「はい、『佳蘭(からん)』です」
益田が注文の電話を受けている。月本は雑誌に載る新作映画の記事を眺めつつ、ぼんやりと益田の声を聞いていた。どうやら初めての客のようだ。料金システムの説明を簡単に済ませたのちに好みのタイプを聞いている。
「はい。…そうですね、ええ、おりますよ。――はい、かしこまりました。ではお客様のお名前と場所のご指定を」
こうしてまた、形ばかりの愛が一つ売られていくんだなぁ、などと傷心気味に詩的なことを考えていると、
「誠くーん、お仕事だよー」
受話器を置いた益田にそう声をかけられた。
「え、僕? 指名じゃないよね」
「初めてのお客さん。泊まりの指定で、『頭のいい奴がいい』って」
と、益田は最後の方で声をひそめて言う。ちなみに泊まりとは売り子を朝まで占有することで、当然料金は高い。月本は一瞬返す言葉を失い、それから不承不承うなずいた。現役大学生は今のところ自分しか居ないし、それが頭の良さの証明になるとも思えないが、金になるなら文句は言うまい。益田から場所と名前の書かれた紙を受け取って月本はイスから立ち上がる。
『帝国ホテル1507号室 佐久間』
――金持ちのジジイか。
倦んだ気分を更に萎えさせて、「いってきまーす」と元気なく呟き、月本は店を出た。
川崎から電車に乗って東京駅へ。そうしてタクシーでホテルに向かいながら、月本は思わず深いため息をついてしまった。
――しばらく仕事休もうかなぁ。
ひと月程度ならなにもしないで生活していけるだけの金がある。嫌々続けているのでは鬱憤が溜まる一方だし、相手をする客にも申し訳ない。明日にでも益田に相談してみよう。そう思いながら月本はタクシーを降りてホテルに足を踏み入れた。
夜も遅いせいかロビーは閑散としていた。エレベーターを探すついでにトイレを発見したので、部屋へ上がる前に一度鏡で自分の姿を確認することにした。
洗面所で手を洗い、鏡をのぞきこむ。前髪の位置をわずかに直してシャツの裾を引っぱった。背後に振り返っておかしいところがないかを確かめると、ようやくエレベーターに向かった。箱に乗り込んでボタンを押し、ドアが自動的に閉まる様をぼんやりと眺めながら気持ちを切り替えようとする。
こういう時の月本は、どんな脂ぎった親父がドアの向こうで待っているのだろうと悪い想像をすることにしていた。チビ・デブ・ハゲと三拍子揃った最悪のパターンを想像しておけば大抵はいい方向で裏切られるし、たまに想像に近い人物だったとしてもあまりショックを受けずに済む。
――『佐久間』さんはどっちかな。
エレベーターのなかで客の名前を確認し、紙切れをズボンのポケットに押し込んだ。
十五階でエレベーターを降りて静かな廊下を進む。部屋番号を確認し、一つ息をついてから壁の呼び鈴を押した。
やや間が空いたのちにドアが開けられた。ドアの向こうに現れた人物は、ハゲではあるがチビでもデブでもなかった。身長百八十センチの自分よりも背が高く、黒縁メガネをかけたがっしりとした体型の男性だった。多分髪の毛はわざと丸坊主にしているのだろう。
「佐久間さんですか?」
月本はそう聞きながら男の釣り上がった険しい目を見て、職業ヤクザ、三十代後半、とおおまかに見切りをつけた。
「おぉ」
「『佳蘭』から来ました、誠と言います」
佐久間は値踏みをするようにじっと月本の顔かたちを眺めた。それから無言であごをしゃくり、なかへ入るよう促した。失礼しますと呟いて月本は部屋へ足を踏み入れる。
それほど広くはないが、きちんとリビングと寝室が分かれていた。小型のスイートルームなのだろう。月本は腕時計に目をやり、「電話お借りしてもいいですか?」と佐久間の背中に聞いた。
「どうぞー」
佐久間は振り返りもせずにそう答えて寝室へと入っていった。
――なんか、変な感じの人。
店に電話をかけつつ月本は内心そう呟く。
『はい、「佳蘭」です』
「あ、店長? 誠です。今部屋に着きました」
『はいはい、かしこまりました。じゃあ朝までごゆっくりぃ』
「はーい」
電話を切った月本は、あらためて部屋のなかを見回した。
リビングにある応接セットのテーブルには大判の封筒と何枚かの書類が乱雑に放置されていた。裏返しになっているのでなにについての書類なのかはわからない。その脇に煙草とライター。灰皿には吸殻が三本ほど。テレビは消えている。空調の音が聞こえるほどに部屋は静かだ。
寝室へ行くと小さな丸い卓の上にウィスキーの瓶とグラスがあった。そして佐久間はメガネをかけたままベッドに大の字になって寝転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。
「シャワーお借りしますね」
月本がそう言うと佐久間は大儀そうに顔だけ起こして、
「外、あちぃのか」
「暑いです。この前の熱帯夜ほどじゃないですけど」
「そっすか」
そう言ってまた寝転んでしまった。
――なんか、やりにくいなあ。
内心で首をかしげながらも月本はバスルームへ向かった。
バスタブとシャワーブースが別々になっている造りだった。洗面所は広く、大きな鏡には一点の曇りも見られない。バスタブで湯に浸かりながら夜景が見られるように大きな窓がある。月本はシャワーを浴びる前に窓の外をのぞき、たまに見るとこういうのもきれいなもんだなと思った。
ざっとシャワーを浴びて髪を乾かしたのちに寝室へ戻ると、佐久間は目を閉じたままさっきと同じ格好でベッドに寝転がっていた。
……寝てる?
