新年二日の晩から薄く雨が降り出した。
月本は離れにある佐久間の自室で寝泊りを繰り返している。床の間に飾られた大小の刀は、前回泊まった時には見なかったものだ。子供の時からこの部屋なの? と聞くと、「んなわけあるか、バーカ」と一笑された。
佐久間は二人きりになると、少しだけやさしくなる。
毎晩抱き合って眠った。寝間着として与えられた、着古した浴衣の感触にももう慣れた。体温をすぐそばに感じながら、それでも月本は、時として言い様のない不安に襲われる。こんなに近くに居ても、佐久間は当たり前のように心のなかへの侵入を許さない。
もとから口数の少ない人だった。うわついた言葉など決して吐かない人だった。自らの立場もあり、生き様もあり、迷いのない瞳にだからこそ惹かれたのだと思いながらも、それが同時にひどく寂しくてたまらない。
どこまで行ってもこの男のなかに入ることは出来ないのだと、いつも思い知らされる。
「……何時だ」
三日、午前。
先に目を醒ましていた月本は枕辺でそう聞かれた。目を凝らして置時計を眺め、
「十一時半」
「飯の時間っすね」
もぞもぞと腕が伸びてきて月本の体を抱き寄せる。
「僕、トイレ行きたいんだけど」
月本はやんわりと佐久間の腕を押しのけるとメガネをかけて布団を抜けた。寒さに身震いしながらストーブに火をつけ、掘りごたつのスイッチを入れる。芯に火が回り始めたストーブの前で浴衣を脱いで長襦袢を着、長着を羽織る。着物の着方なんてよくわかんないんだよなぁと思いながら適当に帯を締めて障子を開けた。
「うわっ」
廊下に出ようとした足が止まった。ガラス戸越しの中庭は白一色に染まっていた。まだしばらく降り続きそうな気色である。
「あんだよ」
「――見て、すごいよ」
振り向くと、佐久間は布団に寝転がったまま煙草に火をつけているところだった。雪の降り積もる中庭を眺めて「おーおー」と嬉しそうに声を上げた。
「まぁ正月らしくっていいんじゃねえの。とりあえず、そこ閉めろ。寒ぃ」
「はーい」
月本は身をすくませながらトイレへ向かった。
家の者は既に起きているのだろうが、離れのこちらは静かなものだ。トイレと洗顔を済ませて部屋へ戻りながらも、月本は廊下の途中で立ち止まって中庭を眺めた。
手入れの行き届いた中庭には松の木が植えられており、今、積もった雪が支え切れずにかすかな音を立てて落ちていった。雪に隠れてしまっているが、石造りの古い灯籠も建っている。壁際に緑の葉をのぞかせているのはジンチョウゲで、春先にはいい匂いを漂わせるのだと萩原が教えてくれた。
この庭は先代自らが毎朝掃除をして清めていた場所なのだという。
静かな人だった、と誰もが敬虔の念を込めて先代のことを語る。ただ静かなだけで一家を興せるものではないから、その奥に秘められた強さは自分には想像もつかないほどだったのだろう。そうして、きっと学さんは父親似なんだと思って、月本は小さく笑った。
「おはようございます」
声に振り向くと、萩原が盆に徳利を載せて立っていた。後ろには重箱と寿司桶を抱えた若者が控えている。
「おはようございます――って、もうお昼ですね。すいません、こんな時間まで」
「いいじゃないですか、正月なんだから」
そう言って萩原は笑った。笑うと目尻に皺が寄る。「ジジイの証拠」と佐久間が揶揄する笑い皺だ。
「頭、もう起きてます?」
「はい」
月本は先に歩き出して「ご飯だよ」と言いながら部屋の障子を開けた。
「おー、飯っすか。有り難いっすねぇ」
佐久間は既に布団を出てコタツに当たっていた。黒縁メガネの奥で眠そうな目をしながら煙草をふかしている。失礼します、と萩原が言い、続いて若者が部屋へ入ってくる。コタツの上に広げられる重箱の中身を佐久間はうんざりしたようにのぞき込み、
「なんか、正月料理も二日食うと飽きるよなぁ」
「そんなこと言って、学さんなんか殆ど食べない癖に」
コタツに入り込みながら月本が返す。
