孔が寒さに身をすくませながら休憩室に入ると、既に張が来ていてテーブルで新聞を読みつつお茶を飲んでいるところだった。
「おはよー、コーチ」
 そう声をかけると張は新聞から顔を上げて「おはよう」と返し、一瞬の間ののちに苦笑した。
「もうコーチじゃないだろ」
「わかってるけどさぁ」
 孔も苦笑して返し、上着を脱ぐと自販機で温かいコーヒーを買った。入れたばかりの暖房の風が一番よく当たる場所に陣取ってイスに腰をおろす。
「なんかもう、癖なんだよ」
「まあな。私も未だにお前を『コーチ』と呼ぶのは抵抗がある」
「それはなに、新人に対するいやがらせ?」
「――お前がそういう態度だからだ」
 張はそう言ってしかめっ面を作ってみせる。孔はけらけらと笑い、張が広げる新聞の見出しに目を走らせた。が、特にこれといって目立った記事もなく、孔は大きなあくびを洩らしてテーブルに突っ伏した。
「眠そうだな」
 新聞をめくりながら張が言う。
「昨日、遅くまで映画見ててさ。路地で買ったヤツ。でもやっぱ海賊版は駄目だな。画像が荒くてちゃんと見る気になんねえや」
「なんだ、用事があるとか言ってなかったか?」
「なにが?」
 孔は顔だけ起こしてコーヒーの缶に手を伸ばした。そのまま飲むでもなく温もりを求めるように両手で包み込んで張を見返す。
「昨日、店で馬が嘆いてたぞ。せっかく誘ったのに、いっつも袖にされるってな」
「馬って…ああ、事務のお姉さん」
 呟きながら孔はやや天井を見上げ、長い髪をひっつめたうりざね顔の馬の姿を思い浮かべた。ほかの職員同様年上ではあるが、ユースのなかでは割り合い年齢が近い方だ。休憩時間に顔をあわせるとよく喋ったりはするが、特にどうといった感情もなかった。
「じらさないでデートにでも誘ってやったらどうだ? 向こうは今か今かと待ちくたびれてるみたいだぞ」
「なんで俺が」
 そう言って渋い顔をするが、張はおかしそうににやにや笑っている。お茶の入ったカップを口に運びながら、
「いいじゃないか、若い者同士。結婚しちまうとそんな贅沢、滅多に飛び込んでこないからな」
「駄目だよ。俺、日本に現地妻居るし」
 張がお茶を吹き出した。孔は驚いて思わず身を引いた。
「…大丈夫?」
 立ち上がって、そばにあった布きんを放ってやる。張はしばらくむせながらテーブルの上を拭き、涙目で孔を見返した。
「お前、現地妻って…」
 もう一度咳き込んで、
「まさか偽装結婚したわけじゃあるまいな」
「するかっ」
 半ば呆れて言い返すと孔はイスの向きを変えて座り直した。
「なんだよ、五年も日本に住んでたんだぜ? そういうのが居たっていいだろ」
「そりゃまあ、そうだが…」
 そう言いながらも、張はなんだか信じられないといったふうな顔つきでこちらをみつめている。孔は肩をすくめ、ごまかすようにコーヒーを口へと運んだ。しばらく気まずい沈黙が流れたが、下手に口を開くと墓穴を掘りそうなので仕方なく黙り続けている。
 ――結婚したくても出来ないけどさ。
 そう内心で呟きながら。
 通算で五年以上も暮らした日本から帰国し、孔は無事ユースでの指導員の座を確保した。過去に放り出されたここへ戻るのはいささか気恥ずかしくもあり、どこか屈辱も覚えたが、それでも卓球と離れずに居られるのはなによりも有り難かった。
 そうしてまだ幼さのさなかにある生徒たちに囲まれていると、俺にはやっぱりこっちの方が性に合ってるなと思わざるを得なかった。だがそれはもう自嘲としてではなく、確固たる自分の居場所をみつけられたという強い自信となって孔の内にあった。
『君が居る意味はある』
 ずっと昔、風間が呟いたたった一つの言葉が、今になって信じられないほど強く孔を支えてくれていた。その言葉を頼りに日本での時を過ごし、その結果としての今がある。
 ――なにしてんだろ。
 孔はコーヒーを飲みながら壁の丸時計を眺めた。
 上海と日本の時差は一時間。今午前九時だから、日本は十時だ。日本に居た時の孔なら、今頃は藤沢の店へ行って開店準備をしている時間だ。そのまま三時まで働き、遅い昼食を取り、そのあとは辻堂学院へ行って卓球部員の指導。…だけど、そういえば風間が普段どうしているのか、孔はよく知らなかった。
