『きれいですね』
驚いてはいたが、怖がってはいなかった。からかうような視線でもなかった。ただじっと、肌に入った絵をみつめていた。
お世辞にも聞こえなかった。多分、本心だったのだろう。
これまでに何人もの商売女や男娼に刺青を見せてきたが、きれいだと抜かしたバカは月本が初めてだった。皆一様にビクついて、腫れ物にさわるような態度を取った。当たり前だ、刺青などその為に入れているのだから。
若さゆえのバカなのか、性根がそういう作りなのか、ともかく佐久間はあの男のバカさ加減が気に入った。よがっている時の目付きもいい。快楽にまみれながらもどこか理性が残っていて、時々自分の姿に気付いて羞恥と屈辱の表情を見せるところが、なおさらたまらない。
ああいう手合いは――煙草をくわえて壁をみつめながら佐久間は思う――とことんまでなぶってやりたくなる。嫌だ嫌だと泣きわめくのを無理やり押さえつけて強引に犯してやるのがむしろ礼儀というものだろう――。
「頭(かしら)、手ぇ止まってますよ」
萩原の声に気付いて佐久間は目を上げた。書類の束を抱えながら萩原が監視するような目でこちらを見下ろしている。佐久間は煙草の灰を叩き落とすと、一度、深く深くため息をついた。
「なに人の顔見てため息ついてるんですか」
「…社長なんて、つまんねぇ仕事だなあと思ってよ」
そう答えると佐久間は黒縁メガネをずり上げてボールペンを握り直した。決裁済みの書類に目を落として文面を読むフリをし、結局なにも考えずに次から次へと必要事項を記入していく。
「こんな仕事なんざ、岡本にさせりゃいいじゃねえか。あいつ他人の筆跡真似すんの得意なんだろ?」
「こんなことぐらいで本職に金払えませんよ。いくらかかると思ってるんですか」
「へえへえ」
手渡された土地の登記書に住所を書き込みながら佐久間は煙草をもみ消した。
「そういやぁ、藤沢で売りに出してるマンションあったよな。あれどうなった?」
「幾つかは売れたそうですけど、個人向けのは残ってるみたいですね。不動産屋の話だと、もう少し寝かせた方がいいようなこと言ってましたが」
「――俺、買おうかな」
萩原が驚いたように振り返った。
「独り暮らしでも始めるつもりですか?」
「バカ野郎、俺が今更家出てどうすんだ。別宅にすんだよ」
組を継ぐ前は仲間や女のところに転がり込んで暮らしていたが、組長となってからは先代が構えた本宅、つまり実家で生活を続けている。
ようやく三十となったばかりの若い組長ではあるが、それでも三十名近い組員の命と生活を抱えている大事な身だ。以前のような身軽さを失い、両肩に背負うものは増えて不便さを味わう分、女遊びの辺りは少し大目に見てもらいたいというのが佐久間の意見だった。
「まあ、別に構わないとは思いますが」
萩原は苦笑して次の書類を差し出した。
「でも頭がそれほど入れ込むなんて珍しいですね。そんなにいい女なんですか?」
「…まあな。男だけどな」
「はあ」
別に顔かたちなどはどうでもいい。理屈ではなく、好みだというわけでもない。どこがいいのかわからないまま、時折無性にあの男が恋しくなる。
――けどなあ。
『もう行っちゃうんですか?』
まるで親に置き去りにされる子供のような顔をしていた。多分、根がバカなほど素直なのだ。自分のような人間は関わらない方がいいに決まっている。とはいえ、放っておけば似たような種類の人間にいいようにもてあそばれて、ボロ屑のように捨てられるに違いない。自分がするか他人がするか、それだけの違いでしかないのなら、いっそのこと――。
「なんでオメーが跡目継がなかったんだよ」
書類を受け取りながら佐久間が言うと、萩原は少し意外そうな顔をして小さく笑った。
「陰の黒幕ってヤツに憧れてたんです」
「けっ。バカバカしい」
「私は器じゃありませんから」
「……俺だって器じゃねえよ」
「そんなことありませんよ」
萩原はそう言って笑いかけてきた。佐久間は無言で煙草を拾い上げた。
佐久間の名前を出すと、ボーイの態度が一変した。堅苦しい顔つきになり、「ご案内いたします」と妙にかしこまった風に頭を下げられた。
「よー、こっちこっち」
店の一番奥の席に佐久間は居た。組の人間らしい男性と一緒だが、女たちに囲まれてご満悦といった表情だった。月本は思わず顔を強張らせたが、それでも営業スマイルを浮かべながら「こんばんは」とにこやかに頭を下げた。
「きゃー、かっこいいお兄さんだぁ。こんな知り合いが居たんなら、もっと早く連れてきてくれれば良かったのにぃ」
月本がソファーに腰をおろすと、佐久間の足に手を乗せていた女がそう言った。
「店のオネーチャン独り占めにされちまうからなぁ。俺の男としての立場も考えてくださいよ」
「えー、でもあたしは佐久間さん一筋だよ」
