佐久間は自宅の車庫のなかに自転車を入れてシャッターを下ろした。時刻は既に六時を過ぎていたが、空はまだぼんやりと明るく、沈みゆく太陽がわずかに雲を紫色に染めていた。
 台所の換気扇から魚の焼ける匂いが吐き出されている。佐久間は玄関の扉に手をかけながらその匂いを嗅ぎ取り、母親の在宅を今更ながらに実感した。そうして、これから繰り広げられるであろう一連のやりとりを想像して、ついため息をついてしまう。それでも、
 ――言ってみなきゃわかんねえしなぁ。
 あらためて深呼吸をし、覚悟を決めて玄関を開けた。
「ただいまー」
「お帰り」
 案の定、台所から母親の声が飛んできた。
 いつもなら真っ先に二階の自室へと向かうのだが、今日は廊下に上がったその足で台所へ進んだ。母親はガス台の前でこちらに背を向けたまま立っている。佐久間がもう一度「ただいま」と呟くと、母親は驚いたように振り返った。
「ああビックリした。――お帰り」
「ん」
 なにから話せばいいのかわからなくて、佐久間はカバンを小脇に抱えたまま柱に寄りかかり、足元へと視線を落とした。
「どしたのよ。ご飯もうすぐ出来るから着替えてきなさいな」
「うん…あのさ、」
 佐久間は黒縁メガネの奥からのぞきこむようにして母親の姿を見上げた。
「ちっと聞きたいんだけどさ、うちってぶっちゃけ、金に余裕ある?」
「…幾らぐらい?」
「……三四百万」
「あんた、なにやったのっ」
「なんもしてねえよっ」
 佐久間はあわててカバンを探り、入学案内のパンフレットを取り出した。
「高校。――私立行きてえんだよ」
 母親はガスの火を止めると息子からパンフレットを受け取り、まじまじと表紙を眺めた。
「海王学園高校。…聞いたことあるわね」
「江ノ島の方の学校だよ。前住んでた――」
「あーあーあー、あったあった、そんな学校。そっか、あそこ私立なんだ」
 そう言うと母親は物珍しそうにパンフレットを開いて読み始めた。佐久間はまた柱に寄りかかってその母親の顔をじっとみつめている。
 佐久間の一家は息子が小学校六年に上がる春休みの時、静岡との県境に近い辺りへ引越しをした。佐久間は卒業まであと一年というところで住み慣れた土地を離れなければならなかったが、親の仕事の都合とあればそれも致し方なかった。
 新しい学校へ入り、なんとか友達も出来た。相変わらず卓球は続けていたが、その為にどこへ進みたいという希望も特にはなかった。
 その考えが変わったのは去年の秋のことだ。卓球部の県大会で風間のプレーを観戦したのがきっかけで、どうあっても海王へ入りたいという思いが一気に湧き起こった。
 前年のうちからなにやらえらい選手が居ると話には聞いていたのだが、実際に試合を見た時はあまりの凄さに鳥肌が立った。
 あの人のそばへ行きたい。――その思いに囚われて、以来ほかのことはなにも目に入らなくなってしまった。
 海王はもともと全国から優秀な選手をスカウトしているので、無事に入学出来たとしても部で活躍出来るとは限らなかった。だけどそんなことはどうでも良かった。ただ、風間の居る海王へ行きたい、考えられるのはそれだけだった。
「…学力的にはどうなのよ。あんたのレベルで入れそうなの?」
 話を聞いた母親は、冊子から顔を上げてそう尋ねた。
「まぁ、もうちょっと頑張ればなんとかなる程度っすね」
「他人事みたいに言わないの」
 叱るように言っておいて母親はまたパンフレットへと視線を落とした。
「そっか、全寮制なんだ。…確かにお安くないですね」
「……駄目っすか」
「ここで駄目って言ったら、あきらめるわけ?」
「……」
 佐久間は口ごもり、うつむきながらぼそりと「やだ」と呟いた。
「ほかに行きてえところなんてねえしよ、…そこ行けねえんだったら、ガッコなんざ行かねえ方がマシなんだよ」