 風間はこの春に大学を卒業する。そんな時期まで授業があるなどとは思えなかったし、まぁ実業団の方で練習に励んでいるのだろうが、まさか朝から晩まで動きっぱなしということもないだろう――合宿中ならともかく。
 そもそも風間本人との付き合いは長いが、彼の友人に会ったことはないし、大学の寮もどこにあるのか詳しくはわからない。唯一知っているのは電話番号だけだ。向こうにはこちらの住所も電話も教えてあるが、それだって引越しでもしてしまえばとたんに連絡がつかなくなる。お互い別々の国に離れ、別々の毎日を過ごしている。正直言って不安は日本に居た時以上に強い。
 ――だからって、連れてくるわけにもいかないしな。
 そう思って、孔はふと小さく苦笑した。
 風間のことを思うたびに、五月のあの濡れたような晩を思い出す。
 藤沢の店を辞めた翌日、夏が最後に二人で飲もうと孔を誘った。馴染みの店でしこたま飲み、かなりいい具合に出来上がった状態でついでとばかりに夏に聞いたのだ。
『――で、どっちが告白したわけ?』
 もう既に夏は林と付き合っていた。七月で一年になると聞いて、どんな状態でどんな風に告白したのか土産代わりに根掘り葉掘り聞きだすつもりだった。夏はとにかく照れまくりながらも、告白したのは自分だと白状した。聞いている方が恥ずかしくなるような話を山ほど打ち明けられ、もうお腹いっぱいとなった時だ。夏が急に真面目な顔になって言った。
『もうさ、彼女が受験で店辞めるって聞いた時にさ、今しかない! って思ったわけよ。だってさ、駄目なら駄目でもう顔あわせなくていいし――っていう消極的な動機もあったけどさ、告白しないでその機会もなくなったままずるずる行くよりは、玉砕でもいいから言っちゃう方がすっきりするだろ』
 ――想いは、必ず報われるわけではないものだから。
 やっぱドキドキした? と聞くと、「当たり前だろ!」とひどく怒られた。
『俺意気地なしだからさ、とにかく断わられた時のことばっかり考えてたんだよな。とりあえず彼女も受験があるから変に心残りになっちゃっても悪いしさ。断わられても、「あ、やっぱり?」とかって冗談ぽく答えようとかさ、色々考えてたんだけど…』
『けど? なんだよ』
『…色々考えてさ、振られたらやっぱりあきらめる為に嫌いになろうとすんのかなって、そんなバカなことまで考えてたらさ、なんかもうどうでもよくなっちゃったんだよ。だってさ、振られてもそうでなくても――まぁそうじゃない場合なんて考えてなかったんだけど――、彼女を好きだーっていう気持ちだけはそこにあるわけだからさ』
 そこにぽつんと、何物にも邪魔されることなく、ただ純粋に浮かんでいる。
 ただ好きだ。…それだけだ。
『だから言ったんだ。「好きです」って。それだけ』
 林はしばらく呆気に取られたような顔をして、それから、ただありがとうと笑ったそうだ。
 ――君のことが好きなんだ。それだけだ。
 夏と別れたあと、孔は自宅の最寄り駅まで帰り着き、そばの公園でしばらく時間をつぶした。ブランコの柵に腰をおろして自販機で買ったお茶を飲みながら、何本も何本も煙草を吸った。ぐるぐると回り続けるいろんな想いを何度も捕まえては検分し、再び宙へ放し、結局最後にどうしたいんだと強く自分を問い詰めた。
 逃げ帰ることも出来るぞと挑発すると、ようやく本音が顔を出した。
 一言でいい、謝りたい。そうして出来れば礼が言いたかった。風間のお陰で今までやってこられた、それを伝えたかった。風間が居てくれることがどれほど助けになったか、――あの朝の出来事でさえ自分に力を与えてくれた、どんなに感謝しているか言葉になんて出来ないぐらいだ。
 そうして孔は、自分がどれほど風間を大事に想っているのかを痛いほどに実感した。それは過去のものではなく、今現在もだ。自分のしたことの重大さにようやく思い至り、しばらくのあいだは煙草を吸うことさえ出来なかった。強い後悔が押し寄せてきて、声を殺してうずくまりながらうめくようにして泣き、それでも、今出来ることだけはしようと決心した。
 ――今ここで逃げたら、俺は本物の腑抜けだ。
 財布に忍ばせていた紙切れを取り出して、そこに書かれている番号に電話した。今も通じるかわからない風間の携帯電話の番号だった。


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