「ウソつけ、さっそく色目使ってやがる癖に」
「使ってないよお」
女はけらけら笑いながらなにを飲むかと聞いてくる。水割りを、と答えて月本は女の横顔をみつめた。
水商売の女にしては控えめの化粧だった。肩にかかる髪はさらさらのストレートで、身を動かすたびにわずかに香水が香る。あごは丸く、首は細く長い。華奢な印象だったが、真正面から見ると大きな瞳が好奇心に満ち満ちて元気良く動き回っている。
かわいくて、きれいだ、と月本は思う。自然の造形美にはいつも言葉もなく感動させられる。
「ほれみろ、いきなりマジ惚れしたような顔してんぞ、こいつ。どうすんだ?」
グラスを受け取って佐久間の声に顔を上げると、こちらを一瞥してにやにや笑っていた。話の種にからかわれているのだとはわかっているが、あまり女の扱いには慣れていないので聞こえないフリをしてそっぽを向いた。女はその様を見て「かわいいー」と笑い声を上げた。
「ちっとすいませんけど、オネーチャンたち席外してもらえますかね」
女から新しい水割りを受け取って佐久間が言った。
「なぁに? 秘密の会議でもするの?」
「そ。ナオミちゃんをどうやって口説こうかっていう、作戦会議」
「やだ、もぉ」
それでもナオミと呼ばれたその女は嬉しそうに笑い、「またあとでね」と佐久間の頬にキスをして立ち上がる。月本はナオミが去り際に振り返るのを見て軽く頭を下げた。そうして、
――プロだなぁ。
同じ商売人として思わず深く感じ入ってしまった。
「女はバカが一番だってなぁ、ホントだよなあ」
「そうですね。まぁ、本当にバカで売れっ子にはなれないでしょうけど」
佐久間の呟きを受けて、同席していた男がそう答えた。こちらを見て笑いかけられ、月本は今更のように頭を下げた。
「こいつ、萩原ってんだ。うちの組の陰の親分」
「もうその話はやめてくださいよ」
なんの話なのか、萩原は困ったように苦笑している。
佐久間組の勢力範囲は横浜の一部から藤沢・茅ヶ崎にかけての辺りだそうだ。もっとも大本である高田組が神奈川県内をがっちりと押さえているので、桜木町のこの店もシマの内部のようなものだと教えてくれた。
「まあ、だからってあんま好き勝手は出来ねぇけどな。親父にカミナリ喰らっちまう」
「怒ると怖い人ですからねえ」
萩原もそう言ってしみじみとうなずく。
「やっぱお前も怒鳴られたりしたんか」
「勿論ですよ。オメーがしっかりしてねぇと兄貴がバカにされんだぞって、しょっちゅう叱られました」
そう言いながらも萩原は嬉しそうだ。
「――どうしたよ、おとなしいじゃねえか」
不意に髪の毛を引っぱられて月本は顔を上げた。
「女の居る店は慣れてねえってか?」
「…ちょっと、緊張しちゃいまして」
「んだよ、カワイ子ぶってんじゃねえや」
そう言って佐久間は髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回す。やめてくださいってば、と身をよじっていると、「お久し振りですぅ」と店の女が挨拶にやって来た。
「ちょっと口説いてきます」
萩原はグラスを持って立ち上がる。佐久間と二人きりで席に残され、月本はようやく安堵したように息を吐いた。
「お前って、人見知りすんのな」
「すいません」
「別にいいけどよ。仕事ん時もそんな感じなのか」
「…そうですね。どっちかっていうと、あんまり喋らない方ですね」
おとなしく客の話を聞いていることが多い。心にも無いお世辞を口にするのは苦手だ。
「呼び出して悪かったか?」
「そんなことないです」
そろそろ寝ようかと思っていた時間だったが、佐久間からの電話が迷惑な筈はない。そう言おうと思うのに何故か言葉が上手く出なかった。月本はまたうつむき、佐久間の苦笑するような声を聞く。
「真面目にガッコ行ってんのか」
「行ってますよ。やっと学校の空気に馴染んできた感じですね」
「もう十一月だろうによ」
「あんまり、人と話したりしないもので」
月本は小さく笑い、佐久間の手が襟足をもてあそぶのに気付いて目を上げた。そのまま首をつかんで抱き寄せられ、佐久間の顔が近付いてくるのを拒絶も出来ず、ただ石のように固まって見守っていた。
首筋に唇が触れた瞬間、月本は息を呑んで佐久間の腕にしがみついた。唇が触れる部分からまるで電流のように快感が走り、思わず悲鳴をあげそうになった。佐久間は首筋に吸い付き、わざとらしく舌で舐め上げ、またきつく吸い上げた。月本はただ目をつむって声を押し殺している。
佐久間の気配が離れていった。月本は静かに息を吐き出しながら目を開けて顔を上げた。わずかに涙ぐんだ目を見て佐久間は下卑た笑いを口元に浮かべた。
「そういやぁ、しばらくしてねぇなあ」
「…からかわないでくださいよ」
むくれてそう答えると、佐久間はおかしそうにげらげら笑った。