月本はカウンター席に腰をおろし、壁に寄りかかるようにしながらちびちびと酒を飲んでいる。店の奥のテーブル席に客が二組来ているが、それぞれお気に入りの売り子が付いているので自分の出る幕はなさそうだ。空になったグラスをカウンターに置いて、雑誌をめくりつつ大きなあくびを洩らす。
「今日は暇だね」
そう言うと、カウンターのなかで洗い物をしていたバーテンの立花が顔を上げ、「平日だからな」と苦笑した。
それでも今日の月本は既に一人の客をこなしている。実入りはあったのだから上がってしまおうかと考えていると、仕事に出ていた売り子仲間が店に戻ってきた。
「よぉ」
「隆くんだ、お帰りー」
月本は隆の手を引いて隣の席に座らせた。隆は店の先輩であり、売り子仲間のうちでは比較的気の合う友人だ。お互い仕事のない時はたまに一緒に遊びに行くこともある。
「暇そうだね」
グラスに残っていた氷を口に放り込んで隆が言う。
「も、すっごい暇。もう帰っちゃおうかと思って」
「ホントに? じゃあ俺も帰ろうかな」
その言葉を待ってましたとばかりに月本は立ち上がり、「帰ろ、帰ろ」と隆の手を引いて店長の益田の姿を探した。益田はレジを開いて札の整理をしているところだった。
「店長ー、僕ら今日は上がるねー」
そう声をかけると益田は驚いたように顔を上げた。
「もう?」
「もうって、もう三時近いし、こんな時間に注文こないでしょ?」
「あ、そんな時間か」
益田は腕時計に目をやり、「ま、しょうがないねえ」と呟いた。
「誠は明日、六時から入れるんだよね?」
「うん。もうすぐ夏休みだし、平日も入れるから人足りなかったら言って」
「仕事熱心で良い心がけです」
――お金の為だもん、当たり前じゃん。
そう内心で呟きながらも口には出さない。隆の手を引いて店のドアを開けながら「じゃあねー」と後ろ手に手を振るばかりだ。
「社内恋愛禁止だよ」
「わかってまーす」
店を出ると、とたんに蒸し暑い空気に包まれる。薄暗い階段を下りながら月本は振り返り、
「隆くん、今日泊めてくれない?」
「いいけど、誠の家の方が近くないかな」
「じゃあうち来て。泊まって」
「…どうしたの。なにかあった?」
別に、と素っ気無く答えて、しばらく無言で階段を下りた。
「ちょっと、一人で居たくないだけ」
「あれ? でも誠って、付き合ってる人居るんじゃなかったっけ」
「別れた」
「えー、なんで!?」
「振られた」
短く答えたのちにしばし考え込み、「って言うか、振ったって言うか、」と言葉を続ける。
「まあ、浮気が本気になって取られたって言うか」
「……ご愁傷様」
「どうでもいいよ」
自棄のように吐き出して月本はビルを出た。不意に表通りの方で歓声が上がり、二人は声の方へと顔を向ける。どうやらなにかの祝い事があったようで、着飾った男女数人が輪になり大声で話しながら笑い声を上げていた。普段ならどうとも感じないありきたりな光景の筈なのに、今夜は何故か笑い声が耳障りでたまらない。
他人の幸せがねたましいのは、自分が幸せでないからだ。連れと別れてまだ一週間も経っていない。八つ当たりをするように空き缶を蹴っ飛ばすと、月本は裏道から大通りへと向かって歩き始めた。
「あーあ、どっかにお金持ちで心が広くって、包容力のある男が落ちてないかなぁ」
「落し物はとりあえず交番に持っていかないと」
隆はそう言ってくすくすと笑う。
「金持ちだったら店に来るけどね」
「お金持ってるだけじゃあなあ」
「駄目ですか」
「それで済むんなら、こんなふうに腐ってないよ」
そう言って月本は自販機の前で立ち止まる。
「別にお金はなくてもいいし」
「あるに越したことはないだろ?」
