孔は急に居たたまれなくなって立ち上がった。立ち去ろうとしてふと足を止め、路地に投げ出された男の両足を見下ろした。
「歩けるの?」
「一応な」
 男はビニール袋のなかを探りながら答えた。
「だがもう走れない。どんなに頑張っても俺はお前になれない。お前が足を取り替えてくれるなら、俺は命を投げ出してもいい」
 冗談を言っているのではなかった。男は最初からずっと無表情だったが、この言葉を語った時だけ、死んだようだった目に光が戻った。
「腕もくれるなら、俺の豪邸を代わりにくれてやる」
 掘っ立て小屋の間違いだろうと言い返そうとして、やめた。代わりにどんなにすごい家なのか想像してみた。きっと屋根があるから雨がしのげるのだろう。扉をつければ風だって防げるに違いない。
「上を見ればキリがない」
「…下も同じだな」
「そういうことだ。一つ賢くなったな」
 男は初めておかしそうに笑った。孔は口の端を歪めるようにして笑い返し、黙ってその場を立ち去った。


 神奈川に五年も住んでいながら、それでも日本の印象はと聞かれれば、孔は東京に渦巻くあの狂気だと答えるに違いなかった。
 最初日本に着いた時はなんだか殺伐とした国だなと思った程度だった。だけど徐々に孔にもその苛立ちが感じ取れるようになった。
 空港の殺気立った人込み、新宿や渋谷など歓楽街での騒音、我慢比べでもしているのかと思ったほどの一般道の渋滞。
 あのひどい苛立ち。
 ――なんなんだ、ここは。
 日本は経済という神に魂を売り渡したのだろうと思った。見てくれさえ整えておけば中身がどうだろうと知ったこっちゃない、そんな印象を受けた。全ての人間がなにかを装い、なにかのフリをしている。同時に全ての人間に対してそうすることを強要し、その上での付き合いを望んできた。
 言葉が難しかった。表情も本物なのか読み取れなかった。…帰りたいと、何度も強く思った。
 それでもそんな国で五年も暮らせたのだ、どこか性に合う部分もあったのかも知れない。かも知れないが、開発が進みつつある南京東路の辺りが上海のアキハバラと呼ばれるようになるとしたら、俺はこの国を出てやると孔は決意していた。
 物乞いの男と別れたあと、怒りも戸惑いも残ったままのひどく宙ぶらりんな状態で部屋へと帰り、今度はきちんと電気をつけてベッドに転がり込んだ。
 白い漆喰の天井をぼんやりと見上げながら、とりあえず明日ユースへ行ったら張に謝らなけりゃなと考える。担当の選手についてケンカのように言い合いをし、決着も着けずに出てきてしまったのだ。だけどやっぱりあいつの相手は駄目だ、俺には出来ない。
 孔はベッドの上で体の向きを変え、入口付近の電話機を眺めた。
 今月の頭、風間から電話をもらった。そちらはどうだと聞かれ、風がないから過ごしやすくていいと言ったら笑われた。機械を通しての声は少し違って聞こえる。こうして息遣いまで聞こえるのに、触れるべき体は海の向こうにあると考えて、余計に寂しさを募らせる羽目になってしまった。
 ――風間。
 あの狂気に呑み込まれていないか。大丈夫か。
 不意に携帯が鳴り出した。張からだった。
『文革か?』
「…そうだよ。なに?」
 まだ言い合いのあとの気まずさが残っていた。それを察してか、張はやけに落ち着いた声で飯でもどうだと孔を誘った。少し迷ったが了承した。話し合いを済ませてしまおうという腹積もりなのだろう。
 家のそばまで車で迎えに来てくれた。助手席に乗り込んだ孔はダッシュボードに視線を定め、張が口火を切るのをじっと待っていた。
「なにが食いたい?」
 車を出しながら張が聞いた。
「別になんでも…日本食以外なら」
 そう答えると、張が吹き出した。
「上海南駅のそばに寿司屋があるぞ。行ってみるか?」
「行かねえよ」
 ユースで働いているあいだは互いに「張先生」「孔コーチ」と呼び合っているが、仕事を離れてしまえばとたんに「コーチ」と「文革」に戻ってしまう。実際張との付き合いは長い。
 結局二人は大衆向けの食堂に入り、大皿に三種類ほどの惣菜を盛ってもらって飯にした。
