「ただーいま」
 隆の声が聞こえると同時に、頭を雑誌でぽんぽんと叩かれた。
「…おかえり」
 月本はカウンターに突っ伏したまま呟き返す。
「なんだよ、まだご機嫌ななめなの?」
 そう言いながら隆が隣の席に腰をおろしてきた。月本は顔をそむけて、腕に当たったグラスをぞんざいに押し遣った。
「正月明けたっていうのに、なぁに暗い顔してるんですか」
「うるさいなあ」
 月本はぶっきらぼうに返して立ち上がる。目をこすり、トイレに向かって歩き始めた。
「…なに泣いてんだよ」
「泣いてないよ」
「泣いてんじゃん」
 トイレのドアを勢い良く開けて鏡の前に立った。大きくため息をついてわずかに赤くなった自分の目をみつめる。メガネを外して蛇口をひねり、何度も顔を洗った。そんなことをしたって気が晴れるわけがないことはわかりきっているが、ほかにどうすればいいのか思いつかない。
 水を止めて排水溝をみつめ、片手で顔を拭った。
 ――仕事したくない。
 佐久間以外の誰かと寝るのはもう嫌だ。
 ――でも、佐久間さんにも会いたくない。
 どんな目で見られているのか、わかりきっている。
「…まーこーとくん」
 うっすらとトイレのドアが開いて隆が顔をのぞかせた。
「ンコ、終わった?」
「してないよ」
 笑い返した瞬間、気がゆるんでまた涙がこぼれた。


 ビルの外にある非常階段はひどく静かだった。時折遠くの方からはっきりしない誰かの笑い声が聞こえたが、すぐに闇に溶けてしまった。ただ夜空を照らすネオンだけがむなしく輝いている。月本は踊り場に足を抱えて座り込み、視界から明るさを遠ざけた。
「…そんなこと言ったって、しょうがないじゃん」
 隣に腰かけた隆の声も遠い。
「そりゃ仕事辞めるのは誠の勝手だけどさ。俺には止める権利なんかないんだけど」
「……」
「別にその人だって、わざわざバカにするようなこと言うわけじゃないんだろ?」
「そうだけどさ。言わないけどさ」
 反論しようとして、上手く言葉が思い付かずに月本は黙り込む。寒さに身震いしてぎゅうと足を抱え込み、吐き出す息が白くけぶっては消えてゆく様をぼんやりとみつめている。
「…でも言わなくったって、そう思ってるのはバレバレだよ。仕事で知り合った人なんだからさ。これでもし告白とかしてさ、鼻で笑われたら立ち直れないどころじゃないじゃん」
 その時の光景すら明確に思い浮かぶ。きっと佐久間は呆れ返るほどに笑い転げるだろう。なにバカなこと言ってんだよ、そう言って当然のように金を差し出すに違いない。
「も、最悪だよぉ。なんであの人のこと好きになっちゃったんだろ…っ」
「……」
 抑えていた涙がまたあふれだしてきた。月本はメガネを外して胸のポケットに入れ、目をこすりながらまた泣いた。
 せめて客として知り合わなければもっと望みが持てたかも知れない。今まで付き合ってきた相手も、客というのは一人も居なかった。金と引き換えに体を与える、そんな関係のなかでこれほど惹かれる人間に出会ったのは初めての経験で、だからこそどうしていいのかわからない。
「…その人も、金で男を買うような人間だぜ」
 ぽつりと隆が言った。
「そんな人が本当に好きなわけ?」
「好きなんだからしょうがないだろ、そんなことどうでもいいんだよ」
「だったらお前も悩んだってしょうがないじゃん」
 そう言って隆はバカにするように小さく鼻を鳴らした。
「結局お互い様だろ? お前は金で体売ってるし、その人は金で体買ってるし、悩むだけ無駄なんじゃないの?」
「そういう言い方――」
 反論しようとしてまた言葉に詰まる。確かに隆の言うことは事実だ。「お互い様」だ。だからこそどうしたらいいのかわからずに、ただミジメな思いにまみれている。
「こんな仕事、しなきゃ良かった」
 月本は遠くの景色に目をやって呟いた。
「もっと別のところで知り合いたかった。そしたら、もうちょっとは希望持てたかも知れないのに」
「…でもお前さぁ、自分から進んでこの仕事始めたんだよな?」
「そうだよ」
「だったら今更そんなこと言うなよ。こうなることぐらいわかってたんじゃないの?」
「……」
 ――わかってなかった。
 本気で人を好きになるというのがどういうことなのか、全然理解していなかった。
「お前、なんか勘違いしてない? 別に嫌々始めたわけじゃないんだろ? 好きで体売ってたんだろ?」
「そうだよ、そんなことわかってるよ」
「わかってないよ。お前、全然わかってない」
 剣幕に驚いて振り返ると、隆はひどく憤慨した顔でこちらをみつめていた。
「お前、なに被害者ぶってるわけ? 結局自分の意志でやりたいことやっといてさ、惚れた相手が出来たら『こんな仕事してるから』ってうじうじしてさ、そんなの最初からわかりきってたことだろ? 体売るってそういうことじゃん」
「……っ」
「金が手に入ればどうでもいいとか思ってた? ホントになんにも考えてなかったわけ?」
 隆はまるで今にも笑い出しそうだった。呆れたようにこちらをみつめ、月本がなにも言い返せないでいると不意に立ち上がり、
「お前がそんなにバカだとは思わなかった。見損なったよ」
 そう言って非常扉を開け、一人でなかに入っていってしまった。月本は腰を浮かしかけながらも立ち上がれず、茫然と扉が閉まるのを見守っていた。
「見損なったのはこっちの方だよ…!」
 扉は閉まったまま動かない。
「……も、なんだよお」
 閉まったままだ。
「人が落ち込んでる時ぐらい…っ」
 ――隆の言ってることはよくわかる。
 考え無しでいた自分がバカだった。ちょっと頭を働かせればすぐにわかることだった。わかっていながら見ないフリをしていた。幾ら悩んだって新しい答えなどどこにも現れない。
 答えは最初から、目の前にある。
 今更後悔したってどうしようもない。後悔するつもりもない。…後悔したくない。
 ただ勇気が出せずにいる自分が情けなくて泣いている。進むべき道はきちんと見えているのに、そのどちらへも向かうことが出来ずに、ただ恐れて泣いている。
 わかっている。わかっていた。
 わかっているけど、その一歩が踏み出せない――。
 月本は足を抱え込み、うずくまったまま泣き続けた。夜風に凍えたが、このまま凍死してしまっても構わないと思った。立ち上がる元気はかけらもない。どこからか聞こえる笑い声も怒鳴り声も、まるで別世界のもののように感じられていた。
 どれぐらいのあいだそうしていただろうか。爪先の感覚がすっかりなくなる頃、非常扉が静かに開けられた。
「……いい加減、なか入れよ」
 隆の声がそう言った。
「鼻水、凍るぞ」
「出てないよっ」
 月本は振り返りもせずに言い返す。不意に背中に上着がかけられて月本はわずかに顔を上げた。隣に隆が座り込んできて肩を抱かれ、抱き寄せられた。
「――、」
 なにかを言おうとし、それでも言葉が思い浮かばずに隆は口をつぐむ。慣れない手つきで月本の頭を撫で、
「…勇気出して、素直になれよ」
「……っ」
 引っ込んでいた涙がまたあふれだす。月本はしゃくり上げて顔を伏せ、嗚咽を押し殺しながら、ただ隆の温もりを感じていた。


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