足をはたかれてKKは目を醒ました。
陽射し避けにと目深にかぶっていた帽子を取ると、目の前に黒のつなぎを着た三橋が立っていた。首にかけたタオルでアゴから落ちそうになっている汗を拭い、もう一方の手でこちらに缶コーヒーを差し出している。
「時間だぞ」
「んー……」
KKは腕を伸ばしてコーヒーを受け取った。今し方買ってきたばかりなのか、缶はよく冷えていた。フタを開ける前に両目に当てて、ついでに不精髭の残る頬の上へと転がした。そうしてやっとソファーから身を起こす。三橋は向かい側のソファーへと腰を下ろしていた。
壁に掛かる丸時計で確認すると、午後五時半を少し過ぎたところだった。もうちょっと遅い時間に起こしてもらえば良かったなと、缶コーヒーのフタを開けながらKKは思った。
憎き不眠症は相変わらずで、自宅でなければ幾分かはマシになり、更に人の気配があれば熟睡度は増す。仮眠のつもりで昼過ぎにここへ来たが、珍しくぐっすりと眠れた。出来ればもう何時間か眠っていたい。
「お前、死んだみたいに眠ってたな」
揶揄するような呟きに、まだハッキリとは開ききらない目を上げる。三橋は胸ポケットから煙草を取り出して火を付けていた。深々と吸い込んだあとに吐き出された煙を見て、KKはのろのろと自分の体をまさぐり始めた。同じく青いつなぎの胸ポケットを叩き、腰を叩き、それでもみつからなくてあわてて荷物を探る。ようやくみつけたそれを口にくわえようとしたところで、盛大なあくびが洩れた。
「あー、仕事行きたくねー」
三橋は肩をすくめただけでなにも言わなかった。五分刈りの頭を乱暴にタオルで拭いている。程よく日に焼けた肌と、キビキビとした動作の為に若々しい印象を受けるが、実は四十半ばだそうだ。ジィさんもそうだけど、おっさんの年齢ってよくわかんねぇな、とKKはいつも思う。
「今日はもう上がり?」
訊きながら灰を捨てようとすると、三橋が汚れたアルミ製の灰皿を押し出してきた。一応形としてガラス製の立派なヤツも置いてあるのだが、それはきちんとした来客にしか使わせたくないようだ。俺も昔はお客だったんだけどなとちらりと思ったが、とりあえず素直に従うことにした。
吸殻の溜まった灰皿に灰を叩き落として目を上げる。三橋は「まだだ」と首を振ってコーヒーを飲んだ。
「仕事は特にないんだけどな。よそで車検が間に合わないのが何台かあるみたいで、うちでやってくれないかって頼まれたんだよ。それの搬入待ち」
「ふうん」
KKはコーヒーをひと口飲んだあと、窓の外へと目を向けた。細く伸びた雲が夕日を受けてオレンジ色に焼けている。ずっと遠くの方で鳥がはばたくのが見えたが、多分カラスだろう。煙草を吸い込みながら、お前らはとっとと帰れとKKは思う。日が暮れてから出歩いていいのは人間様とコウモリだけだ。
「もうバイクには乗らないのか?」
部屋の隅に置いてある扇風機へと顔を向けながら三橋が訊いた。KKは無言で肩をすくめ返す。
「ずっとさわってないだろ。もうエンジンなんか組めないんじゃないのか」
おかしそうに言って三橋は煙を吐き出した。KKが睨むと、「その目付きはやめろ」とお叱りの言葉が飛んできた。事実だから反論出来ない。
「ジジィから禁止令が出てんすよ」
答えながらKKは力一杯、灰皿の底に煙草を押し付けて火を消した。そこに「ジジィ」、つまり養父であり上司でもある榊の髭面を思い浮かべながら。
「禁止令? なんで」
「二年前の事故で」
そう言うと、三橋は思い出したようだ。ああ、と呟いたあと、なにがおかしいのか小さく吹き出した。KKは片足だけスニーカーを脱ぎ、ソファーに上げて胸に抱え込んだ。三橋はまだ笑っている。
「笑い過ぎっすよ」
不機嫌に呟いてテーブルの足を蹴ると、三橋はようやく笑いを引っ込めた。誤魔化すように咳をして灰を叩き落としている。
「まあでも、親父さんの心配もわかるけどな。お前、車でもやってんだろ」
「入院は一回だけね」
「潰したのは?」
「……三台」
それみろ、というような顔で三橋がこっちを見る。KKはわざとらしく目をそらせながら、それでも禁止令は行き過ぎじゃないのかと内心で反論した。
――タイミングが悪かったんだよな。
二年前の冬、KKはバイクを走らせていて事故を起こした。雨上がりの真夜中、高速道路を猛スピードで南へ向かっている最中の出来事だった。
特に用事があったわけではない。二ヶ月前に手に入れた新車のあちこちをいじったあと、どれだけスピードが出せるのか実験をしていただけだ。
タイミングが、というか、運が悪かっただけだと今でもKKは思っている。あんなところに水溜まりさえなければ俺は今でもチンタラ電車になんざ乗らなくて済むんだ、と。
『運が良かったからお前は生きてるんだろうが』
リハビリを含めて全治五ヶ月の診断を受けたKKを、榊はそう言って叱り飛ばした。実際打ち所が悪ければ死んでいたかも知れないという。勿論手に入れて二ヶ月の新車は即行で廃車となった。
