凍てついた空気のなかを、身をすくめながら月本は歩いている。
おだやかに始まった冬は年末間近の今日になっていきなり寒波が到来した。なんで出かける日に限ってこんな天気なのかな、と内心愚痴りつつこぶしでメガネをずり上げ、コートのポケットに手を戻しながら交差点で立ち止まった。
クリスマスの時期を過ぎて、街は既に新年を迎える準備を終わらせつつある。日本人なんて現金なものだよなと思いながら、そういう自分も、街中に立っていればどこか気分が高揚してくるのを抑えられない。
新しい年は心が改まる。特に今度の年越しは。
交差点を渡り、表通りから脇道に足を踏み入れた。そこは歓楽街で古びた雑居ビルにバーやスナックが軒を並べている。道路には呼び込みの男が黒いコートを羽織って寒そうに、そして退屈そうに立っていた。
宴会のあとなのか酔っ払ったサラリーマン二人組が肩を組んで歩き、目に反射するピンク色の看板に吸い寄せられるようにして店のなかへと消えていった。見ている方が寒くなりそうなほどに丈の短いスカートをはいた若い女が、ホスト風の男と腕を組んで道を急いでいる。そのあとを追うようにして月本も道の奥へと急ぎ、更に途中の裏道へと入り込んだ。
とたんに、静寂が訪れる。
街灯はほかと同じように点いているが、表通りのようにきらびやかな看板はこの道には存在しない。ビルの脇にかかる白地の看板に、それぞれつつましい文字で店の名前が描かれているだけだ。
とあるビルの入口に顔見知りの男が立っていた。月本は軽く手を上げて挨拶の代わりとし、「久し振りだね」と笑いかけられて立ち止まった。
「最近、ご無沙汰だったみたいだけど」
「学校に通うのに忙しくってさ」
「ウソつけ、不良学生が」
男はそう言って笑いながら、隠すようにして持っていた煙草の灰を叩き落とした。鼻の奥に抜けるメンソールの香りがなんとなく懐かしい。月本は拝むようにして煙草を一本せがみ、火をつけてもらった。久し振りに吸い込んだ煙草の煙に、頭の奥がしびれるような感じがあった。
「こんなところでなにしてるの?」
今更のように月本は聞いた。
「開店準備に来たんだけどさ」
男はそう言って表情を曇らせる。
「店長が常連の若いの連れ込んでて、追い出された」
「あらら」
「もうじき終わると思うんだけど」
「まざってくれば?」
「やだよ」
店長の太鼓腹も嫌いだし、ねんねの相手も嫌だと言う。この業界に長く居座っている男で百戦錬磨の風格がありながらも、恋人にはひどく甘く、ものすごい寂しがり屋であることを月本は知っている。過去にほんの一時期付き合っていたことのある相手だ。ごつごつと骨ばった手が煙草を口元へ運ぶ仕種に、ふと郷愁のようなものを覚えてあわてて目をそらした。
「彼と待ち合わせ?」
男は訳知り顔でからかうようにそう聞いてきた。不意を衝かれた月本は咄嗟に返す言葉を失い、もごもごと口ごもりながら小さくうなずいた。
「知ってたんだ」
「そりゃウワサが飛ぶのは早いですから」
そう言って苦笑した。
「ま、飽きたらたまには相手してくれよ。こんなおっさんで良けりゃあな」
男はそう言うと煙草を道へと跳ね飛ばし、月本の首に腕をかけると抱き寄せて頬にキスをした。ざらついた唇が触れ、舌先で舐められる感触がくすぐったくて月本は笑い声を上げる。ビルのエレベーターへと向かって歩き出した男に手を上げて再び道に出た。
今更ながら寒さに身震いする。一度大きく吸い込み、煙を吐き出しながら煙草を投げ捨てた。あの男と付き合ったお陰で煙草を覚え、別れたお陰で煙草をやめた。ニコチン中毒にならずに済んだのは、付き合った期間が二ヶ月という、本当に短いものだったからだろう。そんなことをぼんやりと考えながら月本はとあるビルの地下へと続く階段に足を踏み入れた。
階段のどん詰まりに木製の扉がある。肩で寄りかかり、体重をかけて扉を押し開けると、空圧によって凍てついた空気が店のなかへと入り込むのがわかった。奥の方から「いらっしゃいませー」と簡素な声が聞こえ、懐かしさに月本はふと笑みを洩らした。
「こんばんはー」
コートを脱ぎながら月本はカウンターに歩み寄った。なかに立つ店のマスターが、月本の顔を確認して包丁を持ったまま固まった。
「こりゃ珍しいお客さんだ」
「へへー、久し振り」
