「友達帰っちゃったみたいだけど、いいの?」
「あーあーあー、いいのいいの、あいつらこれからお楽しみなんだから」
「あぶれちゃったんだ」
「そゆこと」
 男はにやにやと締まりのない笑いを口元に浮かべながら、おどけたようにうなずいた。
「最近ずっとツイてなくってさぁ。付き合ってた奴には浮気されるし、財布は落とすし、バイトはクビになるしで、もーね、飲まなきゃやってられませんよぉ」
「で、そんなに酔っ払ってるわけだ」
「そ。でもまぁ、お兄さんみたいな人に会えたのが唯一の慰めだよねえ」
「駄目だよ。この人、お手付きだから」
 いなすような水野の言葉に男は顔を上げ、それから月本に振り向き、「そんなの関係ねーじゃん」と言い放った。
「恋愛は自由だもん、ねえ?」
「まあ、一応はね」
 月本も苦笑するしかなかった。適当に相手をしてやれば、きっとそのうちあきらめて帰るに違いない。どうせ時間はいくらでもあるのだ。暇つぶしに付き合ってやろう。
「お兄さん、なにしてる人なの」
「学生だよ。大学生」
「へー、どこの大学?」
「それは内緒。地方の有名じゃない大学。言っても知らないよ、きっと」
「でもすごいよねー、大学行ってるんだぁ、頭いいんだね。メガネしてるし、インテリって感じ」
「そんなことないよ」
 そんなことあるよ、と男は返し、「俺、頭のいい人って、好きだなぁ」とわざとらしく呟いた。
「ねえ、どっか遊び行かない?」
「それは駄目。人と待ち合わせしてるから」
「でもずっと来ないじゃん。すっぽかされたんじゃないの?」
「来るよ、絶対」
 やけに自信たっぷりな月本の言葉に、男は一瞬だけ興醒めしたような表情を見せた。それでもすぐに気を取り直して「腹減ってない?」と聞いてきた。
「俺がおごるからさ、なんか食いに行こうよ。いい店知ってるんだ」
「良く知らない人と食事するの、苦手なんだ」
 これは本心だった。最近はそれでもだいぶ砕けてきてはいるが、どんなに美味い料理を出されても、初対面の相手が目の前に居ると味など全然わからないまま腹におさまってしまう。
「じゃあとりあえず自己紹介ね、俺ミツルっていうの。二十五歳」
「ウソつけ」
 どう見ても二十一の自分より年下だ。あからさまなウソがおかしくてつい笑ってしまう。ミツルはその笑い顔をぼけーっとした表情でみつめ、不意に真顔に戻った。
「俺、お兄さんのこと好きになっちゃったかも」
「それは、どうも」
 水野の「お手付きだ」という言葉などとうに忘れているような顔つきだった。こんなところを見られるのはいささかまずい。どうにかして追い払わないとなぁと月本が考えていると、ミツルがそっと指を握ってきた。
「ね、どっか二人っきりになれるとこ行かない?」
「直球勝負の人だね、ミツル君は」
「それが持ち味なもんで」
 そう言ってくすくすと笑う。その奥で水野が「いらっしゃいませー」と声を上げるのが聞こえた。
「…行ってもいいけど、ちょっと問題があるんだよなあ」
 月本が目を伏せて呟くと、ミツルは身を乗り出して「なになに?」と聞いてきた。
「俺に出来ることだったら協力するよ」
「ホントに?」
「ホント、ホント。お兄さんの為ならなんでもしちゃう」
「――じゃあ、その人倒せる?」
 え? とミツルが振り向こうとした瞬間だった。ミツルの背後から手が伸びて、彼の茶色の髪の毛をわしづかみにした。
「お兄ちゃんよお、誰のもんに粉かけてんのかわかってんのか、ああ?」
 ひどく低い声がミツルの耳元でささやいた。髪の毛をつかまれ身動きのままならない状態で、それでもミツルは目だけを動かして声の主を見た。
 黒縁メガネに眼光鋭く釣り上がった目、睨みを効かせる為にわざと顔を近付けているので、男が丸坊主なのもわかった。ミツルはあわてて月本の指から手を放すと立ち上がった。
「勝負するってんなら受けて立つぞ、こら」
「いや、あの、…すいません、あの、そんなつもりじゃ、」
「そんなつもりって、どんなつもりだったんだよ坊主、言ってみろや」
「いや、その、すいません、僕帰ります、あの、帰りますんでっ」
 ミツルは一瞬にして酔いから醒めた顔をしている。それはまあ、そうだろう。ここまでされてそれでも反抗出来るのは、ただの命知らずな酔っ払いか、さもなくば――ただのバカだ。
