「じゃあそれからずっとですか」
「いや、残念ながら順風満帆とはいかなかった。いろいろと紆余曲折があってな」
そう言って風間は苦笑した。グラスを口に運びながら、ふと考え込んでしまう。
「もっとも、結局は日本と上海に離れて暮らしているしな…先のことはなにもわからないままだ」
「……」
「女性との付き合いと違って、結婚するわけにもいかんしな」
「そうですね…」
ふと見下ろすと、孔はなにも知らないまま気持ち良さそうに眠っている。君の話をしているんだぞと、つい言ってやりたくなった。まさか誰かにこんな話をするなど思ってもみなかったことだ。
「やっぱり不安になることとかあります?」
橋本の言葉に風間は顔を上げた。
「その…離れてるっていうのもそうだし、男同士っていうのも…」
「――そうだな、確かに不安と言えば不安だな。だが全部が不安だらけで、結局のところはなにを心配しても始まらないんだ」
会いたくなっても簡単に会えるわけではない。お互いが目指す場所も違う。未来は、なにもわからない。
「いつも考えるのは、どうしたら彼が幸せでいられるか、そればかりだな。私はどうでもいいんだが」
「それは駄目ですよ。二人で幸せになる方法をみつけないと」
そう言って橋本は渋い顔をする。
「男と女だって同じでしょう。別に結婚したからって即幸せになれるわけでもないと思いますし…まあ結婚したことがないから偉そうなこと言えませんけど」
橋本の言葉に小さく笑い返して、風間は「そうだな」と呟いた。
ふと孔の寝顔を見下ろして、そっと頭を撫でながら、それでもやっぱりそればかりを考えてしまうんだと心の内で語りかけた。
――君が幸せである為にはどうしたらいいのか、そればかりが気になるんだ。
夜中にふと喉の渇きを覚えて孔は目を醒ました。体を起こすとなにかが背中から滑り落ちた。誰かが上着をかけておいてくれたようだ。暗がりのなかで目を凝らしながら、すぐ脇で眠っているのが風間だと確認した。ベッドでも誰かが眠っている。多分風間の後輩だろう。名前は…なんだったっけ?
孔はコタツの上を探り、グラスの底に残っていた水を飲み干した。そうしてあらためて横になり、上着を風間と共にかぶろうとして、失敗する。ずるりと向こう側へ落ちてしまい、あわてて体を起こして引き寄せた。再び横になって息をつくと、不意に風間が腕を伸ばして孔の体を抱き寄せた。
「起きたのか?」
小声でそっと呟く。
「喉渇いた。まだ寝る。まだ夜だ」
「そうだな。…寒くないか」
「大丈夫。風間は平気か」
「君がカイロ代わりだ」
そう言って小さく笑った。
そっと唇を重ねて、二人は目を閉じた。どんなにそばに居ても、悲しいことに夢のなかでは別々だ。
「名前、なんだったか」
孔はベッドの脇に座り込みながら風間に聞いた。
「橋本だ。…無理に起こさなくていいぞ」
「わかっている」
そう答えて振り返ると、既に橋本は目を開けて孔を不思議そうにみつめていた。
「おはよう」
そう声をかけるとあわてて体を起こして「おはようございます」と答えた。そうして部屋のなかを見回して、驚いたように髪の毛をかきむしった。
「起きたか?」
台所から風間が身を乗り出すと、
「おはようございます。すいません、ベッドお借りしちゃって」
「構わんよ。二日酔いはしてないか?」
「大丈夫です」
言いながら橋本はベッドを抜けて台所へ行った。
「すいませんけど、水もらえますか」
「ウーロン茶もあるぞ」
「あ、じゃあウーロン茶を」
孔はベッドに寄りかかりながら二人の後ろ姿をぼーっと眺めている。起きてからだいぶ経つ筈なのに、まだ頭の半分が眠っているような感じだった。
「美味そうなの作ってますね」
「違う。作ったのは私。風間は温めるだけ」
そう言うと風間は苦笑して、
「私がこんなものを作れれば苦労はしないさ」
中国式朝飯ということで薬膳粥を煮ているのだ。昨日出かける前に材料を買っておいた。材料をぶち込んで味付けして煮込むだけだから楽でいい。
「風間も覚える。簡単だ」
「あとでレシピを頼むよ。君は料理を手慣れているからいいだろうがな」
橋本は立ったままウーロン茶を飲み、楽しそうに笑っている。
「シャワー浴びるか? 出てくる頃には出来上がると思うが」
「あー、お借りします」
そう言って橋本はユニットバスに消えた。孔はふと立ち上がり、冷蔵庫から同じようにウーロン茶を取り出してグラスに空け、風間がゆるゆると粥をかき回すのを眺めた。
「どれぐらい煮込めばいいんだ?」
「食べて美味しくなるまで」
「簡単に言ってくれるな。食いながら調べろということか?」
「粥だから煮込みすぎても不味くならない。焦がさなければ、大丈夫」
「なるほど」
独り暮らしを始めたとはいえ、料理は殆どしないようだった。もっとも、自分が自炊をしていたのは、金がなくてやむを得ずだった。しないで済むならそれでいいのかも知れない。
「…時々、君の料理が恋しくなるよ」
そう言って風間は微笑んだ。
「人に作ってもらった料理がどれだけ貴重なものか、自分で作るようになってようやくわかった」
「まずは母親に感謝。それから私に感謝」
「そうだな。毎日当たり前のように作ってくれるのだからな」
「――今日、鍋にするか」
ふと思い付いて孔は言った。
「それもいいな。あとで土鍋を買いに行こう」
グラスに口をつけたまま、孔は片手でガッツポーズを取る。
「やはり向こうでは日本食は無理か?」
「一応店はある。日本の材料が置いてある。味噌、しょうゆ、みりん。だけど少し高い。毎日使うとすぐになくなる」
食いたいとは思うがそれほど頻繁にも作れない。
「おかしなものだ」
「なにがだ」
「日本に居た時は中国の味が懐かしい。中国に戻ると日本の味が懐かしい」
「第二の故郷みたいなものだな」
そう言って風間は笑った。
――近いけれど遠い国。
時々日本でのことを夢に見た。辻堂での部活の場面だったり、藤沢の店で働いていたり、あの狭いアパートで誰かと一緒に居る夢。特にどういったことでもない筈なのに、だからこそ余計懐かしくなってしまう。
孔はふと風間の横顔をみつめた。視線に気付いて風間は振り返り、
「なんだ?」
「…別に」
しばらく二人は黙ったまま粥の煮える匂いをかいでいた。
「もういい」
孔は火を止めさせて、仕上げにごま油を垂らす。そうして粥をかき混ぜながら、こんなふうに一緒に居るのが自然なのに、また離れなきゃいけないんだなとぼんやり考えた。
――ずっと、そばに居たいのに。
「うあー、美味そうっすねえ」
橋本の声に孔は振り返る。
「橋本さん、タイミングいい。ちょうど出来た」
「匂いにつられました」
そう言って橋本は笑った。