夕方の新宿駅構内は人でごった返していた。あっちへ向かう人とこっちへ向かう人がぶつかりそうになりながらすれ違い、立ち止まり、時に笑い声や不満の声を上げていた。
 KKはヘッドホンをかぶり直して音量を上げる。うつむきがちに改札口を抜けて階段を昇る。飲食店が集まった通りでは、数人の中年女性が集まって店の前に立ち止まり、ここがいいわよあっちはどお? とでかい声で話をしている。勝手に肉でもなんでも食えよおばちゃん、と胸の内で吐き捨てた時、KKは自分の勘違いに気付いて足を止めた。
 ついいつもの癖で西口に出てしまったが、今日の待ち合わせ場所は東口を指定されていた。車で向かうのにそっちの方が都合がいいという話だった。KKは改札口に向かいかけたが、思い直してまた足を止めた。
 どのみち同じ程度歩く必要があるなら、多少でも外の空気を吸える方がマシだ。地下から屋外へ出る為の階段の前で立ち止まるKKは、まぁしょうがねぇかと肩をすくめ、ゆっくりと階段を上がり始めた。
 人込みと排気ガスと照明のせいで、外は予想以上に暑かった。もう間もなく九月も終わるというのに、なんだろうかこの熱気は。KKは脇道に入り込むとつなぎの上半分を脱ぎ、袖の部分を腰に縛りつけた。
 人の流れのなかに戻ってのろのろと歩道を進む。そして信号を渡り、大ガードを東に抜けようとしたところで、突然音楽が止まった。
 あわてて立ち止まった為に、後ろから来た若い女とぶつかりそうになった。手すりに寄り掛かって荷物を探るKKを睨み付け、憎々しげな表情で通り過ぎていく。てめぇが前見てねぇのが悪ぃんだろ、と後ろ姿を睨み返しながらプレイヤーを取り出すと、充電を促す文字が画面に浮かんでいた。
 KKは舌打ちをして一旦電源を落とした。そうしてまたボタンを押してみたが、残念ながらプレイヤーはきっちりと黙り込んだままだった。
 二度目の舌打ち。
 イライラとヘッドホンをはぎ取り、プレイヤーごと荷物のなかに放り込んだ瞬間だった。ガァン、と、大きな金属のぶつかる音が突然耳に飛び込んできた。
 頭上の高架線を電車が走る音とは違う。KKは音の出所を探して周囲を見回した。見当違いの方向を見守るKKを嘲笑うかのように、背後でまた金属音が鳴り響く。東口の方だ。じっと音の流れを見守るうちに、みつけたのは工事用の防塵シート。
 ビルが建てられているのか、あるいは解体されているのか。
 KKは歩道の手すりに寄り掛かったまま、しばらくのあいだその音に聞き入っていた。
 金属音は一定の間隔で繰り返されている。時折それを邪魔するように頭上を電車が走り、すぐ脇の道路ではクラクションが鳴らされた。対抗するように通行人は声を張り上げ、また電車が通る。
 なにかを叩きつける。音が止まる。もう鳴らないんじゃないかと不安に思った頃再び打ちつけられる。もっと行けと思うが、それは必ず休んでまた鳴り響く。頭の奥のむず痒い、だけど手が届かなくてずっとイライラしていた部分を、金属音は掻き回す。それはもしかすると創造されているのかも知れないが、どうせならぶっ壊してくれよとKKは思う。
 自分の力では成せない破壊音。――いいじゃねぇか、滅茶苦茶にしちまえ。ここら一帯吹き飛ばせ。
「カレシ、ご機嫌だね」
 語尾は電車の音で掻き消された。自分の足元を見下ろしていたので、最初は通行人の話し声だと思った。だけどいつまで経っても左隣にあるなにかの気配がなくならないので、KKは驚いて振り返った。
 濃い色のサングラスの奥で、若い男がこちらに笑いかけていた。
「ね」
 男は同意を求めるように繰り返す。
「……」
 まず目が行ったのは耳にうざいほどくっつけているピアスの数々。乱暴に後ろへ撫でつけられたうざったい茶髪。凶器になりそうなほどごつくてうざいネックレス。目にチカチカと痛くてうざい黒とオレンジの縞のロングTシャツ。ハーフパンツ。ごつい靴。
 うざい。なにもかもがうざったい。っつうか、胡散臭い。
 KKは煙草を取り出しながらゆっくりと視線を戻していった。基本的におかしな奴は刺激しないのが一番だ。立ち去ろうかとも思ったが、まだ例の音は続いている。こんな妙な奴のせいで自主退散というのは納得がいかない。
 無言で煙を吐き出すと、男は焦れたように「ねってば」と繰り返し、肩を揺さぶってきた。KKは腕を払って睨み付けた。男はおどけて、降参とでも言うかのように両手を上げた。
「カレシ暇? 暇だったら遊び行かない?」