「放してあげなよ。いいじゃん、別になにされたわけでもないんだからさぁ」
 月本は呆れたようにそう言ってグラスの酒を飲んだ。水野は立場上、なにも言えないままひきつった顔でカウンターの奥の方へと移動していた。店のなかは水を打ったように静まり返っている。かすかに流れる有線だけが、まるで場違いに元気だった。
「坊主、帰んのか」
「はいっ、帰りますっ、即行で帰ります!」
「そうか。まぁ帰る前に礼儀教えてもらっとけや」
 入口付近に立っていたスーツ姿の男が、無言でミツルの腕を乱暴につかんだ。ミツルは声にならない悲鳴をあげ、「すいません、すいませんっ」と繰り返しながら店の外へと連れ出されていった。
「すいませんね、お騒がせしまして。まあ、気にせず飲んでくださいや」
 店の客に向かってそう笑顔を振りまくと、黒縁メガネの男は月本の隣の席にどっかりと腰をおろした。
「悪かったな、マスター」
「いえ」
 おしぼりを差し出す水野の表情は既に通常のものに戻っている。この程度のいざこざは慣れっこなのだろう。
「っつうか、あんなガキ相手にしてんじゃねえよ」
「向こうが話しかけてきたんだよ。だいたい学さんが遅いから変なのに声かけられるんじゃん」
「テメ…そういうかわいげのねぇこと言うのはこの口か、あ?」
 男は月本の口をつねって軽く揺さぶる。「痛い、痛い」と月本が悲鳴をあげると、男は笑って手を放し、乱暴に頭を撫でてきた。
「ちっと打ち合わせが長引いてな。すんませんでした」
「――すっごいお腹空いたっ」
「わぁったよ。なんか食いに行こうぜ。とりあえず一杯だけ飲ませろ」
 そう言って男は水野に酒を頼み、煙草とライターをカウンターに置いた。男が煙草を引き出して口にくわえると、月本はライターを拾い上げて火をつける。苦い紫煙が広がり、その香りを嗅ぎながら、この人の匂いだよなぁと月本はぼんやり考えていた。
 高田一家佐久間組二代目組長、佐久間学。それがこの男の正体だ。歳は三十一。先代が病に倒れ、組を継いだのは三年前だという。
 月本は男ながらに愛人という立場で、佐久間組の縄張りである神奈川県内にマンションをあてがわれて囲われている。ほかにももう一人女の愛人が居るという話だが、実際に会ったことはないし興味もない。どうせそのうち飽きて捨てられるに違いないと思いながらも、まだ一年にも満たないこの付き合いが月本には大事でたまらなかった。
「ね、荷物なにも持ってきてないけど、ホントにいいの?」
「構わねえよ。下着ぐれぇそこらで買やぁいいだろ」
「そうだけど」
 月本は照れたように返して酒を飲んだ。
 今日これから佐久間の本宅へ行って、そのまま年越しをする予定なのだ。月本の方からの頼みごとだった。
 身寄りの少ない母子家庭で育った月本は、法事の集まりのような「血族の集い」に飢えていた。本宅には若い衆が弾除けを兼ねて五人ほど住み込んでおり、ほかにも先代の女房(佐久間の実母)や世話役が同じ屋根の下で暮らしている。そんなにぎやかななかで年越しをしてみたい――二度ほど本宅に泊まった際、月本が描いたささやかな夢だった。
「そういやぁお前、マージャン出来るか?」
 唐突に佐久間が聞いた。
「一応出来るよ。そんなに上手くないけど。計算も出来ないし」
「計算は別にいいけどよ。役はわかんのか」
「わかる」
「上等」
 何故か嬉しそうに佐久間が頭を撫でてきた。わけを聞こうとして月本は口をつぐむ。わずらわしい話は避けた方が好まれる。一線を画し、「ただの愛人」である身分を守る為の手段だ。
 グラスの底に残った酒をちびちびと片付けていると、佐久間は煙草をもみ消して一気に酒をあおり、立ち上がった。
「行くぞ」
「はい」
 札入れから万券を二枚取り出してカウンターに置き、「ごっそさん」と呟いて佐久間は手を上げる。
「ありがとうございました」
「マスター、ごちそうさま」
「良いお年を」
 水野は最後に笑って送り出してくれた。
「あに食いてえ?」
 店を出ると凍えるほど冷たい風が吹きつけてくる。階段を昇り、少し離れた場所に止めてある車に向かいながら肩を抱かれ、
「中華がいいなー。満天楼行こうよ」
 腰に手をかけ返す月本の心は、寒波などものにならないほどに温かい。


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