「ビール飲んでいい?」
「好きにしろ。私ももらおう」
 孔は店員にビールを頼み、スープをすすった。
「周が言っていた。『同族嫌悪ってヤツかな』ってな」
「――なにが?」
 ビールを受け取り、グラスにも注がずに瓶のままラッパ飲みしながら張を見返す。
「お前と徐のことだ。プライドが高くて生意気で実力があってわがままで…」
「俺はもっと礼儀正しかったよ。あんなガキと一緒にするな」
「その台詞、五年前でも言えたか?」
「……」
 孔は返す言葉を失い、ごまかすように肉を口へと放り込んだ。
「あいつは天才だよ」
 ぼそりと張が呟いた。
「こんなこと安易に言っちゃいけないのはわかってるがな。だが才能は本物だ。才能を見分けるまでは簡単なことだ、それはお前もわかるだろ?」
「…ああ」
 フロアに立って二十分もすれば見込みのあるなしは簡単に見分けがつく。問題は、選手それぞれが持つ能力をどう上手く伸ばすかだ。
「そんなにあの子が苦手か」
「…まあね。でも半分以上突っかかってきてんのは向こうだぜ」
「やっぱり似てるから気になるんだろ。大人の余裕でかわしてやれよ」
「すいませんね、子供で」
「冗談じゃなくてさ」
 張は飯の残りを掻き込み、スープで喉の奥へと流し込んだ。
「無理に押さえつけようとするな。そりゃ確かに徐は生意気だ。世間知らずでよく人を怒らせる。だがな、あいつもどこへ向かえばいいのか自分でわかってないんだよ。まだ道がはっきりと見えてないだけなんだ」
「……」
「道を示してやれ。コーチの仕事ってのは選手を自分の言いなりにさせることじゃない、同道者になってやることだ」
「…徐の奴、自分がどれだけ恵まれてるかわかってないんだよ。ユースに居るってだけで天下取ったみたいな顔してさ。ユースに入ったところが出発地点だろ? なのに――」
「だったら、お前から教えてやれることが山ほどあるんじゃないのか」
 ユースをクビになり、再起を賭けて日本へ渡った。風間に打ち負けて本当の意味での終わりを覚悟した。
 事実選手としては終わってしまったが、全てのものがゼロになったわけじゃない。
 それはわかっているが。
 なんとなくすっきりしない気分のまま孔は張と共に店を出た。出際にもう一本ビールをもらい、道をぶらぶらと歩きながらラッパ飲みした。店の駐車場から外れた方へと歩いていく孔の後ろを張は言葉もなくついてくる。
「…俺も、あんなだった?」
 寒さに身震いし、首をすくめて孔は立ち止まる。大きなショッピングセンターの玄関前だが、店はもう閉まっていた。暗がりのなかでマクドナルドの看板が冷たい風に吹かれながら佇んでいる。張はガードレールに腰をおろして孔の姿を見返した。
「まあ…そうだな、似ているな」
「同族嫌悪ねぇ…」
 もしかするとうらやましいのかも知れない。まだ先のわからない徐、ある意味終わってしまった自分。どう見たって未来があるのは彼の方だ。
「ま、それでもお前はだいぶ変わったよ。日本でどんな性格改造をされたのかと最初は疑った」
「なんだよ、それ」
 苦笑して返した時、ふと脳裏に風間の姿が思い浮かんだ。
 こんなふうに自信を失っている時はどうしたってなにかにすがりつきたくなる。ユースに所属している限り、この先もきっとこんなことはあるに違いない。もしかするともっと大きな問題を抱え込むことになるのかも知れない。だけど全部自分で選んだことだ、自分が望む最良の形で今を過ごしている、ずっとそう思っていた。なのに。
 上を見ればキリがない。下も同じことだ。わかっている。――わかっている、なのに、とっとと逃げ出したいと思ってしまうのはどうしてだ。なにもかも放り出してあの腕のなかに逃げ込みたくてたまらなかった。もうここしか居場所はない筈なのに、そこをすら出ていきたいと思うのは何故なんだ。
 寂しいからか。辛いからか。
 本当にそんなことをすれば絶対に後悔するとわかっているのに。


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