ペコは体育館の舞台裏へと続く狭い通路に身を滑りこませた。
 剥き出しのコンクリートの壁がしけった熱気を吸い込んだまま離さないので、通路はカビと汗をまぜあわせた嫌な匂いが充満している。更にそのなかで個別に分けられた小さな部屋の一つが、片瀬中学卓球部の部室だ。
 ペコが「うぃーっす」と呟きながら重い鉄製の扉を開けると、なかには既に数人の仲間が集まっており、着替えをしながら雑談をしている最中だった。
「あれ、スマイルは?」
 見覚えのある顔が居ないことに気付いて、ペコはスマイルと同じクラスの人間に聞いた。いつもならたいてい先に着替えを済ませて待っている筈なのだが、今日はまだ彼のものらしき荷物も見えない。
「あー、月本ならなんか担任に呼び出し食らってたぜ」
「はあ? あいつ、なにやったん」
「知らね。進路がどうとか言ってたけどな」
「へぇ…」
 ペコは肩をすくめると着替えにかかった。
 進路相談の二者面談が行われたのは先々週のことだ。中学三年の六月に行われるこの二者面談では最終的な進路をほぼ決定する場となっている。どの高校へ進学したいのか(あるいは出来るのか)を担任と話し合い、目標を決めるのだ。
 スマイルはもともと成績がいいから(それこそペコとは比べ物にならないほどだ)、なにか問題が起こるとも思えないのだが。
「星野はどこ受けるん?」
「俺? 片高。近いしよ」
「だよなー。やっぱ通うの楽な方がいいよな。片高ならレベルもそこそこだし」
「そっすね」
 その「そこそこ」の片高も、ペコの場合少し頑張らないとヤバイのは内緒だ。


