――またかよ…。
 蒸し暑い空気のなかで、額から汗が流れ落ちるのを感じながら孔は目を開ける。真っ暗ななかで目覚まし時計がコチコチと静かに時を刻む以外はなんの物音もせず、そこには当然のように自分しか居ない。
 目を醒ましたのは暑さのせいだと思いたい。けれどなにか嫌な夢を見たような気もする。真っ暗ななかで全身にまとわりつく情念のようなものが、眠りの世界から自分を放り出した、そんな感じもした。
 実際のところ、どちらが原因なのかはわからない。
 ――どうだっていい。
 どのみち、また朝まで眠れないに違いない。本当に夢を見ていたのだとしても、かけらも覚えていない。どうせ覚えていたってロクな夢じゃないに決まっている。額の汗と共に前髪を掻き上げて孔はベッドの脇の棚を手探りする。煙草とライターを手にし、一本口にくわえて火をつけた。そのままライターの火で灰皿のありかを探り、枕元に引き寄せる。
 ここ一年以上、まともに眠ったことがあっただろうか? 風間がそばに居た時はあのレールの夢を見た。怖くて、いつも飛び起きて、風間が居ればしがみつき、居なければこんなふうに気だるいまま、一時間も二時間もふとんのなかでうだうだと過ごす。そんなことの繰り返しだった。
 風間と別れて夢を見なくなった。驚くほどに一度も見た覚えがない。いつも真っ暗ななかに意識が沈み込んで、そのまま目覚まし時計の音に引っぱり上げられるまで気を失うようにして眠った。そうしながらもなにか嫌な感じを覚えて――それこそ今夜のように、不意に目を醒ましてしまう。
 何日か寝不足の日が続き、ある晩、ぱったりと倒れて泥のように眠る。そんなことの繰り返しだ。気持ちのいい眠りなんて、ここ何ヶ月も――いや。
 ――そればっかりでも、ないか。
 孔は煙を吐き出して、闇のなかで光る煙草の先を、ぼんやりとみつめる。
『いいよ、一緒に寝ようよ』
 スマイルの、寝ぼけたような酔っ払った声を思い出す。
 あれから十日は経っただろうか。特にこちらから連絡を入れることはしていない。なんとなく成り行きで寝てしまったが、あの翌日は不思議なほど気分のいい目覚めだった。レールの夢も見なかった。
 なんでだろう?
 理由はわからない。ただこんなふうにして夜中に目を醒まし、ぼんやりと時間をやり過ごしていると、時々スマイルが居てくれればいいなと思ってしまった。今も人恋しくて、夜中だとは承知しているが、誰かに電話をかけたくなってしまう。
 本当にかけるべきは、多分風間になのだろう。今更ながら謝りたいと何度も思い、思いながらも、本当にかけるわけじゃない。かけたところできっと話も聞いてくれないに違いない。だからこそ、少なくともスマイルだったら受け入れてくれそうな気がして、居て欲しいと思ってしまうのだ。
 ――バカバカしい。
 煙を吐き出しながら、孔はふと苦笑した。
 それでも、あの腕に抱かれるのは心地良かった。誰でもいいつもりはなかったけれど――まさかスマイルとあんなことになるなんて思ってもみなかった――あいつも多分、俺以外の誰かを思っていたに違いないけれど、それでも。
 ため息のように煙を吐き出して、孔は煙草をもみ消した。そうして棚に灰皿を置き、ベッドのなかでもどかしげに寝返りを打つ。
 また朝まで、格闘が始まる。


