「怖い人じゃないから安心してください。昔は出入りだなんだって凄かったそうですけど、今じゃ気のいいご老人です」
「萩原さんはよくご存知の方なんですよね」
「先代の兄分ですからね。私もずいぶん叱られました」
 そう言って萩原は楽しそうに笑う。
 ヤクザが存続を認められているのはそれが必要悪だからであり、出来る限り関わり合いにならない方がいい種類の人間だとわかっていても、萩原のような笑いには惹かれてしまう。通常では垣間見ることの出来ない本音同士のぶつかり合いがそこにはあり、一度獲得した信頼はどんな岩よりも硬い。
 その為の腹の探り合いは相当なものなのだろうが、一人でもいいからそんなふうに誰かに――佐久間に――絶大的に認められてみたいと、月本は思う。
 連れていかれた店は会員制のクラブだった。接待の二次会にでも使われそうな、落ち着いた雰囲気の店である。それぞれ五六人ほどが座れそうなソファーでボックス席となっており、その一番奥の席で林が待っているようだった。時間が早いせいか客の姿は組関係者以外殆ど見られない。
 席の手前に若者が張り番として立っていた。萩原は「ご苦労さんです」と頭を下げられて素通り出来たが、月本は止められてボディチェックを受けた。まぁ仕方ないかと軽く手を上げて背中を向けたとたん、
「バカ野郎、客人になに失礼なことしてやがんだ!」
 床が振れるのではないかと思うほどの怒声が響き渡った。あまりの声の大きさに驚いて、月本は思わず悲鳴を洩らしてしまった。
 恐れおののきながら振り返ると、和服に羽織姿の背高の老人が立ち上がってこちらを睨みつけていた。若者は月本の体から離れると急にかしこまった様子で深々と頭を下げた。
「失礼いたしやした」
「いえ」
 月本は小さく答えて老人の前へ歩み出た。老人は深々と頭を垂れ、
「うちの若ぇのがとんだご無礼をいたしやして、大変申し訳ありやせん」
「いえ、お気になさらないでください」
 月本は気おくれしながらそう返す。
「申し遅れました、高田組のまとめをしております、林義治と申します。以後、どうぞお見知り置きを」
「月本誠です。お会い出来て光栄です」
 二人は互いに頭を下げあって席に入った。林はこの世代の人間にしては背が高く、百七十はありそうだった。かくしゃくとした姿が現役としての威厳を感じさせる。席には萩原と同年代の男が控えていた。男は佐野と名乗り、高田組の幹部だと林が紹介してくれた。
「悪知恵をひねり出すのが仕事です」
 佐野はそう言っていたずらっ子のようににやりと笑う。
「そういやぁ佐久間はどうしたい」
 グラスを拾い上げながら林が萩原に聞いた。
「それが、どうしても抜けられない用事がありまして…」
「んだよ、あの野郎も意地っ張りだいなぁ」
 そう言って林が笑うと、萩原も苦笑するように口元をほころばせた。それで気付いたのだが、どうやら佐久間はわざと同席しなかったらしい。目の前で自分の囲っている人間をあれこれ評価されるのが嫌だったのか、それ以上にからかわれるのが嫌だったのかはわからないが、まぁあの男であれば納得はいく。月本もつられて苦笑し、佐野からグラスを受け取った。
「あいつも、根は悪い奴じゃねえんですが、どうにもごうつくばりでね。まぁそれだけ気骨があるってことなんですがね。苦労してるんじゃありやせんか」
「そんなことないですよ。佐久間さんにはホントに良くしていただいてもらってます」
 マンションを買い与えられ、生活の費用どころか学費の面倒まで見てもらっている。母親は相変わらず仕送りをしてくれているが、その金は全て貯金してあった。さすがに理由を話すわけにはいかないが、近い将来、少しずつでも返していこうと今から決めていた。
「佐久間さんは頼もしい兄という感じですし、あの歳で組をまとめ上げて…本当に、すごいなって、尊敬してます」
「まぁ萩原みてぇに優秀な幹部のお陰でしょうがね」
 そう言いながらも、子飼いの部下を褒められて林はご満悦といった感じだ。
 そんなふうに酒の席は終始なごやかな雰囲気で、店へ着くまであれほど不安がっていたのがバカらしくなるほどだった。そうしていい感じに場がくだけた頃、林がぽつりと言った。
「悪口言うようで申し訳ねぇんですがね、実は今日はどんなナヨナヨしたお兄ちゃんが来るんだろうって思ってたんですよ。その…男で囲われ者って考えりゃあ、思い付くのは、やっぱりそういう感じでして」
「わかります」
 実際そんな風な者も居るし、林の認識はある程度間違っていない。月本は静かに笑ってみせた。
「ところが話してみりゃあ立派なお方だ。そうすると今度は、なんで組で取り立てねぇのかが不思議になる」
「組には絶対に入れないって釘刺されてますから」
「そうじゃねえんすよ、いやまあ、大事にしてぇってことなんでしょうがね」
 林は酔いの回った目を月本に据えて小さく笑った。
「お宅さん、ここがきれい過ぎる」
 そう言って林は、自分の胸をトントンと指で叩いてみせた。
