いささか元気のない声を聞いて、スマイルが電気を消しているわけがわかったような気がした。全てが暗がりに沈み、ぼんやりとしか姿の見えないここでなら、まだはっきりと答えを出さなくて済む。お互いの顔も見えず、ただ声だけが存在を知らしめるここでなら、意地を張ることもなく、必要以上に相手を気遣うこともない。聞こえてくる声だけが全てだ。
「…俺は、そんなの考えたこともなかったからよ、単純にすげぇなとも思うし、…まあ、ちっと、寂しくもあらぁな」
「寂しい…?」
「おお」
 ペコはうなずいてグラスにジュースを注いだ。
「なんかこう、上行っても、学校は違うかも知んねえけどよ、今みたいにだらだら遊んだり出来ると思ってたからさ」
「…ペコはどこ受けるの?」
「俺? 片高。近いし、公立だし、とりあえず行っとけって感じっすね」
「そう」
 スマイルはグラスを両手ではさみ、考えにふけるようにうつむいた。
「まだはっきりと決めたわけじゃないんだけどさ」
「うん」
「…なんか、いつまでも甘えてるのも、悪い気がしてさ」
「……俺、それがわかんねえ」
「それって?」
 ペコは暗がりのなかで視線をさまよわせ、明り取りからの光に浮かび上がるサンダルを爪先でつつき始めた。
「だってさ、俺ら子供なんだからさ、食わしてもらったりガッコ行かしてもらったり、甘えんのは当然じゃん」
 スマイルがなにか言おうとするのを遮ってペコは言葉を続けた。
「そりゃいつまでも甘えっぱなしっつうわけにはいかないけどさ、いつかは恩返しってえか、そういうのしなきゃとは思うけどさ、…だからスマイルが、高校行かないで働いてお袋さん助けるっていうのは偉いと思うし、ある意味正しいのかも知んないけど」
「……」
「…なんか、なに言おうとしたのかわかんなくなってきちった」
 そう言ってペコは苦笑し、ごろりと床板に寝転がった。
「悔しいけどさ、…俺ら、まだガキなんだよな。多分、自分で思ってる以上に」
 自分ではなんでも出来ると考えていた。明日からでも自分の力だけで生きていけると思っていた。だけど、本当はどうなんだろう? 自分の家と、そこにある自分の部屋、冷蔵庫にある食べ物、蛇口をひねれば出てくる水、夜遅くまで起きていられるあの電気も、全部与えてもらっているものだ。親が毎日当たり前のように働いて、そうして与えてくれたものだ。本当に今すぐそれを自分で手に入れられるのか?
「…悔しいけどな」
 そう繰り返してペコは目を閉じた。しばらく経ってから、スマイルがぽつりと、そうだね、と呟いた。


 父親はパンフレットを睨んだまま、しばらくのあいだ言葉がなかった。テーブルをはさんで向かい側に正座した佐久間は、膝に両手を載せて、じっと父親の言葉を待っている。部屋の隅に腰をおろした母親も、なにか言い添えるでもなくただ時が流れるままに任せていた。
「…卓球の名門だったよな、ここ」
「そう。だから行きたいんです」
 佐久間は固い口調で答えた。父親はなにやらぶつぶつと呟き、面倒そうに頭を掻いた。
「もしお前が入っても、レギュラー選手とかになれる確率は低いぞ。全国回って選手をスカウトしてるんだろ?」
「そんなんわかってるよ」
 自分がどれほどぶきっちょで飲み込みが遅いかは、これまでに嫌というほど思い知らされてきた。我が父親ながら嫌なことをサラリと言いやがってと佐久間は一瞬ムカッとしたが、ここでケンカをしても始まらないのでとりあえず口はつぐんでおいた。
「そんなに凄い選手なのか。その…」
「風間さん」
「…その人は」
「鬼強ぇ」
 県大会の会場で見たその人は、ただ一人異彩を放っていた。同じ人間であることが信じられなかった。もう佐久間のなかでは彼の許へ行く以外に道はなかった。それほどまでに魅せられていた。
「…家計的にはどうなんでしょうか」
 父親はそう言いながら、ちらりと母親を見た。母親はわずかに首をかしげ、
「まあ、なんとか」
「なんとかなりそう?」
「うん」
 その言葉を受けて、父親はまたパンフレットへと視線を落とした。
「駄目なら、俺、家出るよ」
「まあそれはお前の好きにすればいいがな」
「……」
 ――あっさり言いますか、そういうことを。
 あまりにためらいのない父親の返事に、佐久間は続けようとした言葉を飲み込まざるを得なくなった。イライラと膝小僧を指で叩き、再びじっと父親の言葉を待ち続けた。
「全寮制の学校か。――お前にはちょうどいいかもな」
 そう言って父親はにやりと笑った。
「そこまで言うんだから、絶対に受かりなさいよ。高校浪人なんて許さないからな」
「――ありがとうございます!」
 佐久間は大声で答え、深々と頭を下げた。


 開け放した窓からグラウンドの歓声が飛び込んできている。スマイルは風に吹かれたカーテンが顔にかかるのを嫌って、少し教室の内側へとイスごとよけた。
「…考えたんですけど」
「うん」
 教卓には担任が腰をおろし、指にはさんだボールペンをぷらぷらと揺らしている。
「今まで、高校行ってこれ以上したくもない勉強をするのは、ただの時間の無駄だと思ってたんです」
「お前、頭いいのになぁ」
「でも別に勉強が好きっていうわけでもないですし」
「ま、人それぞれだわな」
「…高校に三年間通ったあとに働くのと、中学卒業して働くのと、なにが違うんだろうって思ってたんです。本当に、時間の無駄としか思えなかったんです」
「――人生に無駄なんて一個もないぞ」
 担任はそう言いながら、持っていたボールペンで教卓をこつこつと叩いてみせた。
「…僕も最近、そうなんじゃないかなって、ちょっと思うようになりました」
「ちょっとか」
「はい」
「お前らしい」
 担任はそう言って苦笑した。
「どこの学校を受けるのかは、もう少し考えさせてもらえませんか」
「構わんよ。どのみち願書の提出は二学期だしな。ゆっくり考えろ」
 はい、と答えてスマイルは立ち上がる。そうして荷物を拾い上げた時だ。担任がぽつりと言った。
「人に頼るのは、別に悪いことじゃないんだぞ」
「……」
「程度の問題もあるがな」
 スマイルは小さくうなずいて教室を出た。
 舞台裏の通路は相変わらずひどい匂いだ。スマイルは息を止めながら部室の扉を開けた。
「いよっ」
 使い古されたマットにペコが腰をおろして待っていた。
「説教、終わったん?」
 別にお説教じゃないんだよと思ったが、スマイルは軽く肩をすくめただけで終わりにしてしまった。棚に荷物を置いてなかからTシャツを引っぱり出す。
「…僕も、片高に行こうかな」
 着替えている最中にそう呟くと、ペコはガムの包装紙を剥ぎながら「好きにすれば?」と素っ気無く答えた。
「そうだね」
 メガネをかけ直して、スマイルも呟き返す。
 迷う為の時間はいくらでもある。そんな程度のことと人には笑われてしまうのかも知れないが、それでも、これもまたあるべきものなのだと信じたい。
 もうじき夏が来る。


浮き雲/2005.02.10


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