「あんた、勉強嫌いだもんねぇ」
 そう言って母親は苦笑した。
「…二三日、時間をくださいな。お父さんと相談してみないとなんとも言えないし――」
「反対するかな」
「するかも知れないし、しないかも知れない」
 母親はそう言うと、一度まじまじと息子の顔をみつめ、それから佐久間の手元へとパンフレットを押し付けた。
「やっぱり、あんたから直接お父さんに頼みなさい。どういう理由でここに入りたいのかきちんと説明して、了承を取りなさい」
「かーちゃんは? 言ってくんねえの?」
「頼み事は自分でするのが筋ってもんじゃない?」
「……そっすね」
 佐久間は呟いてパンフレットを受け取った。
 確かに母親の言うことは正しいと思うが、これほど大きな頼み事は初めてだ。これまでだってあまり親になにかをねだったことはなかった。父親は道理のわからない人ではないが、自分のような子供の言い分がどれほど通用するものなのか、不安は拭い去れない。
「大丈夫よ。きっとわかってくれるって」
 母親はそう言うと、おだやかに微笑みかけてくれた。
「着替えてきなさいよ。ご飯にしよ」
「…うっす」


 スマイルから電話があった時は十時近かった。ペコはその時既に風呂を済ませ、寝巻きに着替えて居間でテレビを見ていた。受話口のスマイルはなんだか話がはっきりせず、五分もしないうちにペコは「そっち行くよ」と言っていた。
 スマイルの家の表玄関には、人を迎える為に明かりがついていた。呼び鈴を鳴らすと、すぐさま扉の向こうから「開いてるよ」と声が聞こえた。
 扉を開けると、真っ暗ななかでスマイルが板間に腰をおろし、自分のスニーカーを踏み潰すようにして足を伸ばしていた。
「…あにしてんすか、こんなとこで」
「…考え事」
 客の為にスマイルは手の届く場所へジュースとお菓子を用意しておいてくれた。ペコは狭い玄関のなかでスマイルの横に座り、ジュースをもらいながら話を聞いた。
「――お前、高校行かねえの?」
「まだ決めたわけじゃないけど」
 驚いて横顔を見ると、スマイルは困惑したようにうつむいていた。表玄関の電灯が明り取りから射し込んで、暗がりのなかでスマイルの姿をぼんやりと浮かび上がらせている。ペコはしばらく言葉がなかった。
「……っていうかさ、なんで俺それ、今頃聞かされてんの?」
「え?」
 スマイルは不思議そうに顔を上げた。
「だってさ、…春休みって、何ヶ月前よ」
「二ヶ月以上前」
「だよな。んで二者面談が先々週でさ、――んーで、なんで俺がその話聞くの、今なわけ?」
「だって――」
 スマイルは口ごもりながら、僕の話だしとぼそぼそと呟いた。
「そりゃ、そうだけどさあ」
 なんだか納得がいかない。
 ペコはグラスの底に残るジュースを一気に飲み干して、暗がりのなかで玄関の扉をじっとみつめた。
「…んな、ちょっとぐれえ話してくれたっていいじゃん」
 そう言ったぎり、ペコは言葉が続けられなくなってむっつりと黙り込んだ。イライラとかかとを床に打ち付け、気まずい空気に戸惑いながらも、なかなか沈黙を破ることは出来なかった。
「ごめん」
 スマイルの呟きも、暗がりのなかで沈んでいる。
「…別にいいけどさ」
 ペコは気を取り直してそう言い、ジュースのペットボトルへと手を伸ばした。
「確かにお前ん家の事情だしよ、んな、俺のわがままで無理やり高校まで引っぱってくわけにもいかねえしよ」
「……」
「なに、就職すんの?」
 そう聞くと、スマイルはちらりとこちらを見てまた視線をそらせ、
「しようと思ってたんだけどさ」
「けど?」
「先生は、まだ早いんじゃないかって」
「…そっか」


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