「そうだけどさ。でもそれだけじゃないじゃん」
コーラにしようかコーヒーにしようかしばし迷ったのちにコーラのボタンを押した。
「お客はお客であって、連れとは違うし。…お互いの立場とか無関係に誰か好きになってみたいけど、こんな仕事してるうちは無理なのかなぁ」
「……」
缶を拾い上げて隆に振り返ると、少し困ったように笑っていた。月本は気まずさを吹き飛ばそうと、隆の腕を引いて「行こう」と元気良く歩き出した。
月本は川崎市内で独り暮らしをする大学生である。学年は一年生だが、一度受験に失敗しているので今年二十歳になる。すらっとした長身にメガネをかけたたたずまいは一見さわやかな好青年風で、女生徒の人気はなかなかのようだ。それでも普段から口数が少なく、どことなく人を避けるような空気があり、実際飲み会の誘いに乗ることは殆どない。
無理を言って大学に入れてもらったから、バイトして生活費稼がないといけないんだ――それが誘いを断わる時の決まり文句だった。事実月本の家は母子家庭で、一人息子を大学へ入れる為に母親はかなりの無理をしなければならなかった。そんな母親を助けようと、最低限の生活費は自ら働いて手に入れている。
男相手に体を売って。
もっとも、月本にとってそれは趣味と実益を兼ねた労働だった。男と寝るのは高校生の頃からやっていたことだし、性欲を満たしてなおかつ金が手に入るのだ。望まない相手としなければならない不満さえ抑えられれば、これ以上割のいい仕事はない。
週末は益田の経営する店に入って直接酒の席で客の相手をする。そこで客に目をかけられて買われることもあるが、主なのは広告を見て電話注文してきた客の相手だ。指定の場所へ行き、決められた時間内に客と寝て金をもらう。平日は曜日を決めて自宅待機とし、注文があったら連絡をもらうようにしていた。幸い顔立ちも体つきも悪くないので、注文客から断わられることは殆どない。
そんな仕事を一年は続けただろうか。
「ちょっと、嫌になってきちゃったかな」
月本はマンションの自室でシャツを脱ぎつつそう言った。隆はクーラーの風に当たりながら振り返り、「そう?」と首をかしげてみせた。
「でも誠なんか売れっ子の方だろ。固定客も居るしさ」
贅沢言ったらバチが当たるよと隆は笑う。
「僕、あんまり愛想良くないから、なんで指名付くのかわかんないんだよね」
「客の好みだよ。サトちゃんみたいな甘えん坊が好きな人も居るし、誠みたいに素っ気無い感じのがいいっていう人も居るし」
「…まあ、これで生活してるわけだから、とりあえずは辞める気もないんだけど」
けれど正直なところ、少々倦んだ気分が続いている。
まさか一生この仕事を続けることは出来ないし、金の為と割り切っていてもやはり人間相手の仕事だ。望まない媚をたまに売るだけでも神経が疲れてならず、反対に歯の浮くようなお世辞を聞かされてもかけらも信じられずにいる。誰かと個人的に付き合っても、「所詮は男娼」と見下されているような気がしてならない。開き直ることも出来ず、あげくに浮気までされて、まあようするに果てしなく落ち込んでいるわけだ。
「無償の愛が欲しいなぁ」
「売ってる側の人間が愛に飢えてちゃしょうがないじゃん」
「そんなこと言ったって、こればっかりはどうしようもないだろ」
そう言うと月本はメガネを外し、隆の手を引いてベッドに横になった。
「も、人が落ち込んでる時ぐらいやさしく慰めてよ」
「はいはい」
隆は苦笑すると同じようにベッドに横になり、自分より十センチ近くも背の大きい月本の体を抱き寄せた。
「友達としての愛情ならタダで幾らでも差し上げますよ」
「……隆くんって、意外と意地悪だよね」