実際佐久間に囲われるようになってからはまだ一年も経っていないが、初めて顔をあわせたのは一年半ほど前になる。月本が二十歳の誕生日を迎える前の、盛夏の頃だった。
 当時月本はとあるクラブに籍を置いていた。そのクラブは基本的には男性相手に若い男を斡旋する業者で(注文があり、売り子が承諾すれば女性相手にも対応はした)、そこで月本は買われる側として居たのだ。
 自分がゲイだとは思春期の頃からうすうす気付いていた。高校生になり、水野の店に入り浸るようになって――その一画はその筋の連中が集まる場所として有名だった――初めて男と寝た。ようやく十六になった頃だった。
 クラブに入って体を売るようになった理由は、自分でも良くわからない。刺激が欲しかった? まぁ多少はあった。金に困っていた? まぁそれもなくはないけど、決定打ではなかった。
 手っ取り早く寝る相手をみつけるにはいい方法だった。だが向こうは客で、こっちはただの商品だ。やることをやって、終わったら金をもらって、はい、さようなら。それ以上の付き合いが続くことは殆どない。贔屓にしてくれる客は居たが、それだけだった。
 何人か特定の相手と付き合っても長続きはしなかった。狭い業界ゆえか、惚れた腫れたの小競り合いが多く、月本はすぐにうんざりして放り出してしまった。
 自分がなにに飢えているのかわからなかった。なにがあれば満足出来るのか想像もつかなかった。手当たり次第に男と寝ても、残るのは一抹のむなしさばかり。これ、と思い定めることの出来る相手などみつからず、一生こんなふうに流されるままなのかなぁと倦んでいた七月のとある晩、月本は佐久間に出会った。客と商品の間柄だった。
 指定されたホテルの一室で佐久間は酒を飲みながら月本を待っていた。一目でヤクザだとわかった。目付きは血気盛んながら、振り切ることの出来ないしがらみにどこか疲れているような空気があった。四十近いな、少なくとも三十半ばは過ぎてるだろうと思っていたので、あとで実年齢を教えられた時はビックリした。
 風呂に入る、と言ってシャツを脱いだ背中に、唐獅子牡丹の見事な刺青が施されていた。魅入られたように凝視を続ける月本の視線に気付いて佐久間は振り返り、珍しいか? と聞いてきた。月本はうなずき、きれいですね、と答えた。お世辞やおべっかではなかった。
「見たけりゃ好きに見ろ。どうせ減るもんでもねぇしな」
 そう言って佐久間はベッドに腰かけ、好意のままに月本はそれを見た。
 刺青を見るのは初めてではなかった。それまでにも二人ほど墨の入った男を相手にしたことがある。その時はなにも思わなかったのに、何故か佐久間のそれにはひどく惹かれた。
 墨は皮膚の下に入り込み、本来異物でありながら、何故かひどく馴染んで見えた。まるで生まれた時からその絵を背負ってきたかのようだった。
 細かい図柄のあちこちを眺めながら、月本は強い興奮を味わっていた。わずかに喉の渇きを覚え、指先が背中をなぞる感触を「くすぐってぇ」と笑う佐久間の声に、また興奮した。嫌でなければこのまま抱いてくれと月本は頼んだ。汗の匂いも流して欲しくなかった。自身は既にシャワーを浴びていたが、汗でドロドロになるほど滅茶苦茶にして欲しかった。
 商売であるということを、とうに忘れていた。
 その日は二度交わり、真夜中過ぎに解放された。ホテルを出るのが名残惜しいのは初めてだった。
 その後もう一度客として買われ、それから個人的な付き合いが始まった。飲んでいるから出てこないかという誘いが多く、水野の店で偶然はちあわせたこともある。
 気が付くと月本は佐久間との付き合いに夢中になっていた。電話を待ち焦がれる日々が続いた。囲い者にならないかと水を向けられた時、月本は即座に承諾していた。自分の人生に佐久間の姿がないことなどもう考えられなかった。
 そうして今がある。月本は与えられたマンションへ引っ越し、そこから学校へ通い、佐久間の来訪を待った。商売からは足を洗った。佐久間一人が居れば充分だった。「ケガするなよ」と水野に言われた言葉は耳の奥にこびりついていたが、佐久間と一緒に居られるならどんな未来も怖くなかった。
 佐久間が居れば、それで幸せだった。