月本は備品のバスローブに身を包み、息をひそめながらベッドに近寄った。そっと顔をのぞきこむと、不意に佐久間が目を開いた。
「お前、幾つだ」
そう聞きながらのっそりと身を起こす。
「十九です。九月で二十歳になります」
「ふーん」
そうしてなにか飲むかと尋ねた。同じものを分けてもらい、月本はイスに腰をおろして酒を飲みつつ佐久間の姿を見た。ベッドの角にまたがるようにして佐久間は座り、後ろ手に手をついて同じようにこちらをみつめている。目元にやや憔悴の色が見える気がして月本は微笑んだ。
「お疲れですか?」
「…まあな。めんどくせぇ話が続いてて鬱憤溜まっててよ、一発二発かまして憂さ晴らそうと思ってわざわざ部屋取ったのによ」
佐久間はそう言うとぶらりと立ち上がり、卓の上からグラスを拾い上げた。
「社長なんざ、なるもんじゃねえなあ」
返事に困って月本はただ笑った。酒を飲み干すと、「俺も風呂入るか」と言って佐久間はグラスを戻し、バスルームの方へ歩きながらシャツを脱ぎ始めた。何気なくそのあとを目で追っていた月本は、佐久間がシャツを放り投げた瞬間、思わず息を呑んだ。
背中の唐獅子がこちらを睨みつけていた。
ズボンのベルトに手をかけながら佐久間が不意に振り返った。そうして月本の視線に気付いて今更のように自らの刺青を見下ろした。
「珍しいか?」
月本はうなずいた。
「きれいですね」
肩から二の腕、わき腹にも刺青は施されている。左腕の牡丹は、まるで血のように赤い。
佐久間はしばらくなにかを考え込んでいた。やがてズボンからベルトを引き抜くと、
「見たけりゃ好きに見ろや。どうせ減るもんでもねえしな」
そう言いながらベルトを月本に渡して自分はベッドに座り直した。月本はイスから立ち上がるとベルトを背もたれにかけてベッドに乗った。
獅子は前足を伸ばして天を向きながら大きく牙を剥いている。大輪の牡丹が二輪三輪と咲き、その周囲をふわりと蝶が舞っている。月本は獅子の口をじっとみつめて、そこに生える二本の牙をそっと指でなぞった。とたんに佐久間は身を揺らし、「ひゃっこい手だな」と笑った。
「すいません」
なるべく手を触れないようにしながら月本は刺青を眺め続けた。
牡丹の花びらは一枚一枚、そのやわらかさが伝わってくるほど丁寧に描かれている。佐久間の呼吸に合わせて動く様は、まるでかすかな風に吹かれてでもいるかのようだ。我慢出来なくなってまた月本は指を触れ、花びらの輪郭をそっとなぞった。
刺青を見るのは初めてではないが、これほどじっくりと眺める機会は今までなかった。佐久間のそれは意図的に墨を入れたようには見えなかった。生まれた時からこの絵を背負っているかのように、体にひどく馴染んでいる。彫り師の腕もあるのだろうけれど、見れば見るほどそれがただの絵だとは思えない。佐久間の背中で生きて、呼吸をし、時に咆哮を上げてもおかしくないような気がした。
「くすぐってえってばよ」
「ごめんなさい…あの、」
――下半身が重い。
「…お風呂、入らないと駄目ですか?」
「あ?」
――口のなかで唾液が粘つく。
「俺が駄目っつうか、そっちが駄目なんだろうがよ。いっつもシャワー浴びろだのなんだの――」
「駄目じゃないです」
――この男の匂いがする。
「……駄目じゃないです」
佐久間は振り返り、月本の視線に驚いたように目を見張った。それから乱暴に髪をつかんで自分の方へと振り向かせた。
「感じてんのか、お前」
「――はい」
唾を飲み込み、月本は佐久間の射るような視線を真っ向から受ける。
「…メガネ外せ」
命令する声ですら体に響いた。また唾を飲み、震える手で自分のメガネを外すと、折り畳んで差し出した。佐久間はそれを受け取ると床にそっと放り投げ、いきなりベッドに押し倒してぞんざいな手付きでバスローブの前をはだけさせた。