしまった。まるで最初から居なかったかのようだ。


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