 ヤクザの新年は一般家庭のそれとあまり変わらない。新年会はそれぞれ催されるが、一年間の活動の総括、若頭の新年へ向けた決意、組長からの訓示などを受ける「事始め」という行事が旧年十二月中に総家で執り行われるので、実際の年末年始は酒をかっくらいながら穏やかに過ごすことになる。
 暇つぶしのアイテムはマージャンだ。
「なんでこんなに負けてるの!?」
 得点表を眺めて月本は茫然と言い放った。住み込みの手下数人と長丁場で続けている勝負で、佐久間は信じられないほど負け越していた。
「今は負けて運を溜めとく時なんだよ。いいから代われ」
 佐久間は気まずそうにそう言うと、席を月本に譲ってトイレへ立った。卓のなかで牌を掻き回しながら「信じらんない」と月本は呟き、向かいに座る萩原が吹き出した。
「それでも、頭(かしら)はここ一番って時には強いですからね。『運を溜めてる』っていうのも、案外本当かも知れませんよ」
「それにしたって限度があると思うんですけど」
 憮然と返しながら月本は手際よく牌を積んでいく。萩原はなにも言わずにただ笑うだけだ。
 この萩原という人物は佐久間の先代から組に勤めている五十に近い歳の男で、組のまとめ役であり、佐久間が最も信頼する相談役でもある。
 先代が病に倒れて呆気なくこの世を去る以前から、跡目を継ぐのは萩原だろうと誰もが思っていたようだ。だが実際にその時が来ると、萩原は「自分は裏方に徹したい、自分以上にふさわしい人が居る」と言って先代の実の息子である佐久間を二代目に推挙したのだという。
 多少の異論もあったらしいが、当時佐久間は組の本家である高田組内部で若衆として頭角を現しつつあり、高田組組長の後押しもあって二代目の就任となったそうだ。
 名実共に一家の立派な主ではあったが、それでもふとした折に「俺ぁただの看板なんだよ」と自嘲気味に呟くことがある。
 二人のあいだに確執があるわけではないし、佐久間との付き合いを続ける上で月本も大変世話になっている人物だ。部外者の踏み込めない領域に、しがらみとでも言うべきものが複雑に絡まりあっていることを肌で感じながらも、この男が居れば月本は安心出来た。
「――なんか、流れが変わりましたね」
 勝負が始まってしばらく経った頃、月本の右隣に座る男が呟いた。もうもうと煙草の煙が立ち込める室内には、あちこちに徳利や空になった丼が転がっている。月本も酒を分けてもらいながら打ち続けていた。
「なんか、誠さんに持ってかれてる気がするんすけど」
「気のせいです」
 月本はにっこりと笑い返してメガネをずり上げる。
 半荘を終了していくらかは取り返した。新たな勝負が始まり、相変わらず月本は黙々と打ち続けている。
「学校の方はいかがですか?」
 左隣に場が変わった萩原が話題を振ってきた。
「まぁ、特に変わったこともないですね。普通に授業受けて、友達と話して…それでも一浪してるせいか、少し肩身は狭いですけど」
「大学だったら一浪二浪は当たり前なんじゃないですかね」
「そうですね。あとは留年しないように気を付けます」
 そう言うと、萩原がまた吹き出した。
「どーだ誠、勝ってるか?」
 不意に障子が開いて和服に着替えた佐久間が姿を現した。さっぱりした顔をしているところから、どうやら風呂を浴びてきたと見える。
「マイナスが大きいから、取り返すのが大変です」
 わざとしかめっ面でそう答えると、「御託はいいんだよ」と不機嫌そうに頭を撫で、脇に座り込んできた。
「結構勝ってんじゃん」
 箱をのぞいて点数を数えた佐久間が嬉しそうに声を上げた。
「まぁまだこれからってとこ――あ、それロン」
「へっ?」
 向かいに座る男が不意を衝かれて顔を上げる。月本は手元の牌を倒して「国士無双です」と、またにこりと言った。
「うぅわ、マジっすか!? しかも親じゃないっすか、勘弁してくださいよー」
 男はばたりと床に倒れ、佐久間は満面の笑みで笑い声を上げる。
「でかした誠、偉い!」
 ぐしゃぐしゃに髪を掻き回されながら月本も笑った。ここに居るとなんでこんなに元気になれるんだろうと思いながら、腹の底から笑った。


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