 スマイルは職員室のなかで座り慣れないパイプイスに腰をおろしている。それに向かい合うようにして担任が座り、机に頬杖をついたままこちらをじっとみつめていた。滅多に入らない場所なのでもともと居心地も良くなく、なんの話だろうとほかの教師たちがさりげなく気にしている様子もうかがえるので、珍しくスマイルは落ち着かなかった。
「お前、子供の頃の夢はなんだった」
 突然担任がそう聞いてきた。
 スマイルは顔を上げて担任を見返し、なにかを答えようと口を開いておきながらも、言葉が出てこなくて不意に首をかしげた。
「なんかあるだろう。おまわりさんとか、F1レーサーとか。なんかなかったのか」
「…ないです」
「今は?」
「今も、別に…」
 スマイルは肩をすくめた。担任は苦い顔でうつむいてしまう。
「卓球はどうなんだ」
 書類にちらりと目をやって担任が聞いた。
「小さい時からやってるんだろ? なんか、プロの選手になりたいとか、あるのか」
「ないです。全然」
「……」
 スマイルの即答に、とうとう担任が深いため息をついた。
「なあ月本、お前は成績もいいし、内申書だって悪くない。別に無理にレベルの高い学校へ行けと言ってるわけじゃないんだ」
「――」
「そんなに高校へ行きたくないか」
 まるですがるような目で見られて、スマイルは思わず鼻白んだ。
「別に行きたくないとは言ってません。ただ、行く意味がないと思うから行かないだけです」
 何度も説明した筈なんだけどなと思いながら、スマイルはその言葉を繰り返す。
「なにが問題なんですか?」
「…学歴社会の波はとうに崩れ去って久しいしな、高校への進学率も徐々にだが減りつつある」
 担任はボールペンで頭を掻き、まるで独り言のようにそう話し始めた。
「せっかく進学しても、中途退学の割合は、これまた増加の傾向にあるんだ。まぁ頑張って会社に入っても年功序列で安泰だった時代は終わっちまったしな。今の時代、なにに夢見りゃいいのかわからないのは、ある意味かわいそうだと思うよ」
 ――別にそういう理由でもないんだけど。
 そう思ったが、とりあえず反論はしないでおいた。
「高校行かなかったら、なんだ、就職か?」
「そうですね。それこそ就職先があればの話ですけど」
「まぁいくらか採用の話は来てるから大丈夫だとは思うがな」
 担任はそう言うと、ふう、と息をついてイスに座り直した。
「あのな、月本。率直に言うと、俺はお前が社会に出るのはまだ早いと思うんだよ」
 思いも寄らぬことを言われて、スマイルはついまじまじと担任の顔を見返してしまった。
「確かにお前はほかの奴らとは比べ物にならないほど考え方もきちんとしている。礼儀正しいし、真面目だ。多分どこへ行っても、まぁ上手くやっていくだろう。そういう意味では心配してないんだ」
「はぁ」
「ただ少しだけ、理想主義に走る嫌いがあってな」
 担任はそう言うと、小さく苦笑するように口元をゆがめた。
「小学校・中学校までは殆ど地元の奴らばかりだったろ? クラス替えがあっても、みんな見覚えのある顔だったんじゃないか」
「まあ、そうですね」
「高校にもよるが、上に進むともう少しいろんな地域の奴らと出会える。生活環境が違えば考え方もまた変わってくるもんだ。大学なんてなおさらだ。…行きたくないと言うなら無理にとは言わないがな、俺はもう少し、そういう近い年代の友達のなかで揉まれた方がいいと思うんだよ」
「……」
「働き始めると一日なんてあっという間だぞ。今日が何曜日なのか、テレビ見るまでわからなかったりしてな」
 そう言って担任はからからと笑い、湯のみの冷めたお茶を飲み干した。
「お母さんはなんて言ってるんだ? 去年の三者面談では一応進学ってことで決まってたみたいだが」
「母親は――まあ、どうとでも好きにしろと」
『あんたがそう決めちゃったんなら、あたしがなに言ったって聞かないでしょ?』
 子供は子供らしく素直に親に甘えてろと寂しそうにも言われたが、特に反対もされなかった。ただ家計を助ける為に働くつもりならその気遣いは必要ないと釘も刺されたが。
 スマイルがそう言うと、担任は「まぁそうだわなぁ」と苦笑した。
「高校入ればバイトだって出来るだろうし、そしたら小遣いぐらいは自分で稼げるようになる。奨学金制度もあるし、…もう少しだけ甘えさせてもらってもいいんじゃないのか」
 スマイルはなにも言い返せなくてわずかに目を伏せた。社会に出るのはまだ早いという担任の言葉が頭のなかをぐるぐると回っていた。
「……」
「――ま、もうちょっとだけ悩んでみてくれや。期末テストの辺りにもう一度話し合おう。な?」
 そう言って担任はポンとスマイルの膝を叩いた。なんだか納得のいかないまま、それでもスマイルは「はい」と答えて立ち上がった。
 高校へ行かないという選択肢もあるのだと気付いたのは、三年生に上がる春休みの頃のことだった。それまでは進学するのが当たり前のように捉えていて、どこへ行こうかとぼんやり考えてもいた。だけど県内の高校の情報誌を眺めている時、どこもたいした違いはないのだと気付き、そうしたら無理をしてまで進学するのがなんだかバカらしくなってしまったのだ。
 勉強自体は好きでも嫌いでもない。今は義務教育だからとりあえず学校へ来ているという感じだ。なのにこれ以上無駄金を払ってまで――そうとしかスマイルには思えなかった――三年間も同じように過ごす必要がどこにある? それなら働いてなにがしかの金を自分の力で手に入れた方がまだマシなように思われたのだ。
 こんなふうにして引き止められるとは少し予想外だった。
 釈然としないまま職員室を出たスマイルは、教室に戻って荷物をまとめ、体育館へと向かった。部室の扉を開けると、ちょうど入れ違いにペコが出てくるところだった。
「おっ、説教は終わったん?」
「……」
 別に説教を食らっていたわけじゃないんだけどと思ったが、説明するのも面倒なので、スマイルはただ「うん」とだけうなずき返した。ペコはそれ以上追究してこなかった。


 道の角でペコと別れてスマイルは自宅へと向かった。暮れ始めの路地を歩きながらズボンのポケットに片手を突っ込み、家の鍵を何気なくもてあそぶ。そうして、今日はなにか作ってあるかなとぼんやり考えた。
 夕飯が作ってある確率は二日に一度といった割合だった。前日の残り物で済ませることも多く、なにもない時の為に冷凍食品はある程度常備されている。簡単なものなら自分で作ることも出来るし、掃除や洗濯は全て終わらせておいてくれるのだから、これ以上わがままを言うつもりはなかった。
『お前が社会に出るのはまだ早いと――』
 不意に担任の言葉が頭のなかで響き渡った。スマイルはややうつむきがちに道を歩きながら、そんなに自分は頼りないのかなと考えた。
 正直言って自分でもなににこだわっているのか良くわかっていなかった。意地でも高校へ行かないという考えじゃない。自分の力を試したいというような殊勝なことを考えているわけでもない。ただ少しでも、なにか母親を助けられることはないだろうかと思っただけだ。
『もうちょっと甘えてくれてもいいんじゃない?』
 心配してくれるのは嬉しいけどと、母親は笑っていた。そう言われるたびに、スマイルはなんて言葉を返せばいいのかわからなくなる。
 なにをどう甘えろというんだろう? 今だって食べさせてもらっているし、学校へも行かせてもらっている。毎日ぬくぬくと生きているだけで充分甘えさせてもらっているつもりだった。これ以上どう甘えろっていうんだ?
 ――まだ早い…のか。
 所詮は子供の浅はかな思い付きでしかないのか。
 そう思ったら、なんだか少しだけ、腹が立った。


こぼれ話入口へ next