店はさほど広くない。五人掛けのカウンター、三人が肩を寄せ合って座るのが限度のテーブル席が三つ。今は奥のテーブルに三人組が腰をおろし、時折卑猥な笑い声を上げていた。カウンターには孤高を決め込んだ見ず知らずの中年男性が座っている。月本はカウンターで壁際に腰をおろして、差し出されたおしぼりを受け取った。
「最近お見限りでしたけど、まだ忘れられてはいなかったみたいですね」
「そういう意地悪言うなよぉ」
おしぼりで手を拭きながら月本は拗ねたような表情をしてみせる。マスターはくすくすと笑いを洩らして水割りでいいかと聞いてきた。
この界隈に飛び込んで、初めて訪れたのがこの店だった。正真正銘子供だった自分を心配してあれこれと相談に乗ってくれ、時には叱り飛ばしてくれたのがこの水野というマスターだ。とうに四十路を過ぎ、下手をすれば親子とも言い得るほど歳は離れているが、月本にとっては兄のように近しい存在である。
親しくなってからずっと憧れはあったが、一線を越えたことは一度もない。その毅然とした態度が寂しくもあり、同時にだからこそ安心して甘えられる部分もあった。
「それにしてもホントに珍しいな。最近じゃ全然姿見かけなかったみたいだけど、どういう風の吹き回しだよ」
「ちょっと待ち合わせ。こっちの方で仕事があるっていうから、買い物ついでに拾ってもらうことにしたんだ」
「そう言うわりには空手じゃないですか。なにも買わなかったのか?」
「買ったよ。本」
そう言って月本は、壁にかけたコートのポケットから文庫本を引っぱり出した。
「服とかも見たんだけど、なんかいまいちでねぇ」
「――まだあの人と続いてんのか」
妙に冷静な口調でそう聞かれ、月本はなんとなくだが悪さを咎められたような気分になった。小さくうなずき、「でもやさしい人だよ」と言い訳をするように言葉を続けた。
「別に小言言うつもりはないさ」
水野は苦笑しながら酒の入ったグラスをカウンターに置いた。
「誰と付き合おうとお前の自由だしな。お前が幸せならそれでいいんだ」
「……」
「ただ、まあ、ちょっと特殊な業界の人だしな。危ないことに巻き込まれなきゃいいとは思うんだけど」
「大丈夫だよ」
そういう意味では全くといっていいほど蚊帳の外に置かれている。どうしたって踏み込むことの出来ない線引きが、既にきちんとなされている。それをわざわざ説明するつもりもないが、水野の気遣いは嬉しかった。月本はグラスを口へ運びながらぽつりと、ありがと、と呟いた。
テーブル席の客へ料理を運んだあと、腹は減ってないかと聞かれてサンドイッチを頼んだ。「マスターのサンドイッチ、久し振りだー」などと最初は呑気に過ごしていたのだが、カウンターに居た中年の男性が帰り、新たに二人組の客がやって来て、続いて一見の客がカウンターについてもまだ待ち人は現れなかった。もともと大まかにしか時間を決めていなかったから多少待たされることは覚悟していたが、それにしても遅い。
奥に陣取っていたテーブル席の客も帰ってしまった。月本はあくびを洩らして、本を閉じると水野に新しく酒を頼んだ。
「店の場所がわからない――ってことはないよな」
「ないよ」
そんなことは有り得ない。そもそもこの店は彼のシマなのだから。
「マスター、ビールちょうだい」
不意に月本の肩にもたれかかるようにしながら見知らぬ男が顔を出した。酒臭い匂いに眉をひそめて身を引くと、男は明らかに酔った目付きでじっと月本をみつめ、にやにや笑いながら隣の席に腰をおろしてきた。確か先に店で飲んでいたテーブル席の客だ。てっきり帰ったと思っていたのが、一人だけ残っていたらしい。
「お兄さん、一人?」
苦い表情の水野からビールのグラスを受け取って男がそう聞いた。
「誰かと一緒みたいに見える?」
「見えない。だから声かけた」
男はそう言ってけらけらと笑い、グラスのビールを三分の一ほど飲み干した。既に充分出来上がっている様子だ。関わり合いになるのはよそうと月本は決め、そっぽを向くと本のページを開き直した。
「なに読んでるの」
男は月本の手を捕らえて表紙に戻らせようとする。髪の毛は茶色く染められており、左の耳にだけ二つほどピアスをつけている。まだ若い。下手をすれば十代――自分よりも年下だ。月本はムッとしながらも、こんな乱酔状態の人間になにを言っても無駄だと思い、あきらめて素直に本を閉じた。