そんなふうに、二時間ほどとりとめもなく話をしながら酒を飲んだ。朝まででも一緒に居たかったが、翌日はどうしても出なければならない講義が一時限目からある。名残惜しくも月本は立ち上がり、萩原や女たちに見送られて店を出た。
「玄関までお送りしますよ」
佐久間はそう言って、店の外のエレベーターまでついてきてくれた。
「川崎だよな? 車で送ってってやるぞ」
「いえ、そんなに遠くないですし、タクシーで帰ります」
「そっか? じゃあタクシー代」
そう言いながら佐久間は金を取り出したが、「タダじゃあやれねえなぁ」とにやにや笑った。目を上げると佐久間はこちらをじっとみつめていた。
吸い寄せられるようにして顔を近付けて唇を重ねた。月本は佐久間の背広にしがみつき、絡み合う舌の感触に小さく声を上げた。
唇を離すと、酔いにかまけた熱いため息が無意識のうちに洩れた。そうして抱き寄せられた時、今更のように佐久間のつけるコロンの香りに気が付いた。
「またな」
「はい…っ」
足が震えている。首筋にかかる佐久間の息遣いが知らずのうちに快感を誘う。不意に尻のポケットに金を突っ込まれ、感触に驚いて大きく身を揺らしてしまった。互いに視線が合うと二人は一瞬呆気に取られたような顔をし、同時に吹き出した。
佐久間は何度か月本の髪を梳き、
「じゃあな」
耳の付け根辺りに軽く唇を触れて店へと戻っていった。
「――おやすみなさい」
月本の声には振り返りもせず、ただ後ろ手のまま手を上げる。佐久間の唇が触れた辺りを手で押さえながら、月本はしばらくのあいだその場に立ち尽くしていた。
「誠ー、仕事だよー」
益田が受話器を置いてそう声をかけてくる。月本はカウンターに突っ伏したまま振り返り、
「……行きたくない」
「なーに言ってんの。背の高い、ガタイのいい子っていう指定なんだから」
「康博、百七十九だよ。僕と殆ど一緒。康博に頼んでよ」
そう言ってそっぽを向いてしまう。
「なんだかねぇ、この子は。お仕事しないとお金入ってこないよ」
「知ってるよ」
それでも月本は動こうとしなかった。益田はあきらめて店の奥にある仮眠室へと向かった。
「どうしたんだよ、この前まで元気いっぱいだった癖に」
カウンターのなかから立花が見下ろしてくる。月本は顔だけ上げて「別に」と素っ気無く呟き、思い直したように身を起こした。
「仕事、辞めよっかな」
立花は驚いたように目を見張ったが、軽く首をかしげただけでなにも答えなかった。
「…あんまり長く続ける仕事じゃないよね」
「まあ、そうかもな」
そう言っただけで洗い物を始めてしまう。月本は一人取り残されてカウンターに頬杖をつき、氷の殆ど溶けてしまった薄い水割りを飲み干した。
佐久間と知り合ってから、ほかの客と寝るのが嫌になってきた。以前にも個人的な付き合いの人間が出来たら一時的にそうなったことがあるので、すぐに慣れると高をくくっていた。だけどどれだけ時間が過ぎても、どれだけ客をこなしても、肌に触れられる違和感は拭えない。たった一人に惚れて、その為に仕事を辞めたいとここまで思い続けるのは初めての経験だった。
――でも、辞めてどうする?
これほど実入りのいい仕事など、ほかにはそうざらにない。生活の保障はどこにもないし、かといって一浪してまで入った大学を辞めるわけにもいかない。そんなことをすれば母親が悲しむに決まっている。今まで苦労して育ててもらった恩があるし、今現在だって苦労をかけている。自分はどうでもいいと思うが、少なくとも母親に心配させるようなことはしたくなかった。
佐久間を好きだということを忘れられれば、楽になれる。
だけどそんなに簡単に人を好きになったり嫌いになったり出来るなら、最初からこんなに悩んだりはしない。
月本はため息をつくと立花の姿を探した。立花はカウンターの奥にある倉庫に半身を突っ込んでなかの整理をしていた。
「立花さん、も一杯。――あ、やっぱりやめた。コーラちょうだい」
「はいよ」
酒瓶を棚に載せると立花は冷蔵庫を開けた。
「立花さんは、なんでこの仕事してるの? 立花さんってゲイじゃないんだよね?」
「そうですよ。わたしゃあオネーチャンが大好きですよ。まぁもてないけどな」
そう言って立花はおかしそうにからからと笑う。
「別に仕事なんてなんでも良かったんだよ。調理師免許だって、食い物関係だったらどこでも仕事があるだろうと思って取っただけだし」
「なんか夢とかなかったの? 自分のお店持つとかさ」
「…使われる方が、気が楽でな」
差し出されたグラスを受け取って月本は立花の顔を見返した。
