「もう少しだけ頑張ってみろよ。お前が思うほど、徐はお前を嫌ってないようだぞ」
「…だけど、時々すっげーバカにされてる気がするんだよ」
「お前が勘繰りすぎるんだ。子供と同じレベルでケンカしてどうする」
「そうだけど…」
孔はうつむいて、指にはさんだビール瓶を所在なさげにぶらぶらと揺らしている。張が肩をすくめるのがわかった。
「嫌なら辞めるしかないぞ」
「…わかってるよ」
突然昔のことを思い出した。世界選手権の選抜から外されたことを教えられた日。
なにもかもが終わったと思った瞬間だった。数日のあいだ、まるでぼろきれになってしまったかのようになにも考えられず、ある日突然なにかのスイッチが入ってとにかく暴れまくった。酒を飲み、誰彼構わず喧嘩を吹っかけ、公安にも捕まった。あの時はもうこれ以上に最低な人生はないだろうと思っていた。
だけど、今はそれよりももっと最低な気分だった。自分が道端の石ころになってしまったような気がした。なんの役にも立てず、誰も気に留めない、どうでもいい存在。
――風間。
お前はまだ俺のことを覚えているか。
「こんなことでつまずいてたら、この先やっていけないぞ」
「――わかってるよ…!」
孔は湧き上がる苛立ちと共にビール瓶をショッピングセンターの壁に投げつけた。瓶は呆気ないほど簡単に割れ、それが物足りなくてそばの植え込みを蹴りつけた。そっぽを向いて大きく息をし、次の瞬間には泣いていた。あわてて腕を口に当ててなんとか泣き声は抑えたが、それでも泣いていることはバレバレだった。
「おい…」
張が困惑して息を呑むのがわかった。とにかく顔をそむけ、そうしながらも孔は泣き続けた。
――風間。
冷たい風が静かに吹きつけていた。嗚咽を押し殺しながら孔は涙を流し、もう一度だけだ、もう一度だけだとバカのように何度も自分に言い聞かせていた。
――こんなミジメな気分になるのは、これが最後だ。
今日が終われば、絶対に自力で立ち直ってみせる。
ごまかすように見上げた空でやけにきれいに星が輝いていた。涙が頬を流れ落ちるのをまるで他人事のように感じながら、孔は心の底で痛いほどに風間の名前を呼び続けた。
――風間。
まだ俺を覚えているか。
道端の石も同然だった俺をみつけてくれた、俺がそこに居ることをお前が俺に教えてくれた。まだ俺のことを忘れてないか、忘れてないか…。
気分転換のつもりなのか、張は車を止めてある場所まで遠回りして歩いた。すぐ脇の道路をバスが通った時、あの物乞いはもううちへ帰ったんだろうかと孔は考えた。
「…なぁ文革」
「なに?」
泣いている姿を見られた恥ずかしさから、孔はわざとぶっきらぼうに聞き返した。
「この歩き方、腰にくるんだがな」
孔は後ろから張の首に抱きつき、二人でひとかたまりになってノロノロと路地を歩いていた。
「もうジジイだな」
「やかましい、泣き虫小僧が」
からかうように言われて、孔は小さく舌打ちをする。そうして嫌々腕を放すと上着のポケットに両手を突っ込んでガードレールを蹴っ飛ばした。
「俺、来月休みもらうよ」
「来月?」
「三月。大会終わったあと」
上海を含む華中エリアと香港や福建省などを含む華南エリア合同での大きな試合が三月の中旬頃に開催される。実質上、ジュニアレベルでの中国一を決める大会と言っても差し支えはないだろう。ユースからも徐を含めて何人かの選手が参加する予定になっていた。
そんな大事な時期にチームの空気を乱してしまったことが今更のように恥ずかしかった。自らの器の小ささを嫌というほどに思い知らされ、それでも、そこから立ち直る為にはなにかご褒美が必要だった。それで唐突に思い付いて言ったのだ。
「十日…は無理かな。でも一週間ぐらいは休めるよね?」
「――現地妻にでも会いに行くのか」
事情を察して、張がにやにやしながら聞いてきた。図星をさされて孔は一瞬だけ返す言葉を失った。
「…ほかになにしに日本行けって言うんだよ」
「色々あるだろう。辻堂の先生とか友達に会うとか。――ま、好きにすればいいさ。その代わり、土産は忘れるなよ」
