孔はテーブルの上にビニール袋を広げ、そのまま指で桃の皮を剥き出した。
「…僕ももらっていい?」
「食べろ。月本が持ってきたんだ」
「指で皮を剥くのは中国式ですか」
「日本では、どうするんだ」
 桃にかじりつきながら孔が聞く。
「包丁で剥いて、切り分ける」
「面倒だな」
 そう言って孔は笑った。
「こんなもの、指で剥ける。どこでも食べられる。日本では高いな。なかなか買えない」
「そう?」
 スマイルも同じように皮を剥いて桃にかじりついた。かなり熟している。八百屋のオヤジも早いところ売ってしまいたかったのだろう。
 しばらくのあいだ二人は無言で桃を食べ続けた。そうしながらも時折スマイルは孔の顔を盗み見て、一体誰を待ってたんだろうとぼんやり考えた。
 ――前は誰と、こんなふうに一緒に居たんだろう。
「…なんだ」
 視線に気付いて孔が手を止める。「なんでもないよ」と答えて視線をそらせながら、やっぱりやめておけば良かったなとまた後悔した。
 痩せた肩が気にかかって仕方がない。
 激しい風が窓に吹きつけていた。スマイルはふと背後を振り返り、雨の音を探る。雨粒が窓ガラスにぶつかって、バチバチと音を立てている。ひどい夕立である。
「ご馳走様」
 スマイルは言って立ち上がり、流しで手を洗う。続いてやって来た孔に流しを明け渡し、タオルはないかと辺りを見回していると、また轟音が鳴り響いた。そうしてふと天井を見上げた瞬間、突然部屋の明かりが消えた。
「……? なんだ?」
「停電だぁ…すごいね」
 突然の暗闇で視界が利かない。恐々と手を伸ばすと、不意に孔の手がスマイルの腕を握った。そうして、「大丈夫か?」と言いながら部屋へと連れていってくれた。テーブルを前にして二人は腰をおろし、手でそっと探りながらビールを手にした。
「…なんか、変な感じ」
「そうだな」
 孔の笑い声がすぐそばで聞こえる。腕を握っていた手はもう離れてしまった。スマイルは孔が居るであろう方向へと視線を投げ、じっと息を凝らし、気配を探る。ビールを飲む時の喉を鳴らす音がかすかに聞こえた。
「…ねえ」
「なんだ」
 スマイルはしばらくためらったあと、
「触ってもいい?」
 そう聞いた。
 孔はしばらく返事をしなかった。無言で缶をテーブルに戻し、やがて、同じようにためらいながらも「ああ」と小さく呟いた。
 スマイルは暗がりのなかを探って孔の腕に手を触れた。そのまま腕をつたって肩に触れ、首筋に手を触れた。かすかに孔の体が震えたが、声は上げなかった。親指で孔の首をさすり、また肩をつかみ、腕をそっと握った。
 ――ホントに似てるなぁ、この肩から首のライン。
 スマイルは床の上で座りなおして、孔の腕を握ったまま、もう一方の手で孔の体を抱き寄せた。そうしてそっと背中を抱きしめると、ややのちに孔も腕を伸ばして、ゆるくスマイルの背中に両手を回した。背中を抱き、無意識のうちに孔の頭を撫でながら、スマイルは小さく息をつく。
 孔は息を殺しながらじっとしている。抱きしめた体は少し緊張したように強張っている。警戒を解くようにスマイルはそっと、何度も、もてあそぶかのように孔の頭を撫で続けた。
 ――そういえば、
 ふと顔の向きを変えて、スマイルは考える。
 ――ベッドじゃなくって、ペコとこんなふうに抱き合ったことって、あったっけ……
           ……あいつはいつも、俺を抱きしめながら、こんなふうに頭を撫でてたな。
 不意に腕のなかで孔が身じろいだ。同じように座りなおして、抱き合いやすいように体の位置を変えたらしい。
「…暑いな」
「そうだね」
 窓の外はまだやかましい。雨も風も止んではいない。扇風機も止まってしまった為に部屋の空気は停滞し、暗闇のなかで互いの存在感はいやがうえにも増している。
 ――あ、
 スマイルはかすかに鼻を鳴らす。
 ――甘い匂い。孔の匂いだ…
       ……なんの匂いだ、これ?
 ふと顔の位置を変えて、孔の首筋にそっと唇を触れた。孔は喉の奥でくぐもった悲鳴を洩らし、体を硬直させる。そのままじっとしていると、やがて孔は切れ切れに息を吐き出して体から力を抜いていった。そうしてスマイルの肩に顔を乗せて、背中に回した手に少しだけ力を込めた。
 スマイルはまた孔の頭を撫でる。
 ――もしかして、ペコも今頃、こんなふうに……
                  …こんなふうに風間も、誰かと抱き合ってるのかな。
 もしそうだとしても、文句を言えた義理ではないなと、ふと苦笑する。
 こうして暗闇のなかで抱き合っていると、腕のなかにあるのがペコだと勘違いしてしまいそうだった。違うことは重々承知していたが、それでも知らずのうちに強く抱きしめて、思わずペコと呼びかけそうになり、スマイルはあわてて唇を噛みしめる。
 ――どうしよう、
 ふと上を向いて息を吐き出した。
 ――なんで…
   …なんで、誰かと抱き合うのって、こんなに気持ちいいんだ。
 孔がそっと顔をずらせてこちらを向くのがわかった。スマイルも同じように顔の向きを変え、頬に唇を触れて、そのまま孔の唇を探った。かすかに触れ合うだけのキスをして、唇を離し、またキスをする。
 突然蛍光灯が何度か瞬き、やがて部屋に明かりが戻った。止まっていた扇風機も再び動き始め、生温い風を二人に向けて送り出す。外の風は少し収まったふうで、窓の方に視線を投げながらも、二人は互いに抱き合ったまま手を放すことはしなかった。
 スマイルは孔の頭を撫で続けている。孔は戸惑ったようにスマイルの目をみつめ、不意にうつむき、また顔を上げた。
 ――もうちょっとだけ、目は薄いんだよな…
           …こんなに薄い目じゃなかったな。
 ――腰回りはペコの方があったな。背中はそっくりだけど……
                    ……背中はこいつの方が広いな。腕はもっと太くて…。
 また唇が重なった。…もう一度。
 そっと、触れ合うだけのキスを何度も何度も繰り返しては、ぼんやりと互いの目をみつめあう。
 ――誰のこと考えてるんだろ……
     ………考えたくないのに、なんで思い出すのかな。
 真っ黒な、ビー玉のような孔の瞳が、戸惑うように揺れている。そうしながらもふとまぶたを伏せて、
 ――まつ毛、長いなぁ。
 また唇を重ねた。


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