「ここの仕事も同じだよ。気が楽でいいんだよ。働いてるのは若い奴らばっかりだし、下手に痴情のもつれに巻き込まれることもないし」
「僕みたいのが愚痴はこぼしてるけど」
「そんな程度だったら幾らでも聞いてやるよ。愚痴こぼしてまた元気に仕事が出来るようになるなら、幾らでもな。仕事辞めるか辞めないかはお前が決めることだけど」
「……わかってる」
グラスに口を付けながら月本はまた物思いに沈む。
本音を言うと、仕事のことも学校のことも、なにも考えていたくなかった。ただあの男が欲しかった。自分だけのものにしたかった。目をのぞき込めばいつも吸い込まれると感じるように、同じ思いをさせたかった。
鼻の奥がつんと痛み、月本はあわてて奥歯を噛みしめる。
――なんだよ、もう。
いつの間にか本気で惚れていた。泣きたくなるほど惚れていた。
ゆっくりと侵入される時が一番の恐怖であり安堵も覚える。
月本は痛みと快感に声を上げ、息を吐き出しながら佐久間の首にしがみついた。佐久間はライトにうっすらと照らされながらこちらを見下ろし、足を抱え直して深くまで入ってくる。一度腰を引いて突き上げるとあらためて月本の体を抱き寄せた。月本はしがみついたまま息を詰め、小さく声を洩らしては切れ切れに息を吐く。
唇が重なり、舌を絡ませながら息を交わす。じっと見下ろされるのが恥ずかしくて顔をそむけると、佐久間は小さく笑って突き上げ始めた。とたんに快感に呑み込まれて月本は声を上げ、苦しいのだか幸福なのだかわからないような心持のまま、ただ佐久間の熱を感じている。
腕に触れるとひどく熱い。佐久間の匂いが、わずかに香る。
佐久間の手が肩を押さえ、激しく突き上げられて快楽にまみれながら、もっと奥まで来てくれと月本は思う。しがみつく体も熱い息遣いも、自分のなかに取り入れて独り占めしてしまいたい。こちらを見下ろすその目も、汗も、なにもかも。
一度ものが引き抜かれてうつ伏せにされた。背後から突き上げられてシーツを握りしめ、陶酔のさなかで何故か悲しくなる。偶然に触れた指先をからませると、かさついた手に握り返された。まるで子供のようにその手にしがみつき、また声を上げ、顔を寄せて手に唇を触れた。
一度深く突き上げると佐久間は動きを止めて首筋に唇を這わせてきた。髪をわしづかみにし、噛み付くかのようにきつく吸い上げていく。そばに居るのに、肌を合わせていてもこの男は遠く、それがまた悲しくて月本はもっととねだる。ひどくやさしいキスに戸惑いを覚え、突き上げられて体を熱くし、どれほど快楽に溺れようとも、胸の内の寂しさは消えていかない。
体を拭いてバスローブを羽織り、タオルで髪を拭きながら月本は風呂場を出た。
一間限りの部屋のなかでベッドはその大半を占めている。やる為だけの場所ゆえに、テレビや冷蔵庫は申し訳程度に部屋の隅へと押し込まれていた。ラブホテルのその狭さは基本的に好きではないが、ベッドで佐久間と触れ合うしか居場所のないこの空間が、今はひどく嬉しかった。
「腹減らねえ?」
「少し」
佐久間はベッドに腰をおろしてニュースを見ていた。冷蔵庫を開いたが、腹の足しになるようなものは当然ない。酒のつまみにナッツが入っているだけだ。月本はあきらめて扉を閉め、
「ほれよ」
佐久間の不意の呟きに振り返った。
財布から金を取り出して、ひらひらと揺すっている。
「――いりませんっ」
月本は顔を引きつらせてそう叫び返した。
「仕事じゃないんです。…いりません、お金なんか」
新宿の方に用事があるというので、水野の店で待ち合わせをした。店でしばらく酒を飲み、話をし、そうして顔を見ているうちにどちらからともなく我慢出来なくなって近くのホテルに入った。仕事のことなどかけらも考えなかった。あらためて金を差し出されて、月本は今更のように自らの立場を思い知らされた気分だった。
佐久間は驚いたような表情でしばらくこちらをみつめていた。そうして突然笑い出した。
「んだよ、そんなに怒んなくたっていいじゃねえかよ」
「……」
「ただの小遣いだよ」
腕を引かれ、月本は佐久間の隣に腰をおろした。
「あのですね、親戚のおじちゃんが正月にやって来て、『ほーら誠、お年玉あげようなぁ』って酔っ払ってんのとおんなしだよ。んな、マジで怒んなくたっていいだろ」
「……すいません」
「いいけどよ」
それでも、差し出された金を受け取ることは出来なかった。月本はぎゅうとタオルを握りしめ、苦笑した佐久間が胸元に金を差し入れるのを、じっと見下ろしていた。
「焼肉でも食い行こうぜ」
そう言って佐久間は立ち上がる。頭を撫でられて月本はゆるゆると顔を起こし、
「…はい」
仕事だったらどれだけ楽だったろうと考えた。