「ジュニアユースって、あのジュニアユースですか?」
「『あの』?」
「上海ジュニアユースだ。そうだよ。もともと孔もそこの選手だったんだ」
「すごいですね」
「でももう選手ではない。今はコーチ。教える方」
 そう言って孔は少し寂しそうに笑った。
「橋本さんも、卓球部か」
「そうです。五月に春季大会があって、それを最後に引退です」
「頑張れ。ちなみに戦型は、なに」
「前陣速攻です」
「星野と同じだな」
「そうだな」
 風間は酒を一口飲んでうなずいた。
「最近はペンの裏も、定着してきてるみたいですね」
「そうか。まあやはり裏が使える方が守備範囲は広がるだろうしな」
「中国ではペンホルダーの裏は当たり前だ。日本で見たのは星野が最初だったが」
「驚いたろう」
「冗談かと思った」
 孔の言葉に、二人は笑い声を洩らす。
「風間さんは、星野選手とは…」
「高三の時に対戦した。インハイの予選と本戦でな。本戦では優勝を争った仲だ。ま、負けてしまったがな」
 そう言って風間は苦笑する。
「あの男はすごいな」
「同い年ってのが悔しいっすよ。ドイツの一部リーグですからね」
 片や俺ときたら…と呟きながら、橋本はふと孔に視線を投げる。つられて見ると、孔は早々テーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。二人は思わず顔を見合わせて小さく笑った。
「孔、起きろ。寝るならベッドに入れ」
 そう言って風間が肩を揺すると嫌そうにうなりながら孔は目を開けた。そうして寝ぼけたような目でじいっと風間をみつめ、
「かざまぁ」
 にやけた顔でそう呟くと、コタツから身を乗り出して不意に風間に抱きついた。
「勘弁してくれ、孔。孔?」
「ここがいい…」
 ――まいったな。
 内心ため息をつきながら、風間は足の上にどっかりと居座る孔の背中をみつめた。そうして困ったように橋本の顔を見上げて、
「…今更、見なかった振りをしてくれというのは、無理な話だよな」
「……いや、っていうか、――え?」
 橋本はグラスを手にしたまま、呆気に取られたように風間と孔を見比べている。
「えっと、…違ったら大変申し訳ないですけど、…え? そういうこと…なんですか?」
「…まあ、そういうことだ」
 風間は観念してうなずいた。恐怖半分、面白半分で橋本の顔を眺めていたが、相変わらず呆気に取られたような表情なので、思わず言ってしまった。
「別に単純に男が好きというわけではないからな、襲ったりはしないぞ。安心して泊まれ」
「……そう言われると、余計に警戒したくなるんですけど」
 そう言って橋本は小さく吹き出した。つられて風間も苦笑する。
「済まないが、孔の上着を取ってくれないか」
「はい」
 放り投げられた上着を孔の背中にかけてやり、小さくため息をついて風間はグラスを手にした。空になったのを見計らって橋本が焼酎を注ぎ足してくれる。
「気味が悪いか?」
「いや、それは――」
 否定しておきながらも、焼酎の瓶を手にしたまま、本気で橋本は考え込んだ。やがて戸惑いながらぽつりぽつりと返事を始める。
「まあ…確かに驚きっちゃあ、驚きっすよね。っていうか、前から風間さんの彼女って、どういう人なんだろうって思ってはいたんで……すっげー意外なカードですねぇ」
「そうだな。――確かにな」
 誰が普通、男同士で付き合うなどと考えるだろうか。
「えっと、今更確認しますけど――付き合ってらっしゃるんですよね…?」
「――ああ」
 風間はそっと孔の頭を撫でてうなずいた。
「この人が私の恋人だ。…もっとも、そんなふうに紹介したのは、君が初めてだがな」
「――光栄です」
 そう言って橋本はグラスをぶつけてきた。風間は小さく笑いながら酒を口に運んだ。
「まぁなんだ。言い訳をするつもりではないが、たまたま惚れた相手が男だったという感じでな」
「そうなんですか」
「ああ。未だに、どこがいいのか自分でもわからないんだ」
 孔も自分のどこがいいと思っているのか。
 ――そういえば聞いたことがないな。
「なあ橋本、頼みがあるんだが」
 風間は孔の頭を撫でながらふと顔を上げた。
「なんですか」
「出来たらでいいが、あまり言いふらさないでくれないか。私は別に構わないんだが、よく知らない人間に、彼のことを面白おかしくうわさされるのは嫌でな…」
 まだ海王に居た頃、からかうように人の口の端に孔の名前がのぼるのを何度か聞いた。それを聞くたびに、なにも知らないくせにとひそかに怒りを覚えたものだ。
 どれほどの努力と屈辱にまみれながらあがき続け、それでも決して手が届かない場所が確実に存在するのだと、目の前に同じ人間として知らしめられることの悔しさも。
 もう一年早く始めていたら、あの時もっと努力していればと、そんなふうに後悔させられる苦しみも、なにも知らないまま彼らは笑う。
 ――君たちは、
 嘲るような笑いを同じく笑顔で聞き流しながら、風間はよく思ったものだ。
 ――いつかは同じように私のことも笑うのだろうな。
「…まあ、無理にとは言わないがな」
 返事がないので不思議になって顔を上げると、ひどく感心したような表情で橋本がこちらをみつめていた。
「なんだ?」
「いや…ちょっと、感動しまして」
「感動?」
「……大事なんですねぇ、その人のことが」
 あらためてそう言われてしまうと、どう返答して良いのかわからなかった。風間は困ったように苦笑して、小さく首をかしげるにとどめた。
「どこで知り合ったんですか?」
「初めて会ったのは高校生の時だ。神奈川県内に辻堂学院高校というのがあるのを知っているか?」
「…聞いたことがある程度ですね」
「そこの留学生だったんだ。卓球部の顧問がわざわざ上海から呼んだんだ。…その頃、彼はジュニアユースをクビになったばかりでな。再起を賭けての来日というわけさ。当時私は海王に居て、インハイの予選で彼と対戦した」
 そうして勝ちを奪い、同時に孔の未来をも奪った。
「…結局、ユースには戻れないまま辻堂を卒業した。そのあとは辻堂のコーチとして日本に残って…親しくなったのはその頃だな。たまに飯を食ったり酒を飲んだり、まあ普通の友人として付き合っていた」
「ちなみに告白はどちらが」
「私だ」
「勇気要りましたでしょう」
「そうだな…」
 それでも、言わずにはおれなかった。
「二度と会えなくなると思ったよ。絶対にそんなことを言ったら嫌われるとな。――君も、男に好きだと言われたら困るだろう?」
「まあ…そうですね。相手にもよるとは思いますけど…でも、そうだなあ、やっぱ仲が良くても、ちょっと困るかなぁ」
「それでも騙し続けるよりはいいと思ってな」
「騙す? なにをです?」
「上っ面だけの気さくな友人として、いい顔を続けていることがだ」
 自分の下心を知らないまま孔は出迎えてくれる。笑顔を向けられれば向けられるほど、いつばれるのだろうと怖かった。笑顔を見たいと思うのに、見るたびに罪悪感が溜まっていった。
「結局、どこまでいっても仲のいい友達でしか居られないのがどうにも我慢ならなくてな、嫌われてもいいからと想いを伝えたんだ」
 そう言うと、「風間さんらしい」と橋本は笑った。


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