その時、せっかく買ったのに、っつうかリハビリなんざ痛ぇし面倒なだけじゃねぇかやりたくねえー、とぶちぶち文句を言うKKに切れて、榊が車両所持禁止令を出したのだった。今後お前は作業車以外は運転するな、ということらしい。
ちょうど冬休みの時期で掃除仕事が忙しく、どうせだから社員になっちまおうかと榊に話を持ちかけていたのも、怒りに火を注ぐ要因であったようだ。お前が死ぬのも事故るのも勝手だが、周りに迷惑だけはかけるなと懇々と諭す榊の言葉を、KKは窓から見える景色を眺めてやり過ごした。んなこと言ったって、事故る時は事故るもんじゃねぇかと内心で反論しつつ。
「ま、二十歳もとっくに越したんだしな。ちょっとは落ち着いた方がいいぞ」
「……落ち着いてますよ」
「今幾つだっけ?」
「二十二」
「もうそんなになったかぁ」
妙に感慨深げに呟かれてKKはおかしな気分になった。法的に二輪免許を取れる年齢の時からこの整備工場には世話になっているので、確かに長い付き合いだと言える。でもそれは数字の上でそう思うだけで、KKには実感がない。
六年と聞いて、それが人生の何分の一に当たるのか、そしてあとどれだけその数を繰り返せば「おしまい」の日が来るのか。自分の歳を数えるたびに、思うのはそんなことばかりだった。
不意に襲ってきた暗い気持ちからは目をそらしてKKは帽子をかぶった。仕事用の、青いツバ付きの帽子だ。スニーカーに足を突っ込んで煙草とライターを胸ポケットにしまい、荷物を拾って立ち上がる。
「お邪魔さんでした。仕事行ってきます」
「おー頑張ってこいや。――あ、それとな、もし今度来る時は前もって電話くれ。たまたま今日は客が来なかったから良かったけどな」
KKは戸口で足を止めて振り返る。ソファーに座る三橋は普段通りの表情だったが、何故か瞬間的に拒絶されたような気分になった。KKはわけもわからず睨み付けそうになり、あわてて愛想笑いを浮かべると「わかりましたー」と言ってドアを閉めた。
階段をのろのろと下りるあいだに、何度か壁を殴り付けた。誰がなにをぶつけたのか、かつては白だった筈の壁はあちこち汚らしい。
――あのソファー、
幾ら出したら買えるかな、とぼんやり思う。ソファーだけでなくて、あの空間を。自分は居るけど、自分を気に掛けない人達が居るあの部屋を。
階段を下りて外に出る扉の前へ立った時、五千万やるからあそこを売ってくれと言ったら、三橋はどんな顔をするだろうと考えた。呆れるか、怒り出すか。まぁ呆れるんだろうな、そんで本気になんかしてくんねぇんだろうな。暗い気持ちで扉を開けたKKを、夏の名残のむわっとした空気が嘲笑うように出迎えてくれた。
KKの不眠症歴は八年になる。榊と暮らしていた家を出て独り暮らしを始めた時、まるで待ってましたと言わんばかりのタイミングで始まった。
最初は環境が変わったせいだろうと思っていた。馴れれば自然と治まるに違いない、と。だがどれだけ月日を越しても、安らかな眠りを得ることは叶わなかった。
今の仕事を始めるまでは、それでもなんとかなっていた。いや、なっていなかったのだが、たとえば遅刻だの無断欠勤だのが原因でクビになったとしても、別に毎日あくせく働く必要はなかったので結果的になんとかなっていたのだ。KKの本業は人殺しで、基本的な生活費はそこから手に入る。
だが榊が社長を務めるヘルクリーンに入社してからは事情が違った。彼は掃除仕事の上司であるが、同時に殺し屋稼業の親分でもあった。たとえヘルクリーンを辞めたとしても、榊との関係が切れるわけじゃない。そういう意味では二重の監視下にあると言えた。
毎日眠気の醒めない目をこすりながら通勤電車に乗るたびに、なんでこんなに頑張って働いてんだろう、と自分のことが不思議になった。混み合った電車のなかで同じように疲れた顔を見せるほかの人々を眺め回すたび、あんたらなんでそんなに一生懸命になれるわけ? と訊きたくてたまらなかった。
勿論生活の為、という答えがあるに違いない。仕事が面白いから、という答えもあるかも知れない。そのどちらがあっても、KKには納得がいかない。相変わらず生活費の大半は殺し屋稼業で手に入るし、仕事を面白いと思ったことなど一度もない。
掃除仕事をサボらないのは、単に榊の説教がやかましいからだ。そしてこんな風に無理やり引っ張られる形でなければ、きっと自分はとうの昔に辞めていただろうと思う。そういう意味では、義務を押し付けられるのも悪くない気がする。
悪くはないが、いつまで続くのかな、としょっちゅう思う。
KKの毎日は「今日」がずっと続いている。明日というのは現場が変わった『今日」で、昨日というのは現場を終わらせた「今日」だ。来る日も来る日も同じ連中と顔を合わせてくだらない話に愛想笑いを浮かべ、管理人に頭を下げ、眠い目をこすりながら眠れない夜を過ごす。
違うのは、殺した数が増えることだけ。