いつの間にか夏が終わろうとしていた。
 九月も半ばとなり、残暑は厳しくも時折季節の変わり目を思わせる涼しい風が吹いた。同時に月本の十代も間もなく終わろうとしている。相変わらず佐久間には会えないままだ。
「ただーいま」
 カウンターに突っ伏すようにしてぼんやりしていると、仕事から戻ってきた隆に軽く頭をはたかれた。
「元気ないね」
「…ないよ」
 指名が入るたびに期待しては裏切られ続けている。しかも期待している時に限って違う客からの指名が多い。金にはなるが目的があって貯めているわけではないので、そろそろあきらめてどこか旅行にでも行こうかと思い始めているところだった。
「ね、隆くん、旅行行くなら北と南、どっちがいい?」
「北と南? そうだなぁ、今頃だったら東北で紅葉狩りかな」
「あー、いいですねぇ、風流で」
 やっぱり傷心旅行なら北に向かうべきだろうなぁ、などとくだらないことを考えていると、
「誠ー、ご指名だよー」
 注文の電話を受けていた益田が受話器を置いてそう声をかけてきた。
 月本は苦い顔で振り返り、嫌々イスから立ち上がる。
「病欠にしとけば良かった」
「なに言ってんの。せっかく泊まり指定の仕事が入ったっていうのに」
「だってさぁ」
 ぼやきながら場所と名前の書かれた紙を受け取った。
『帝国ホテル1507号室 佐久間』
「――ありがと店長、大好きっ!」
 月本は益田の頬にキスをして店を飛び出していった。店に残された人間は呆気に取られたように玄関をみつめ、
「…電話取っただけなんだけどな。まぁ、いっか」
 と益田は頬をさすり、
「いきなり元気になってやがんの」
 隆は立花と顔を見合わせて笑いあった。


 いつも以上に念入りに身だしなみの確認をした。部屋の前で呼び鈴を鳴らす時も、もう一度だけ、とシャツの裾を引っぱって襟を正した。
 ドアが開くと、懐かしい顔がそこにあった。
「よう」
「こんばんは」
「入れよ」
 佐久間はあごをしゃくり、月本を部屋へと招きいれた。そうして店に確認の電話を入れるあいだ、ずっと応接セットのソファーに座ってのんびりと煙草をくゆらせていた。
 電話をかけ終えると、「酒出してくれや」と冷蔵庫に振り返った。
「ロックでいいですか?」
「おお。お前も好きなもん飲め」
 酒の入ったグラスを渡し、自分もグラスに口をつけながらソファーに腰をおろした。佐久間は煙草をもみ消すと、「今日は邪魔入らねえからな」とにやにや笑いながら言った。
「はい」
 会えただけでも嬉しくて体が熱くなる。月本はうつむきがちにゆっくりと酒を飲んだ。
「ほんじゃあとりあえず、フェラチオ五分間一本勝負、いってみましょうかね」
 佐久間はグラスをテーブルに戻すと、そう言いながらシャツをズボンから引き出し始めた。月本は思わず吹き出したが、
「――はい」
 素直に準備が整うのを待っていた。
「と、その前に」
 不意に抱き寄せられて唇が重ねられた。わずらわしげにメガネを外され、月本は抱きついてまた唇を重ねる。唇が離れる時、うっすらと目を開けると、びっくりするぐらいやさしい目で佐久間がこちらをみつめていた。
「…その勝負、僕が勝ったらなにか賞品出るんですか?」
「特別ボーナスくれてやらぁ」
「頑張ります」
 笑って、また唇を重ねた。


 翌朝、目を醒ますとベッドに佐久間の姿はなかった。月本はあわてて跳ね起きるとベッドを抜けた。そうしてリビングに続くドアを開けると、驚いて振り返った佐久間と目が合った。
「よう」
「…おはようございます」
 佐久間はルームサービスの朝食を食べていた。お前の分もあるぞと言って、ソーサーに伏せられたままのカップを示す。月本はぎこちなくうなずき、ありがとうございますと呟いた。
「んだよ、そんなに心配しなくったって、金払わねぇで居なくなりゃしねえよ」
「そんな――」
 ――そんなことを心配したんじゃない。
 月本は言いかけた言葉を呑み込んで寝室に戻った。バスローブを羽織ってベッドに腰かけると、ぺちぺちと頬を叩く。
 ――忘れるなよ。
 佐久間は「客」だ。
 一度大きく息をついて気持ちを入れ替えた。あらためてリビングへ行き、佐久間の向かいに座って食事をもらった。コーヒーを飲みながら朝刊に目を通していた佐久間は、ふとなにかを思い出したように財布を取り出した。
「ほい、金」
「ありがとうございます」
 また多めに手渡された。今度はなにも言わずに受け取った。
「あと、一応これも渡しとくわ」
 そう言って渡されたのは一枚の名刺だった。
『佐久間組代表 佐久間学』
 事務所の住所と電話番号が載っている。
「なんか困ったことあったら電話しろ。…まぁ、あんま世話にはなりたかねえだろうけどよ」
「そんなことないです」
 月本は首を振り、名刺に印刷された佐久間の名前をじっとみつめた。佐久間は財布をテーブルに置いて新聞を拾い上げたが、また戻してしまった。
「……お前ん家の電話、聞いてもいいか?」
「はいっ」
 月本は立ち上がると電話の横にメモ帳をみつけ、マンションの電話番号を書き付けて佐久間に渡した。
「月本さんですか…実家か?」
「独り暮らしです」
「そういやぁ、普段なにやってんだ? この仕事だけか?」
「大学通ってます」
「学生さんかいっ」
 佐久間はあやうくコーヒーを吹き出すところだった。
「佐久間さんが最初に、『頭のいい奴がいい』って言ったんですよ。まぁ三流大学ですけど」
「ああ、あれなぁ」
 そう言うと、佐久間は月本の顔をみつめてにやにや笑う。
「頭のいい奴は感度いいんだってよ。脳がそういう造りなんだと」
「……っ」
「ガセだと思ってたけど、案外本当なんだな」
 月本は返事に詰まり、真っ赤になってそっぽを向いた。その様子を見て佐久間はげらげらと笑った。
 一度シャワーを浴びてから私服に着替えた。窓から見える空はきれいに晴れ渡っている。
「それじゃあ、失礼します」
「はいよ」
 佐久間はまだバスローブのままソファーに腰をおろしていた。腕を伸ばして呼ばれたので隣に座ると、いきなり抱き寄せられてキスされた。
「今度、どっか飲みにでも行こうや」
「はい。…連絡ください。待ってますから――」
 客でもいい。
 佐久間に会えるのなら、ただその為だけに買われるのも悪くない。
 もう一度唇を重ねて強く抱きつき、後ろ頭を撫でられて、泣きそうになっている自分に気が付いた。


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