「俺ぁ酒があればいいんだよ。つまみなんか添え物程度でな」
「本当は体に良くないんですけどね」
萩原も苦笑するしかない。
「先代なんか、ホントに食わなかったもんなぁ」
「そうですね。体に悪いからと言っても全然聞いてくださらなかった。酒で栄養取ってるんだ、なんておっしゃってましたけど…」
「酒に栄養分なんかあるかっつうの」
「だったら学さんもご飯食べなよ」
「うるせぇな、わかったような口利いてんじゃねえや」
佐久間は煙草を灰皿の底に押し付けてもみ消すと、お猪口を手にして萩原から酒を注いでもらう。
「ま、正月なんざ酒びたりで過ごすのが一番だぁな」
そう言って酒を飲み干し、おかしそうに笑った。月本は肩をすくめてお猪口を拾い、同じように萩原から酒を注いでもらった。熱く燗をした日本酒は、一口飲んだだけで全身に心地良く回る。ふう、とため息をついて箸を拾いかけ、
「そうだ萩原さん、すいませんけど帯結んでもらえますか?」
「いいですよ」
月本はコタツを抜けて立ち上がる。萩原は徳利を若者に預けて月本の背後に膝立ちになると、するすると手際よく帯をほどいていった。
「いい加減、覚えろよ」
新しい煙草に火をつけながら佐久間が笑った。
「無理だよ、そんなの。普段着てるわけじゃないんだし」
「今度一揃えくれてやる。テメーの結婚式の時にでも着ろ」
「紋付ですか?」
萩原が吹き出した。
「でもまぁ、浴衣程度なら着慣れておいて損はないでしょうね。女物と違ってそう手間が要るわけでもないですし」
言っている間に、萩原は長着の帯を締めにかかる。その手際のよさは見ていて気持ちがいい。確かに、こんなふうに出来るようになったら格好いいだろうなと月本は思った。
「はい、出来ましたよ」
「ありがとうございます」
新たに締め直された帯を振り返り、なんだか誇らしい気分で月本は笑った。その姿をぼんやりとみつめながら佐久間は萩原たちに軽く手を振る。萩原と若者は失礼しますと口々に呟き、頭を下げて部屋を出ていった。
月本はコタツに足を入れると、あらためて箸を手に取った。
「萩原さんて、いい人だよね」
そう言うと、佐久間は小バカにしたように鼻を鳴らした。
「バーカ、ヤクザにいいも悪ぃもあるかよ。小物みてぇに吠えねえだけで、腹んなかはみんな真っ黒に決まってんだろ」
「学さんも?」
「当たり前だ。組長なんざ、裏の裏まで真っ黒でなきゃやってらんねえよ」
佐久間はそう言うと煙草の灰を叩き落として、ごろりと床に横になった。
「お前だって、いつボロ雑巾みたいに捨てられるかわかんねえしなぁ」
にやにや笑いながらも目だけはひどく醒めている。月本は返す言葉を失って、ごまかすように寿司を口へ放り込んだ。
その言葉が半分以上真実を指しているからこそ、余計なことはなにも言えない。
多分その時が来れば本当になんの未練もなく佐久間は自分を切り捨てるだろう。それが怖くないと言えばウソだった。けれどそのことについてはこれまでに何度も考えてきたし、それでも離れられないからこそ、今ここに居る。
「お寿司食べない? 美味しいよ」
佐久間のお猪口に酒を注いでやりながら月本は言う。佐久間はしばらく月本の顔をみつめたままなにかを考え込んでいたが、やがて煙草をもみ消すと「ホタテ」と素っ気無く言い放った。
寿司を手でつまむと、醤油をつけて佐久間の口に差し出した。指に米粒がついているのを見て手を引っ込めようとすると、不意に手首をつかまれた。そのまま舌で指をねぶられ、月本は思わず笑い声を洩らしてしまう。
「くすぐったい」
甘えるような声に、佐久間の瞳もおかしそうに笑っている。
いつか捨てられる時が来るとしても、だからこそこの平穏を覚えていようと月本は思う。たとえ今が嵐の前の静けさであっても、それが幸福であることに変わりはない。
二人の不安を覆い隠そうとするかのように、雪は静かに降り続いている。
雪ノ下/2005.03.19