店を辞めてまだ一年も経っていないのに、不思議と懐かしくて仕方がなかった。孔は藤沢の駅を出てどきどきしながら店の自動ドアを抜ける。「いらっしゃいませ」と呟きかけた声が一瞬止まり、お互いが誰であるのか、確認するのに一秒必要だった。
「孔さん!?」
「こんばんは」
レジカウンターのなかで林が驚いた顔をしている。それに笑いかけて孔は店のなかを見回した。土曜の夜、九時を回った店内はまだ混み合っていた。少しまずかったかとも思ったが、後の祭りだ。今から帰るわけにもいかない。
「やだ、すっごい久し振りー。いつ日本に来たの?」
「三日前。林さん、元気か」
「うん、元気だよぉ。え、誰かと待ち合わせ?」
「違う。ご飯食べに来た。お客さん」
「そっか。じゃあ案内しなくちゃね。一名様、ご案内でーす」
林はおどけたようにそう言って孔をテーブル席へ連れていった。上着を脱ぎながら孔はイスに腰をおろし、代わり映えのしない店のなかをあらためて見回す。誰か見知った顔はないかと客の顔を眺めるが、残念ながら知り合いの姿はなかった。
メニューを開いて、さてなにを食べようかと考え込んでいると、
「歓迎光臨(ハンイングァンリン/いらっしゃいませ)」
水の入ったグラスを差し出しながら店長が笑っていた。
「久し振りだな」
「こんばんは」
孔は思わずメニューを置いてイスから立ち上がった。懐かしい顔を見て自然と笑顔がこぼれた。
「まあ座れや。お前、客なんだから」
「はい」
笑いながら孔はうなずき、イスに腰をおろす。つられたように店長も向かいの席に座った。店長は厨房用のエプロンを身につけたままだ。
「なか、大丈夫ですか」
「心配するな。もうこの時間だからな。今更ちゃんと食事しに入ってくる客なんざ、お前ぐらいのものだ」
そう言って店長は笑った。
「元気だったか」
「はい。店長も相変わらずですか」
「おお。相変わらずだ。今日はどうした。仕事か?」
「違います。観光です」
「今更どこ観光しようってんだ」
そう言って店長はおかしそうにからからと笑う。ふと厨房の方から気配を感じて振り返ると、見知った幾つかの顔が笑顔で手を振っていた。孔は笑って手を振り返す。
「夏には会ったか?」
「まだです。まだ日本に居ますか」
「おお。あいつ、こっちで就職先みつけたらしいぞ。この就職難のご時世に、たいしたもんだよなぁ」
「連絡先、わかりますか」
「電話は変わってない筈だがな」
それならばと孔はうなずいた。携帯は日本を去る時に捨ててしまったが、登録しておいた番号は書き残してある。
思った以上に手は空いているらしく、林を始め以前の同僚たちが代わる代わる顔を見せに出てきてくれた。共に料理をつまみ酒を飲み、そうして互いを懐かしんだ。こんなに歓迎されるとは思っていなかったので少し驚いたが、素直に嬉しかった。やっぱり来て良かったと、酔いの回った頭で孔は思った。
「どこのホテル泊まってるんだ?」
今日は俺のおごりだと、店長が老酒の瓶を開けさせた。そうして赤い顔をしながら聞いてくる。
「ホテルは違います。友達が都内に住んでいて、泊めてくれています」
「じゃあ金がかからなくていいな」
「はい」
「都内戻るなら、そろそろ行かなきゃじゃない?」
空いた皿を下げに来た林が、壁にかかる時計を見てそう言った。藤沢から新宿までは急行に乗っても一時間かかってしまう。残念だが行かなければ。
「いつでも遊び来いよ。まあ飛行機代もそんなに安くはないだろうがな」
「店長たちが来てください。上海案内します」
「それもいいなあ」
笑顔で見送られながら孔は店を出た。藤沢の駅で小田急線を待つ。向かうは高円寺だ。そこに、風間が新しく借りたマンションがあるのだ。
「やっべ、今日って土曜日でしたっけ」
今更のように時計を見て橋本が声を上げた。そうだがと呟きながら風間は混み合った山手線のなかで身じろいだ。