 だが少しも臆した様子はない。しかも、こいつホモか? 冗談じゃねぇぞ。
「ナンパだったら女にしろよ」
 うざい。胡散臭い。そして今、気色悪ぃ、が加わった。KKは横目で男を見ながら煙を吐く。思わずぎょっとした。さっきからなにかが変だとは思っていたのだが、それがようやくわかった。
 男は手すりの上に両足で乗り、膝を抱え込むようにしてしゃがんでいる。KKの肩を揺さぶってきた時も、腕を撥ね退けられた時も、手すりの上から転げ落ちそうな姿は一切見せなかった。その神がかり的なバランス感覚だけは褒めてやるからとっとと失せろ、そう思いながら灰を叩き落とした。
「俺、あんたに興味があるんだけど」
 ――こっちは無ぇよ。
 イライラと煙草をふかした時、予期していた音が止まった。KKはハッとして振り返る。防塵シートの隙間を誰かが横切るのが見えた。KKはしばらくその隙間を祈るような気持ちでみつめていたが、残念ながら例の金属音が鳴り響くことは二度となかった。
 終わってしまったようだ。
 KKは急にやる気をなくした。騒がしいばかりの高架下で立ち尽くしているのも、わけのわからない変人の相手をするのも、もう疲れるだけだ。足元にうつむき煙草を落として踏みつけると、そのまま無言で歩き始める。そういえば仕事があるんだった。
「もう行っちゃうの?」
 口を開くのもかったるかった。後ろ手に手を振ってやったのはせめてもの礼儀だ。
「チケット入れといたから。遊び来てね」
 男の声で足を止めた。振り返ると、男は手すりの上に乗ったままこちらに向かって手を振っていた。KKは自分の全身を見回して隙間のありそうな箇所を探した。が、チケットらしきものなど、どこにも見当たらなかった。
 もう一度顔を上げる。
 男の姿は消えていた。どこかを歩いているのかと見渡すが、やはりみつからない。
 ――なんだ、あれ。
 後味の悪さを感じたが無視することに決めた。そうしてゆるやかな秩序に従って進む人の波に呑まれながら、やっぱ俺のが正しいじゃねぇか、とぼんやり思った。
 どんなに気を付けていたって、事故に遭う時は遭う。俺ばっかが悪いわけじゃねぇんだよ。
 車は区役所通りの手前に止まっていた。サイドミラーで姿を確認したらしき助手席の榊が、腕だけを窓から出して振ってくる。KKは車の脇に立つとルーフに片腕を乗せてぐったりともたれかかった。
「あちぃよ」
「ジュースでも買ってくればいいだろう」
 榊は相変わらず涼しげな表情だ。窓から顔を突っ込むと、クーラーの噴き出し口からガソリン臭い風がごうごうと噴出されていた。運転席に座る先輩の柴田は突然思い出したようにシートベルトを外し、ポケットを探って小銭を取り出した。
「じゃあさ、お小遣いあげるからコーヒー買ってきて」
 そう言って小銭を差し出してくる。KKはそれを見て鼻で笑い、
「自分で行ってくれば? なんだったら俺の分も買わせてやるよ」
「昔から使い走りは小僧の役目と決まっててだな」
「誰が小僧だよクソジジィ」
 会話に割り込んできた榊を睨み付けると、柴田がおかしそうに声を上げて笑った。お約束として反抗はしてみせたので、KKは素直に金を受け取った。
「煙草一本吸ってっからね。まだ時間あるでしょ?」
「あるよ。晩飯なに食った?」
「冷やし中華」
 またか、と榊が呆れている。KKは金をポケットに突っ込むと荷物を探って煙草を取り出した。見覚えのない黄色い紙をみつけたのはその時だ。煙草の箱と、それを包むフィルムとのあいだに、二つに折り畳まれた細長い紙が綺麗に差し挟まれている。
 煙草に火を付けておいてから紙を取り出した。なにかのイベントの招待状のようだった。
 ――なんだこれ?
 KKはしげしげとチケットを眺めた。こんなものを突っ込んだ覚えはない。誰かから受け取った覚えすらなかった。――が。
『チケット入れといたから』
 男の陽気な声が耳の奥で甦る。KKは頭を振って、まさかな、と自分の考えを否定した。だが犯人はあの男しか考えられないようだった。
 一度深く煙草を吸い込んだあと、KKはチケットを握り潰して道端に放り投げた。生温い風が吹いてしぶとく足元へと転がってきたのを蹴飛ばして行方を見守る。
 丸まった紙切れは路肩をするすると進んでいき、曲がり角で姿を消した。更なる行方を確かめる気にはなれなかった。


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