「正直言うと佐久間にゃあもったいない。あの野郎がなんかしでかしたらあっしに言ってくださいよ。たんまり絞ってやりますから」
「覚えておきます」
 月本は笑いながらグラスを口に運んだ。
「まぁでも、お宅さんにしか見せられねぇ顔ってのもあるでしょうしね。まだまだガキで世話ぁかけますが、あいつのこと、よろしく支えてやってくだせぇ」
「――はい」
 林が頭を下げるのを見て、月本もグラスをテーブルに戻し、居住まいを正して礼を返した。萩原や佐野までもが静かに笑いながら目礼をしている。佐久間がどれほど見込まれた男であるのかをあらためて知り、その父親的存在に認められたことが嬉しくてたまらなかった。
 やがて宴席は終わりを迎え、エレベーターまで一同に見送られて月本と萩原は店を出た。外へ出ると春先の少し冷えた空気に包まれて、それが火照った体に心地良かった。
「ご苦労さんでした」
 萩原にそう笑いかけられ、月本は満面の笑みを返す。
「まっすぐご自宅でよろしいですか」
「…ちょっと、どこかでコーヒー飲んで落ち着きたいんですけど、いいですか?」
「構いませんよ。行きましょう」
 車に乗り込んだ月本は、あらためて大きなため息をついた。
「高田組が大きい組織だっていう理由が、よくわかりました」
 そう言うと、萩原はなにも言わないまま嬉しそうに笑い返した。


 マンションのドアを開けると居間の明かりが見えた。消し忘れたかなと思いながら月本が部屋へ上がると、佐久間がにやにや笑いながら「よう」とソファーで手を上げていた。
「来てたんだ、学さん。いらっしゃーい」
 月本はソファーの後ろから佐久間の首に抱きついた。佐久間はその腕を引っぱって月本を自分の隣に座らせる。そうして髪を梳き、
「どうだったよ、うちの親父さんは」
「すっごいいい人だった。学さんが惚れ込んだのもよくわかった」
「やさしくしてもらったか?」
 佐久間はそう言いながら月本のメガネを外す。なんとなく言外に含まれた不穏な空気を察して月本は「え?」と聞き返したが、佐久間はなにも答えずに唇を重ねてくる。そうしてジャケットを脱がされ、佐久間の手がシャツのボタンを外していくあいだも、ちらちらとなにかを観察するような視線が気になって月本はわずかに身をよけた。
「え? …ね、なんか怒ってる?」
「別に」
 テーブルに酒の道具は揃っているが、さほど酔っ払っているというわけでもなさそうだ。首筋を吸われて小さく声を上げ、軽く抱きついたとたん、手を払われるようにして乱暴にソファーに押し倒された。佐久間はのしかかっておきながら、なにもせずにじっとこちらを見下ろしてくる。
「…どうしたの、なにかあった? あ、このあいだの話が、まだ――」
「あれでしたら上手くカタぁつきましたよ。誠さんのお陰でな」
「僕のお陰って…?」
 佐久間はなにも答えない。胸に舌を這わせ、わずらわしげにシャツをめくり上げるばかりだ。
「ん…っ、…ぁっ、」
 ベルトを外しただけで無理やり下着のなかへ手がねじ込まれた。ものをつかまれて月本は身を震わせ、やわやわと刺激されるにつれて小さく声を洩らしてしまう。佐久間は身をもたげてその様子をじっと眺めていた。突き放すような冷たい視線に耐えられず月本は顔をそむけ、そうしながらも刺激は止まず、手で口を押さえながらもこらえきれない悲鳴は居間に響いている。
「親父にその声聞かせてくれたお陰でよ、話は上手くまとまりましたんですよ」
「なに言って…んっ、ん…!」
「とぼけんじゃねえや、ヤってきたんだろ?」
 そう言うと佐久間は乱暴に髪をつかんでソファーに月本の頭を叩きつけた。
「親父のモンくわえて、その声で鳴いてきたんだろって聞いてんだよっ」
「――してないってば…っ!」
 叫び返した瞬間、はからずも涙がこぼれ落ちた。林に頭を下げられた時の誇らしい気持ちと、目の前で佐久間が見せる怒りとが上手くかみ合わず、こらえようとするのに涙はとめどなく流れ続けた。
「も、なんで…そんな怒るんなら連れてかなきゃ良かっただろ。学さんが言うから行ったのにさぁ」
「……」
「お酒飲んで話しただけだよ、ホントだよ…っ」
 喋るあいだも嗚咽は止まない。やがてどうしようもなくなって口に手を当てたまま月本は泣き始めた。組関係の「血族」とは違って、自分のような人間は信頼するに値しないのだということが悲しくてたまらなかった。囲われて一年以上が経ち、佐久間も自分を必要としていると思っていただけに、この仕打ちにはひどく打ちのめされた。
 佐久間は動きを止めてじっとこちらを見下ろしていた。やがて身を引くと、背もたれにかけてあった上着を拾い上げて玄関を出て行った。月本は身を起こし、しゃくり上げてまた涙を落とす。
 やおらクッションをつかみ上げると玄関方向に向かって思いっきり投げつけた。そうしてソファーの上でうずくまったまま、しばらくのあいだ泣き続けた。


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