三月の下旬、部活の後輩たちが送別会を開いてくれた。監督の吉田やほかの連中はまだ飲むようだったが、風間は一足先に帰らせてもらうことにした。本音を言えばもっと飲んでいたかったが、三日前から孔が来ている。一人にさせるのはしのびない。
一学年下の橋本も、家が遠いからと言って風間と共に呑みの席を退散した。そうして渋谷からそれぞれの家へ向かう途中で、橋本が「土曜日でしたっけ」と今更のように確認したのだ。
「どうした」
「…最終が今、発車しました」
「本当か?」
「まいったなぁ。平日だったら余裕で間に合った筈なのに」
今日もタクシーでご帰宅かぁと呟いてため息をついている。
「幾らかかるんだ」
「…六千円も払えば釣りはくる筈なんですがね」
「そんなにか」
どんな遠くに住んでいるんだと思わず風間は目を見張った。そうして少し迷ったのちに、「家で良ければ泊まるか?」と聞いた。
「いいんですか?」
「もう一人居るから、少々手狭だがな」
「いや、もう構いませんよ。っていうか、え? もう一人って、彼女っすか」
「違うよ。友人が上海から遊びに来ているんだ。ホテルに泊まると金がかかるだろう。それでな」
「へえ。いいんですか? お邪魔なんじゃ――」
「一日ぐらい構わんさ。そんな話を聞いたら放っておけんしな」
そう言って風間は苦笑した。
新宿から中央線に乗り換えて高円寺で下りる。お互い少し飲み足りなかったので、途中のコンビニで酒とつまみを買い込んだ。そうしてぶらぶらと大通りを行った。
高円寺にマンションを借りたのは先月の末のことだ。大学を卒業して実業団での活動一本に絞られることが決定した時、一旦は自宅へ戻ろうかどうしようかと迷ったのだ。だがあえて自分を追い込んでみようと独り暮らしをすることにした。お陰で家事の苦労を存分に味わっている。
「寮の申請はしなかったのか?」
「したんですけどね。定員オーバーではじかれちゃいました」
苦笑する橋本に笑い返しながら風間はマンションのドアを開けた。まだ孔は戻っていないようだ。藤沢の店に顔を出すと言っていたので、懐かしい人たちと飲んでいるのだろう。コタツのスイッチを入れて橋本を座らせると、風間は部屋着に着替えて酒の用意をする。
「広いですね」
「そうか? それでも七畳しかないんだがな。荷物があまりないせいだろう」
大きなものはベッドとテーブル代わりのコタツ程度だ。目立つ装飾品は、孔から譲り受けたミリオンバンブーしかない。
焼酎をロックでグラスに注ぎ、二人はあらためて乾杯した。
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう。君は春季大会に出るんだったかな」
「はい。それが最後ですね。就職活動もしなきゃならんので…」
「頑張れよ」
「風間さんも。世界選手権の選抜、五月ですよね」
「ああ。ま、どうなるかはまだわからないがな」
そうして二人で飲んでいると、やがて呼び鈴が鳴らされた。
「ただいまぁ」
ドアを開けるといい感じに出来上がった孔がそう言って抱きついてきた。風間はあわててその手を離して、
「お帰り。ずいぶん飲んでるな」
「店長に飲まされました。みんな元気でした」
「それは良かった。ところで今日はもう一人客が居るんだ。大学の後輩なんだが…」
ふらふらになりながら孔は部屋に上がった。そうしてコタツに入って酒を飲んでいる橋本を見下ろして「こんばんはぁ」と酔いの回った口調で挨拶をし、上着を脱いで放り投げた。
「どうも、お邪魔してます」
「孔文革だ。上海の出身でな、今ジュニアユースで指導をしている」
空いている場所に腰をおろし、風間がそう言うのにあわせて孔は頭を下げる。
「橋本です。風間さんには大学でお世話になりました」
「孔です。初めまして」
そう言って孔はにっかりと笑い、風間が飲んでいたグラスに口をつける。
「まだ飲むのか?」
「飲む。二人が飲んでいるのに、私だけ仲間はずれは寂しい」
「二日酔いになっても知らないぞ」
風間は苦笑しながら新しいグラスを持って帰ってきた。そうしてコタツに入るとあらたに自分用に酒を作り、口に運ぶ。