 水道の蛇口を閉めてスマイルは手探りでタオルを探す。顔を乱暴に拭き、メガネをかけて、ふと鏡のなかの自分の顔に目を止めた。
 いつもと変わらない自分の姿がそこにあった。
『お前は、泣く前の目をする』
 孔の言葉を思い出す。そう言った時の、眠そうな、孔の真っ黒な瞳。
 ――どこが泣きそうなんだろう?
 じっと自分の顔に見入るが、勿論そんなことがわかる筈もなかった。
 孔の部屋に泊まってから十日が経っただろうか。まだ一度も、礼も詫びも言っていない。携帯に登録した孔の電話もそのままだ。何度か電話をかけてみようかとも思ったけれど、一体なんて言ってかければいい? 下手に話を蒸し返すのもおかしな気がするし、かといって、このままずっと知らん振りを続けるのも、どことなく落ち着かない。
 腕のなかにおさまった孔の体の感触を思い出して、スマイルはふと目を伏せる。
 本音を言えば、もう一度会いたかった。もう一度あの肩を抱きたかった。目を閉じればペコだと錯覚してしまいそうなあの体に、触れたいと思った。けれど。
 ――また我慢出来なくなりそうだな。
 スマイルは洗面所を抜けて台所へ行った。そうして冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、グラスに空ける。鼻に強く香る焦げ臭い麦の匂いに眉をしかめながら、一気にグラスの半分ほどを飲み干して、ふう、とため息をついた。
 ただ抱きしめるだけで満足出来るならそれでいい。だけど、下手に腕のなかにあれば、きっと抑制が効かなくなる。
 どうして孔は逃げなかったんだろう? 今更のようにその疑問に思い至った。嫌なら殴りつけて放り出す、なんて言っていたけれど、そうしなかったのはつまり…嫌じゃなかったってことで、いいの、かな。
 ずるずると冷蔵庫にもたれかかるようにして床に座り込みながら、スマイルはぼんやりと考えにふけった。
 恐らくそうなのだろう。本当に嫌だったら素直に男に抱かれたりなどしない筈だ。多分、前にも誰かと付き合っていて、なんらかの理由で別れたに違いない。――そういえば、
『昔、人にひどいことをした』
 そう言っていた。
 ――お互い様なのかな…?
 ふとスマイルは考えた。
 泣く前の目をする――そう言う孔も、時々ではあるけれど、こちらをじっと見てなにかを思い出すような表情をすることがあった。海辺で会った時もそうだった。ふとなにかをみつけたように、驚いた顔をしていた。
 お互い様。
 そうであれば、少し甘えてしまっても、構わないんじゃないだろうか。グラスに口を付けながらスマイルは思った。ギブアンドテイクというわけではないけれど、…自分が孔になにを与えられるのかはわからないけれど。
 ――言い訳だな。
 スマイルは自分の考えを他人事のように眺めて、ふと苦笑した。
 そう、言い訳だ。結局のところ、孔の気持ちがどうであろうと関係ないのだ、ただ単にもう一度あの体を抱きしめたい、本音はそれだけだ。
 おのれの身勝手さを嫌というほど思い知り、どうしようもなくなってしまい、ふとスマイルは両足を抱え込む。そうして膝に顔を押し付けて、
「ペコー…」
 助けを求めるように呟いた。
 ――なんでここに居ないんだよ。
 本当に、それだけが望みなのに。


 連日のように暑い日が続いていた。ただでさえ蒸し暑くてたまらないのに、卓球はカーテンで自然光を遮ったなかで行われる。通常の練習であってもそうだ。おかげで部活が終わる頃にはTシャツが搾れそうなほど全身汗まみれになっている。
「お疲れ様でした」
 孔は顧問の藤田に声をかけて体育館を出た。日は既に暮れかかっているが、太陽に焼かれたアスファルトが空気中に熱を放出しており、暑さにうだりながら孔はアパートへと帰り着いた。もはや食事を作る気力などかけらも残っていない。荷物を投げ出して、板張りの台所の床にそのまま転がり込む。そうしてわずかながら冷たい板の感触に、ほっと息をついた。
 ――飯、どうすっかな。
 埃臭い匂いに鼻を鳴らしながら孔は考えた。冷蔵庫のなかには殆どなにも入っていない。三ヶ月ほど前に買ったまま放り込んであるビールが何本かと、漬け物の残りと玉子がある程度だ。今から食材を買い込んで料理をするなど以ての外だし、かといって外へ食べに出るほどの元気もなかった。
「…あ」
 ――ソーメンがある。
 もうそれでいいやと、ようやくのことで孔は起き上がり、とりあえずの一服と煙草を取り出して火をつけた。そのままのろのろと部屋に上がり込んで窓を全開にする。扇風機のスイッチを入れてこもった部屋の空気をかき回しながら、ふと涼しい風が入り込んでくるのに気付いて外を見た。


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