「あいよ」
張の車に乗り込みながら、孔は春の温もりのなかで花開く桜の姿を思い描いていた。
東京やそれ以外までも広がるあの苛立った空気はどうしても好きになれなかったが、そんななかでも不思議と心を惹かれる幾つかのものがあった。それらはまるで空気とは無関係にそこにあり、ただ自然に美しく、今考えるとなんだか奇跡のようにも思われた。
奇跡の癖に、それは自然だ。その微妙なさじ加減でいろいろなものが同居するあの国が、結局のところ孔は好きだった。あの猥雑とした喧騒でさえ、時には麻薬のように恋しくなった。
来月には風間に会える。きっと桜も咲いている。あの淡い花を見に行こう。風間と一緒に、見に行こう…。
自宅のそばまで送ってもらって張と別れた。そうして玄関の鍵を取り出している時、扉の向こうで電話が鳴る音が聞こえた。
風間は真新しいベッドに横になりながらアルコールの余韻に浸っていた。
披露宴のあと、断わったのだが結局三次会まで連れ回されて、一生涯のうちで一番酒を飲んだ日となった。くたくたになりながら新居へと帰り着き、やはり都内は楽でいいなと安堵のうちにベッドへ沈み込んでいる。
高円寺のこのマンションに入居したのはほんのつい数日前のことだった。まだ荷物も全部は片付けておらず、ダンボールに入ったまま棚のなかへ押し込めてあった。もっとも必要な家具は新たに購入したので、大学の寮から運んだ荷物はそれほどない。着替えやシューズ、卓球の道具。部屋を彩るものは唯一孔から譲り受けたミリオンバンブーのみだ。
風間はベッドから身を起こすと床の上のペットボトルを拾い上げた。そうして中身を飲み干しながら、そろそろ帰ってきてもいい頃なんだがなと息をつく。
マンションに帰り着いて部屋着に着替えている最中、どうしても孔の声が聞きたくなって電話をした。だが呼び出し音が鳴るばかりで誰も出てはくれなかった。――もっとも、孔以外の人間が出たところで伝言を頼むことも出来ないのだが。
仕方なく電話を切ってしばらく時間をつぶした。そうして今またかけ直そうかどうしようかと迷っているところなのだ。
式は盛大なものだった。花嫁は短大を出て既に金融機関に勤めているそうで、上司らしき人物の面白くもないスピーチを延々聞かされたが、それも結婚式初参加の風間にとっては面白い見ものだった。大勢の人間に祝福され、二人はひどく幸せそうだった。あらためて、うらやましいと風間は思った。
今こうして孔と離れてしまっているのは仕方がない。恐らくこれがお互いにとって一番いい状況なのだ。だけどたまには羽目を外して寂しがり、その寂しさをまぎらわす為に電話代が少々跳ね上がるぐらいは許されてもいいだろう?
結局風間は受話器を取り上げ、ダイレクトコールをかける為に長々とした一連の番号を打ち込んでいった。しばらくのあいだ空白があり、やがて上海のどこかにある孔の部屋で電話が鳴り出す気配がした。
何度呼び出したら切ろうかとぼんやり考えているうちに、不意に呼び出し音が途切れ、聞き覚えのある声が言った。
『(ウェイ/もしもし)?』
「――孔か?」
勿論、そうでない筈がなかった。
三月の下旬、桜が開花する頃を狙って孔は日本へ渡った。
一週間にも満たない短い滞在だったが、それまでの空白を埋めるかの如く毎晩のように風間と抱き合った。
夜遅くになってから風間が連れていってくれた公園では、桜が白い闇となって孔を出迎えてくれた。かすかに甘い桜の香りを嗅ぎながら、ここには全てがある、と孔は思った。
渾沌と、苛立ちと、静寂と。美しく、苦いもの。
休み明け、それまでとはまるで別人のように元気を取り戻した孔が、
「コーチ、見て見てー」
左手薬指に燦然と輝く結婚指輪を見せびらかし、「現地妻と結婚してきた」と言って再び張にお茶を吹き出させることになるのだが、まぁそれはまた別のお話。
春に臨む/2004.12.20
参考サイト:
Jリーグ「Jリーグニュース」 http://www.j-league.or.jp/document/jnews/90/06.html