それからひと月近く、佐久間からの連絡はなかった。
 捨てられたのかな、とは思うが、相変わらず生活費は振り込まれているので、どうにもはっきりしない。ただ、今まではどんなに忙しくとも週に一度は姿を見せていたので、それがなくなったのだから切られたのだと考えるしかないだろう。
 五月も半ば過ぎ。緑の美しい外界とは対照的に、月本の心は重く沈んでいる。
 電話でもかけてみようかと思うが、冷たくあしらわれるのが怖くて、なかなかこちらから行動に出ることは出来なかった。もしかしたら明日には電話があるかも知れない、そう思い続けて、結局こんなに経ってしまった。
 こんな生殺しのような状態は辛くてたまらない。終わりなら終わりだときっぱり告げられた方が納得がいく。そう思い、ある日月本は意を決して組事務所へ向かった。
 ――どうせただの囲われ者だ。
 いつか佐久間が語ったように、ボロ雑巾のように捨てられるのが自分にはお似合いだ。
 事務所は古びたビルの二階にある。すぐ脇に駐車場があって、ひと目でそれとわかる黒塗りのベンツが二台止まっている。日がさんさんと降り注ぐなかで、いかにもなチンピラ風情の若者が車を磨いていた。月本が通りかかると無遠慮にこちらを睨みつけてくる。最近入った人なんだなと思いながら月本は事務所のビルのはす向かいで立ち止まり、大きな窓を見上げた。
 日除けの為にブラインドが下ろされていた。目を凝らしても、わずかな隙間の向こうを透かし見ることは叶わない。月本は足元へ視線を落とし、小さくため息をつくと、行こう、と自分に言い聞かせた。――とたん、
「うちの組になんか用かよ」
 車を磨いていた若者がそう言いながらこちらに歩いてきた。
「あ、えと、佐久間さんに…」
「組長に? オメーみてぇのがなんの用事だ」
「それは、その――」
 月本が言い淀んでいると、若者はなにを理解したのかポンと手を打ち、「入門希望か」と嬉しそうに言った。
「は? え、あの、違います、そうじゃなくって、」
「なぁんだ、そうならそうと早く言えよ。なに、遠慮すんなって、俺が紹介してやっからついてこいよ」
「いや、あの、あのぉ」
 咄嗟に上手い説明の言葉がみつからず、若者に腕を取られたまま月本は引きずられるようにしてビルのなかへと入っていった。
「まあうちの組長なら、オメーみてぇのが惚れるのもわからねぇでもねえけどよ、やっぱこの業界は上下関係が厳しいからな。いきなり行ったって話なんざぁ出来ねえぜ? ガタイはいいから弾除けにゃあちょうどいいけどよ。ま、オメーがどうしてもって言うんなら、俺が舎弟にしてやってもいいけどな」
 若者は嬉々として喋り続けている。月本は、はぁ、としか答えられないがそれでも満足そうだ。そうして階段を上がり、若者が事務所の扉を開けるのにつられてなかへ足を踏み入れた。
「代行ぉ、新入り連れてまいりやしたぁ」
 若者がそう告げると、パーテーションで隔てられた辺りから「新入りだぁ?」という萩原のわずらわしそうな声が聞こえた。
「誠さん…!」
「お久し振りです」
 月本も笑うしかない。
「あれ? お知り合いで?」
 若者一人ばかりが状況を読めずにきょろきょろと首を動かしている。
「バカ野郎、このお方ぁ組長の大事なお身内さんだっ」
「へっ? 弟さんかなんかですかい?」
「このバカっ、いいからとっとと茶でも淹れてこいっ!」
「へ、へいっ」
 若者はあわてて頭を下げると台所へすっ飛んでいった。
「どうも申し訳ありませんでした。あとできつく叱っておきますんで、どうかご勘弁のほどを」
「いいんですよ、気にしないでください」
 珍しく事務所のなかは閑散としていた。顔見知りの若衆二人が置物の壷やなにかを掃除しているが、どん詰まりにある佐久間の机は当然のように空だった。月本は応接セットのソファーを勧められて腰をおろし、遠慮がちに「学さんは…」と尋ねた。
「それが、ほかの組の接待受けて、少し遠出しておりまして」
