暮れかかった空の、ずっと遠くの方に、黒い雲が漂っていた。雨でも降るのかなと思いながら孔はベッドにもたれかかるようにして腰をおろす。煙を吐き出して、煙草もずいぶん吸い慣れたなぁとふと自嘲の笑みを洩らした。
 開け放した窓から誰かの話し声が入り込んできている。暮れかかった空を見上げて、どうして夕暮れ時はこんなに不安な気分になるんだろうとぼんやり考えた。部屋に居るにもかかわらず、誰かに置き去りにされてしまったような、嫌な感じがぬぐえない。
 大きなため息をつくように煙を吐き出して孔は煙草をもみ消し、またのろのろと立ち上がる。そうして食事にしようかシャワーにしようかと一瞬迷ったのち、ざっとシャワーを浴びることに決めた。
 押入れからタオルを取り出しながら、
 ――俺、いつまでこんなこと続けるんだろう。
 またぼんやりと、そう考えた。
 ここのところ、そんなふうなことを考える時が多かった。帰りたいと熱烈に思うわけではなかったけれど、だからといってこれ以上日本に居てどんな意味があるのだと、ふと足を止めて考え込んでしまう。
『君が居る意味はある』
 どのみち上海へ帰ったところでユースに戻れるわけじゃない。卓球に関した仕事を続けるなら辻堂に居続けるのが一番だ。それはよくわかっていた。それでも、ふと我に返るように、自分はなにをしているんだろうと考え込んでしまうことがたまにあった。
 意味は、ある。
 ――わかってるよ。
 なにを悩んでいるわけでもない。ただ、風間の腕が恋しいだけだ、それだけだ。風間が言ってくれたから、日本に残る気になった。風間が居てくれたから、日本に居られた。
 風間が居ないから、日本に居たくない。…それだけだ。
「……くそっ」
 生温いシャワーを浴びながら孔はうつむいた。そうして歯を食いしばりながら、少し泣いた。


 夕立が来そうな気配がずっと漂っていた。生温い風が吹き付ける暗い道を歩きながら、スマイルはふと空を見上げる。天上は既に真っ黒な雲で覆い尽くされており、遠くの方で時折、稲光が走るのが見えた。
 やめておけば良かったかなと後悔しても、もう後の祭りだ。すぐそこに孔のアパートが見える位置までやって来てしまっていた。一度来ただけだし、タムラでのバイトを終えたあとの遅い時間だったので、何度か迷った。それでも行きつ戻りつを繰り返し、ようやくここまでたどり着いたのだ。
 今更、帰るわけにもいかない。
 片手には桃の入ったビニール袋を提げている。駅前の商店街で土産代わりに買い込んだ。閉店間際だったせいか、八百屋のオヤジがやたらとおまけしてくれた。重いんだよなぁと思いながらスマイルはアパートの前の狭い通路へと入っていった。
 一番奥の部屋の、台所の小さな窓に明かりがあるのを発見して、安堵のため息をつく。けれど呼び鈴を鳴らしても出てくる気配がない。水道の音がするのでなかには居る筈だ。もう一度鳴らしたが、音がしていなかった。仕方なくドアをノックして待った。…もう一度。
 突然返事もなくドアが開いて孔が姿を現した。そこに立っているのがスマイルであることを確認すると、
「…月本か」
「こんばんは」
 スマイルは口の端を吊り上げて笑ってみせる。
「ごめんね、急に。これ、このあいだのお礼」
 そう言って孔の手にビニール袋を押し付けると、「じゃあ」と言ってドアを閉めようとした。
「おい」
 孔はあわててドアを手で押さえて、裸足のまま外へと飛び出してきた。
「急ぐのか?」
 スマイルは孔の言葉に足を止めて振り返り、曖昧な笑顔を浮かべたまま孔の顔を見返した。
「少し、上がれ。どこか行くのか」
「…そういうわけじゃないけど」
「茶でも飲め」
 相変わらずあやふやな笑顔のまま、スマイルは小さくうなずいてみせた。そうして孔のあとについて部屋に上がる。窓枠に寄りかかるようにして床に腰をおろしながら、自分がいたくショックを受けていることをぼんやりと自覚していた。
 ――なんでだ?
 わからない。ただドアを開けた時の、孔のがっかりしたような顔を見た瞬間、自分が待ち望まれていた「誰か」ではないのだという事実を嫌というほどに思い知った。そして同時に、心のどこかで「待ち望んでいて欲しい」と思っていたことに気が付いた。――そうそう都合のいいことが、あるわけがないのに。
 開け放した窓からぬるい風が吹き込んできていた。カーテンを指で押し上げて、真っ暗な空を見上げる。鼻を鳴らすとかすかに雨の気配を感じた。
「ウーロン茶とビール、どっちがいい」
 孔の声に振り返り、
「ビール」
 そう呟いた時、不意にぱたぱたと地面を叩く雨の音を聞いた。
「降ってきた」
「なんだ」
 缶ビールを持ってきた孔が、手を止めて窓の外の気配を探った。
「雨か」
「窓、閉める?」
「いや――そっちは、いい」
 そう言って孔は、ベッドの側の窓を閉める。
「涼しくなるといいね」
「そうだな」
 ビールを取ってふたを開けると、かすかに雷が鳴るのが聞こえた。部屋のなかは、それでもさほど暑くもない。窓を閉めたせいで少し蒸し暑くはあったが、お陰で喉を通り過ぎるビールの冷たさが心地良く感じられた。
 孔がチーズと漬け物を置いていく。そうして台所に戻ってビニール袋の中身を見て、中国語でなにかを呟いた。
「え?」
「モモ、だったか、日本語で」
「そう。冷やした方が美味しいよ」
「ありがとう」
 さっそく幾つか冷蔵庫に放り込んでいる。スマイルはその姿をぼんやり眺めながらチーズを手にし、包装紙を剥いていった。
「岡野くん、調子どう?」
 孔が向かいに腰をおろした時、スマイルはふと聞いた。
「毎日走っている。月本が体力をつけろと言ったからな」
 孔はビールのふたを開けながらそう答えた。
「飛行機に乗りたくないと言っていた。怖いそうだ」
「へえ」
「日本のなかだから長くは乗らない。なにが怖いんだ?」
「高いところが駄目なんじゃないの」
 岡野の意外な弱点に、スマイルはくすくすと笑いを洩らす。
「大学は夏休みか」
「うん。九月の半ばぐらいまで休み」
「時々でいいから私とコーチを代われ。私は少し休む」
「それは無理だよ。そんな重要な仕事、僕には出来ません」
 突然雷の大きな音が鳴り響いた。二人は思わず身をすくめ、互いの顔を見合った。
「すごい音だな」
「――雨、強くなってきたね」
「窓閉めろ」
 そう言って孔は扇風機のスイッチを入れた。早く上がるといいなと思っていると、不意に孔が立ち上がり、桃を幾つか持ってきた。
「まだ冷えてないんじゃない?」
「いい、食べる。好きなんだ、これ」
「へえ」


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