風間は時々孔の夢を見る。
 それは別にどうといった展開もない他愛ない夢であり、孔はそのなかで「通行人A」のように登場する。殆ど喋ることもなく、ただそこに居るばかりだから夢のなかではなんの感銘も受けないのだが、目が醒めたあとでそれはじわじわと効いてくる。
 まずは喜びだ。孔が現実の存在であって、自分の身近に居てくれる人だという実感。そして夢ででも会えたという嬉しさ。――そして落胆。
 今はここに居ないのだという現実が、目覚めたあとの風間を複雑な心境へと追い込む。
 孔が出てくる夢を見た朝は、なかなか気持ちがすっきりしなかった。今朝もそうだ。こうしてホテルのロビーでソファーに腰をおろしながらも、どこかまだ夢の世界を抜け出せていないのではないかと思ってしまう。
「眠そうだな」
 不意の言葉に風間は顔を上げた。早川がおかしそうに笑いながらこちらを見下ろしていた。
「少しな」
 風間はそう答えながらソファーのなかで少し身を寄せた。早川が隣に腰をおろしてくる。
「なんだか緊張して、夕べはなかなか寝付けなかった」
「自分が結婚するわけじゃあるまいし」
 そう言って早川はげらげらと笑った。
「だが結婚式に出るのはこれが初めてだ」
「俺もだ。あわててネクタイ買いに行ったよ。白いヤツなんて持ってないからなぁ」
 言いながら早川は煙草を取り出して、「吸っていいか?」と聞いてくる。風間はどうぞ、というふうに灰皿を手で示し、早川が煙草に火をつけるのを見守った。
「真っ黒ならあるんだがな」
 ぼそりと呟いて早川は美味そうに煙を吐き出した。
「一昨年、田舎のジイ様が死んだ時に使った。男は楽でいいな。ネクタイ変えるだけで祝い事も葬式もこれ一つで済んじまう」
 そう言って自分の着ている礼式のスーツの袖を引っぱった。
「女性も、礼服ならあまり変わらないだろう。装飾品をつけるかつけないかの違いだ」
「ああ。だけど、やっぱ結婚式は華やかでいいな。普段見慣れてる女どもが、今日は別人に見える」
 早川はそう言ってロビーにたむろする知人連中に目をやった。つられて風間も視線を投げ、普段とは全く違ってきらびやかなドレスや和服に身を包んだ女性陣の姿を眺めた。化粧や髪型も美しく飾っており、確かに別人のようだと小さく笑った。
「ま、祝い事は盛大にやるのが一番だ」
 な? と同意を求められて、風間は「そうだな」とうなずいた。
 今日は大学の同期の結婚式なのだ。相手の女性は、風間は会ったことはないが高校時代から付き合っている人で、本人たちも周囲もいずれはと考えているような仲だったらしい。だが大学卒業前のこんな中途半端な時期に結婚式を挙げるのはさすがに予想外だったろう。いわゆる「出来ちゃった結婚」というヤツだ。
 妊娠発覚当初は籍を入れるだけで式はしないと考えていたようだが、どうも花嫁の両親から「是非に」と言われて支度金まで出してもらった為に、急遽披露宴を行うことになったそうだ。
「しかし、日も急だったろうに、よく祝日に会場が空いていたな」
 風間がそう言うと、早川はそっと顔を近付けてきて、「今日仏滅なんだぜ」とささやいた。
「本当か? いいのか、そんな日に」
「本人たちがいいならいいんじゃないの? 嫁さんの体もあることだしなぁ」
「…そうか」
 あまりもたもたしていると子供が大きくなって腹のふくらみが目立ってしまう。ウェディングドレスを着るのも難しくなる。花嫁の両親が式をねだったのも、やはり娘の晴れ姿をこの目で見たいという親心もあるだろうし、同時に娘への心配りでもあるのだろう。
「結婚して家庭を持って、子供も出来て…」
「うらやましい?」
「……」
 安易にうなずこうとして、風間ははたと考え込んだ。
 そもそも自分が結婚するなどと想像したことは一度もなかった。家庭を持つというのは自分にとってはひどく大それたことであるように思われていた。だがこうして実際に同い年の友人が結婚をしてみれば、案外それは難しく考えるほどのことではないような気もする。――が。
「まあ、そうだな。少しうらやましいな」
 そう言って風間は小さく笑った。
 たとえ結婚していなくとも、容易に会うことの出来る恋人たちはみなうらやましい。想う人と海を隔てて遠く離れてしまっている今、寂しさはいつも胸の内にあった。
 ――孔。
 今なにをしているのだろう?