「そうなんですか」
 安堵半分、残念さ半分といった感じで月本は息をついた。
「しばらく顔見てないからどうしてるか気にはしてたんですけど、まぁ元気なら…」
「そういう誠さんは、元気なさげですね」
「…ちょっと、ケンカしちゃいまして」
 考えてみれば理不尽なケンカではあるのだが、そうとしか言いようがない。月本は困ったように笑ったまま、続けるべき言葉をみつけられずにいた。やがて先程の若者が茶を持ってきてくれたが手をつける気にはなれなかった。萩原は事情を知っているのかいないのか、特になにを言うでもなくじっと黙り込んでいる。
 そうして、居座っていては迷惑になると思い立ち上がりかけた時だ。時計に目をやった萩原が突然聞いた。
「誠さん、今日はお暇ですか?」
「え? あ、はい。特に用事もないですし…」
「良かったら、これからドライブに付き合っていただけませんかね」
「構いませんけど――」
 どこへ? と尋ねる暇もなく萩原は立ち上がってしまう。そうして先程の若者と若衆の一人を呼びつけて事務所をあとにした。
 四人は二台の車に乗り分けてどこかへと出発した。車の後部座席に一人で腰をおろした月本は、どこへ連れていかれるのかいささか不安になりながらも、窓の外を流れる風景をぼんやりと眺めていた。車は都内へ向かっている様子だった。
 ――やっぱり、もう終わりなのかな。
 その真意を確かめる為に事務所へ行った癖に、下手に間を空けられたお陰で悪い想像ばかりがふくらんでしまう。そうして暗い気分で車に揺られ、一時間もした頃だろうか。
「着きましたよ」
 萩原の声にあらためて顔を上げると、そこは数年前に新設されたばかりの成田空港だった。
「なんで空港に…?」
 相変わらず萩原はなにも教えてくれない。そのまま到着ロビーで待つこと十分ばかし。やがてその意図が嫌でも読めた。
「やっぱ言葉が通じるってなぁ楽でいいなあ」
 佐久間が手下の人間とそう話しながら、奥から姿を現したのだ。咄嗟に逃げ出したくもなったが、そんな無様な格好を見せるわけにもいかず、月本は石のように固まったままその場に立ち尽くしていた。
「お帰りなせぇやし」
「あいよ、無事帰ってきましたよ」
 そう言いながら佐久間は笑い、ちらりとこちらに一瞥をくれた。
「……お帰りなさい」
「おお」
 そう答えただけで、手下に囲まれるようにして歩いていってしまう。久し振りに見たその姿が嬉しかったが、そばへ寄ることも声をかけることも出来ない。泣きそうになりながら、このまま忘れ去ってくれと胸の内で呟いた時、ふと佐久間が足を止めて振り返った。
「あにやってんだ誠、早く来いよ。置いてくぞ」
 さも当然のように。
「――はいっ」
 月本は答えて駆け出した。
「築地寄って寿司でも食ってこうぜ」
 佐久間はそう皆に声をかけて車に乗り込んだ。月本は萩原が開けてくれたドアから佐久間の脇に座り込む。なんだか妙に緊張してしまって息を吸うのも一苦労だった。そんなふうにしゃっちょこばってフロントガラスの風景をじっと睨んでいると、不意に佐久間がもぞもぞとポケットを探ってなにかを取り出した。
「ほい、土産」
「え…?」
 ポン、と手渡されたのは小さな紙の箱だった。フタを開けるとなかには何枚ものカードが入っている。
「トランプ?」
「柄見てみ」
 月本は一枚を抜き出して表に向けた。そのとたん、大きく吹き出した。カードには筋骨隆々の男性がオールヌードの姿で印刷されていた。ご丁寧にフルカラーである。
「ハワイの土産物屋でみつけたんだけどよ、もう見た瞬間、これだ! って思ったね」
 そう言って佐久間はげらげらと笑う。
「まぁ好みのイチモツでも探して楽しんでくださいよ」
「……最悪」
 思いっきり表情を曇らせてそう呟くと、佐久間は我が意を得たとばかりに、にやりと笑った。


シーソーの上の鳩/2005.04.14


back 組事務所入口へ