 ほんの少しだけでも、私のことを考えてくれているのだろうか…。


 孔は自宅のドアを半ば力任せに開き、スニーカーを脱ぎ捨てると真っ暗な部屋を突っ切ってまっすぐベッドに向かった。そうして上着を着たままベッドに倒れ込み、頬にかすった硬いものを手探りで確かめる。朝読みっぱなしで放っておいた雑誌のようだ。イライラと床に投げ捨てて枕に顔を伏せ、腹の底に溜まっていた怒りを無声で息の続く限りぶちまけた。
 ――なんなんだ、あのクソ生意気なガキは。
 前々から肌の合わない選手だとは思っていた。何故自分が彼の指導の補佐につかされたのかずっと疑問だった。何度も異動を願い出たが聞き入れてはもらえなかった。こんなしょっぱなから投げ出してどうすると張に言われ、それは確かにそうだけどと、なんだかすっきりしないまま今日まで来た。だけどもう限界だ。
 孔はベッドの上に起き上がると、がしがしと両手で髪の毛をかきむしった。
「クソったれが」
 闇のなかへ吐き捨てるように言い、久し振りに煙草が吸いたいと思った。
 上海へ戻ってきてすぐに煙草はやめてしまった。日本のように自販機であちこちに売っているわけではないから、今の時間であれば五百メートルは離れたコンビニまで買いに行くしかない。そもそも部屋にはライターすら置いていないのだ。
 十秒だけ迷って、結局孔はコンビニへ行った。煙草とライター、ついでに晩飯を買い込んで、店を出てすぐに火をつけた。中国の煙草は基本的にどれもニコチンがきつい。いがらっぽい味を懐かしく思いながらも、何度かむせて、結局半分も吸わないうちに捨ててしまった。
 冷たい風が吹き渡り、孔は寒さに身震いする。コンビニにたどり着くまでは怒りが体を温めてくれていたが、いざ目的の品を手にしてしまうと、一気に気力が萎えてしまった。買い込んだ晩飯も食う気を失い、それでも、どこかやりきれない気分が胸の内にわだかまっている。
 ――なにやってんだ、俺。
 ビニール袋を提げながらぶらぶらと道を歩いていると、曲がり角のところに、この寒いなかでまだ粘っている物乞いの姿があった。この辺り一帯は主に外国人向けの高級マンションが集まっている場所なので狙い目なのだろう。もう一本だけ煙草を抜き取って火をつけると、孔は片腕のない男の物乞いの前で立ち止まった。
「あんた煙草吸う?」
 男はばさばさの髪をわずらわしそうに振って脇に払い、街灯が作る光に照らされながら、無言でこちらを見上げてきた。
「別に毒なんか入っちゃいないからさ。――良かったら吸ってよ」
「……」
 煙草とライターを一緒に差し出すと、男はしばらくのあいだそれをみつめ、やがてひったくるようにして受け取った。そうして上着のポケットに押し込むと不意にそっぽを向いた。
 孔は少し迷ったのちに男の脇に座り込んだ。
「腹減ってない? 握り飯あるんだけど、食う?」
「…なんなんだ、お前」
 意外に声が若いので驚いた。
 男は左腕がなく、どうやら足も悪い様子だった。壁に寄りかかって座りながら路地に向かって両足を投げ出している。座っているすぐ後ろのところに粗末な松葉杖が置いてあった。両足のあいだにでこぼこに歪んだアルミのボウルをはさんでいる。札も何枚か入っているようだったが、ちらりと見たところではどうも一元二元の札のようだ(一元/日本円で約十五円)。孔の視線に気付いて男はボウルを隠すように手元へと引き寄せた。
 薄汚れた顔はツヤを失い、強張っているように見えた。黒目勝ちの瞳は突然の接触をひどく警戒している。
 買ってきた握り飯を差し出すと、男はまたじっとそれをみつめ、やがてひったくっていった。孔が煙草を吸っているあいだに男は片手と歯で器用にフィルムをはがし、握り飯にかじりついた。
「いつもこんな時間まで居るの?」
「…今日は特別寒いからな。あともう少し居る。バスが二台来たら帰る」
 そう言って男は、コンビニの少し先にあるバス停をあごで示した。
「あの店で買い物をする。家へ急ぐ途中に俺が居る。この寒いなかだ。心の弱い人間は、自分が温かい飯を持っていることを悪く思って少しばかりおこぼれをくれる」
「じゃあ俺が居ると商売の邪魔だ」
「お前も同じだ」
 言葉の意味がわからなくて孔は男を見返した。男は道路へと視線を投げ、ひどくゆっくりと口のなかの飯粒を噛みしめていた。
「俺は余裕がある奴からおこぼれをもらう。それだけだ。まさか有り金はたいてこの飯を買ったわけじゃあるまい」
「……」
「お前はなんなんだ? どっかの偉い学校にでも行ってるのか。俺みたいな奴が珍しいか」
「…そういうわけじゃないけど」
 自分でも何故こんなことをしているのかはっきりとしない。物乞いの姿などバス停で嫌というほどに見慣れている。ただむしゃくしゃしていて、いろんなものを投げ捨ててしまいたかった。そうして、たまたまここに男が居た、それだけだ。


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